前回からのつづきです。
さて、あなたはそろそろ重力に抗うまでの力を獲得し、立ち上がります。
よち、よち・・・
そして新世界を耕すために、新境地への冒険の旅(歩行移動)を開始します。
制約が解除されて行動範囲がひろがると、広大な外環境の立体地図が頭の中にできていきます。
こうして脳内に構築されるのが、あなた独自の解釈世界というわけです。
その世界の中で(世界はむしろ、あなたの中にあるのですが)、あなたは自分の肉体を稼働させ、感覚器で刺激を受容しては反応し、外環境からの応答を脳内に反映させて、図面を精緻なものにしていきます。
そうして脳内世界を切り拓いていくうちにあなたは、「判断する」「考える」という作業を覚えます。
反射反応頼みのディフェンス一辺倒だった戦略に、オフェンス(外環境への意図した働きかけ)が加わるのです。
もはや与えられるだけではなく、目的を持ってそれをつかみ、嗅ぎ、味わって、脳内のクオリアを豊かなものに育てていきます。
さらにあなたは、例のいちばん近しい生物個体に「ママ」と呼びかけてみます。
すると、ママは大よろこびをして、あなたを抱きしめてくれます。
このコミュニケーションの成立は、お互いの個体を識別する以上の意味を持ちます。
あなたは、外環境との対立軸としての主体(他者に対して、より内的なもの)の存在を理解し、双方の関係への能動性を獲得したのです。
ここはとてつもなく重要な部分なので、最新の注意を払って描写します。
あなたは、脳内に築いたあなたの世界に社会性という概念を持ち込み、その中心に「核」を置いたわけです。
周囲という観念を相対的に生じさせる、真に本質的なものの存在を。
それが「自己」なのです。
あなたは、ついに自分という存在に気づいたのでした。
外環境と自分、という相関関係は、あなたの世界にとって目覚ましい発展です。
視界に映る光景を記述することしかできなかった能力が、主体との関係性で説明できるようになったのですから。
次元がひとつ上のステージへの創発と言っていい、画期的な瞬間です。
身動きも出来なかった赤ちゃんの頃から外環境を観察し、成長するに従って周囲に働きかけることを覚え、双方向の応答によって学び、世界の認識を高めていくうちに、その中心に位置するところである一人称の概念が、突如として意識されました。
その萌芽は、まさにビッグバンの特異点のような閃きです。
そこから先は、新時空間が開いて膨張し、星ぼしが散りばめられていくような勢いで、「自分」という存在への肉づけが行われていきます。
社会と名を変えた周囲には、自分の姿が鏡のように映り込んでいるので、その中で振る舞うことは「あなたがあなた自身を理解する」という作業でもあります。
多角的で多面的で広くて深くて濃くて・・・まさしくひとりの人間のアイデンティティが形成されていく行程です。
そうしてあなたがあなたの内部に胚胎させた一人称の意識は、主体的な経験を重ねる肉体と同化し、明確な「あなた」となっていくのです。
声を出してみて「わたしとはこんな声か」と、鏡を見て「わたしとはこんな姿か」と、手足を動かしてみて「わたしとはこんな能力か」と。
そして社会のいろんな要素との相互作用の中で、自分という存在の要素をふくらませて「わたしとはこういう人間か」と。
こうしてついに、「わたしとは、わたしの中身なのだ」と、つまり自我に行き着くわけです。
さて、ここまで純粋に、遺伝子の命令と細分化された細胞の働き・・・すなわち、機械的な反応と対処、さらに学習機能によって、あなたは生命活動をつづけてこられました。
その間に、ふと振り返ると、タマシイが肉体に宿る瞬間はありませんでした。
あなたは、いつあなたになりましたか?
それは、いつからともなく、内側から湧いてきたのでした。
「わたし」とは・・・言いかえれば「心」とは、神さまとは関係なく、こうして物理学と生物学、医学生理学のみによって生ずるのではないでしょうか。
わたしとは、霊的なものではなく、タマシイの形をしてもいません。
遺伝子が支配する生命装置の奥底で、感覚神経・運動神経間の電流の行き来が複雑化した末の、外環境に対する反応の集積、社会を鏡とした跳ね返りの総合・・・それこそが「わたし」なのです。
ぼくはそのことを、布団にくるまっているうちに理解しました。
つまりあなたは、あなたの肉体が物質世界にあって、あなたのタマシイが霊的世界からやってきて乗り込み、操縦し、肉体が滅びた後にまた何者かの肉体に引っ越す・・・などという質のものではないのではないかと。
あなたが存在するのは、あくまでもあなたの内部にであって、あなたはあなたの中に生じ、あなたを膨らませてあなたを形づくり・・・そして、この長い長い書きもののついに結論(タイトルに書かれている大テーマ)に迫る部分なのですが、時がくれば、あなたはあなたの中で自分に始末をつけることになるのではないか・・・とぼくは考えるのです。
つづく
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
ひとの内面に、自我はいつ芽生えるのでしょうか?
深夜に布団にくるまって考えているうちに、ぼくは赤ちゃんになっていたのでした。
そのときの不思議なイメージ体験(思索)が、ぼくの死生観、タマシイ観のベースになりました。
ここでは、そのときのシミュレーションを「あなた」に追体験してもらいます。
お父ちゃんとお母ちゃんの遺伝子が減数分裂でひとつに結ばれ、胚となりました。
つまり、お母ちゃんのおなかの中に、もうひとつの命が・・・あなたの初期細胞が発生したのです。
とは言え、あなたはまだお母ちゃんの一部です。
細胞分裂によって日に日に大きくなっていきますが、ぬくぬくとした閉鎖系の羊水の中で栄養を与えられ、へその緒でお母ちゃんの臓器につながれていて酸素の供給も行き届き、一個体として独立できてはいません。
おなかの中にいる赤ちゃんは夢を見ている、とよく言われますが、少々疑問です。
ただの細胞の固まりであるあなたはまだ、ただひとつの体験もしていないので(あるいは、閉所に固定されていることしか体験していない、とも言えますが)、夢を見るとしても、その内容は暗闇オンリーでしょう。
体内にめぐらされつつある運動神経に通電すれば、若干動くことが許されますが、その活動は主体的なものではなく、外界からの刺激に対しての無意識な反射反応です。
さて、機が熟し、あなたはお母ちゃんの体内から、空の下の環境へと生み落とされます。
あなたは「おぎゃー」と言いますが、それはうれしいからでも苦しいからでもなく、はじめて気体を吸い込んだために起きたカウンター反応です。
こうしてあなたは、新しい環境に対する反応のみ(つまり、無意識)で、生という営みを開始します。
そこに、自我はありません。
「自分」という概念をまだ持ち合わせていないので、これは当然のことです。
生まれる瞬間(どのフェイズであなたが完成したのかはわかりませんが)に魂が込められた、ということもないでしょう。
この時点での脳はデフォルト(初期設定)と言っていい状態で、あなたは「あなたの質」をこれからつくり上げる機能のみを備えた、あなたとはまだ言えないあなたです。
この状態の人類は、どの個体もフルフラットな状態で、誰も何者でもないのではないか、とぼくは考えます。
二度同じことを書いて恐縮なのですが、この時点で赤ちゃんは、あなたなのだけれど、あなたになりきってはいない「初期生命装置」です。
さて、近い未来に本当のあなたになるあなたは、ぼんやりとしか見えない世界に可愛らしい瞳をめぐらし、(たぶん)産科の病室という小宇宙を見つけます。
そしてそこに、やけになれなれしい生物の個体(やがてママと認識する)を発見します。
が、そのうごめく塊はまだ「モノ」であり、小宇宙の一パーツにすぎません。
その光景を取り込み、あなたの脳はまず1ページ目を記します。
あなたのまっさらな内部に、新世界が立ち上げられたわけです。
さて、生み落とされたその小宇宙時空で、あなたはどう振る舞おうと考えるでしょうか?
あなたには生まれた実感がなく、「生きる」の概念もまだ持たないので、「生きていこう」とすら考えることができません。
ただ、あなたが生とともに持ち合わせた遺伝子に最初に刻まれているべき事項がありまして、それは「死なないようにせよ」という命令です。
生み落とされたばかりの無防備な生命は、太古の昔から練り上げられた適者生存の法則を正しく守り、傷つかないように、壊れないように、息の根が止まらないように、危うさを察知して回避する反応に徹するのです。
というわけで、あなたは潜在的な本能を発動させ、不快なことから逃れようとします。
痛ければ、泣いていやがってみる。
寒ければ、泣いていやがってみる。
体内の栄養が尽きたら(おなかが減ったら)、泣いていやがってみる。
不潔な分泌物にまみれたら(うんちが出たら)、泣いていやがってみる。
泣いていやがるの一辺倒。
こうして消極的な営み(ディフェンス)をつづけて長らえるうちに、ついにあなたは新たな生理的発見をすることになります。
それは、数億年という日々を送って数々の実験を経た遺伝子が組み込んでくれた、報酬系ホルモンの分泌です。
つまり、生命を発展させようというポジティブな活動にはごほうびが付与される、という体内メカニズムです。
ご飯を食べると、おいしい!
それをすると、からだが大きくなる!
うんちをすると、気持ちいい!
それをすると、体内が浄化される!
手足を動かすと、心地いい!
それをすると、からだが強くなる!
こうした体験を積むことで、あなたの脳内のニューロンは伸びに伸び、シナプスの接続部は激増し、たんぽぽの綿毛が放散して野原一面をお花畑にするように、あなたの脳内は経験と知識で一杯になっていきます。
そうしてついにあなたは、脳内世界に特殊な形で存在する「わたくし」という概念を見つけるのです。
つづく
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太古の昔のひとは、太陽を崇めました。
そこにおわす神様に祈れば、多くの実りを与えてくださる「かもしれない」し、恵みの雨を降らせてくださる「かもしれない」ので、そりゃ一心に祈りました。
なんなら、しょじょを何人か殺して捧げものに・・・なんてことまでやってました。
しかし実際には、太陽神さまが祈りに応えてくれたことは、科学的に言えば「一度もなかった」のです。
祈りの価値たるや、絶無!
天候なんて、核融合の力で水素をヘリウムに変換する熱天体と、気圧変化による大気中の水分量の問題にすぎないのですから。
神様はそこにはいなかったわけです。
科学が発展した(人間の知性が宗教のそれをはるかに上回った)現在、「神様に祈れば望みは叶うかも」なんつったら、それはうそであり、事実のねつ造であり、詐欺行為となります。
が、これがなんの問題もなく受け入れられてしまうのがこの社会なのですね、宗教団体のロビー活動ってすごいわ。
これに対し、「神様、いなくね?」「つか、そもそも神様いらなくね?」と問いかけるのが、ドーキンスです。
神様が世界の真実を教えてくれないとなれば、神様の価値ってなに?存在意義ってある?というわけです。
ここからは、宗教の教義というよりも、世界観の話になります。
例えば、少なくない宗教が、ひとが死んだ後は肉体から魂が抜けて素敵なとこへ連れていってもらえるかひどいとこへ突き落とされるかだ、としてます。
これは事実とは言えないでしょう。
そんなとこに往って帰ってきた人物がいない以上は、科学的に立証できませんから(←宗教にとって数少ない付け入るチャンスです)。
しかしこれは、道徳問題として考えることができます。
「いいことをすると天国へ、悪いことをすると地獄へ」問題は、言いかえれば、「神様が見てるからこそ、ひとはいいことをし、悪いことをしない」という、第三者監視システムなのです。
が、この抑止力もすでに科学技術が解決してまして、今や神様の目の仕事は、街角の防犯カメラが代行してくれてます。
ここでも神様は必要とされなくなってるのです。
が、そもそも、「神様が見てるから悪いことをしない」なんて考え方の人物は、善悪観が狂ってますよね。
神様の目(防犯カメラと言ってもいい)なしに悪事に及ぶのがこらえられないというのなら、信者はみんな心根が卑しい人間ということになります。
信者でない人間は、神様に見てもらってなくても悪事を我慢できるのですから。
さらに言えば、地獄の存在は、天国にいった者が悦に入るために設定されたような場所で、教会は「地獄をのぞき見にいく権利」を上層部に発行したり、お金を出せば罪が帳消しになって天国にいけちゃう「免罪符」で大もうけをしたりしてまして、こんな連中がよく道徳なんて言葉を吐けるものだと感心させられます。
バチカンなんて腐り果ててるわ・・・というのが、いやぼくが自説で言ってんじゃなくて、ドーキンスがそういうふうに書いてます(同感ですが)。
こうして、神様なんてクソだからどんな形のものでも拝めりゃいーわ、と既存の宗教への反発で創始されたのが、わりとメジャーになりつつある「空飛ぶスパゲティモンスター教(字面通りの怪物を崇めようというムーブメント)」で、福音書まで書き上げるその諧謔的なバカバカしさによって、多くの信者を集めて(ウケて)ます。
が、こんなカウンター宗教においても、教義の方向性による内部分裂が起き、宗教改革がはじまってるという状況で、やっぱし宗教ってあかんな、どうやっても堕落しやがんな・・・というのが、ドーキンスが出す結論のようです。
さて、いよいよキリスト教における最大の急所である「がんばって祈れば、最後の審判でしあわせな場所が約束される」問題です。
これはもちろん、勢力拡大と奴隷獲得のためのえさ(あるいは脅し)と考えるべきで、真実味はありません。
無宗教の人間がこの文面を要約すれば、「教会の言うことを素直に聞くひとは天国にいけて、従わないひとは地獄に落ちる」と読めます。
そこに理性はなく、考えることを放棄した挙げ句のぼんやりとした雰囲気があるだけです。
ここまで延々と書いてきたことの証左に思えますが、いかがでしょうか?
確たる人間性を取り戻し、奇妙で根拠のないくびきを逃れ、現世にいる間にしあわせを獲得できるように主体的に考えて、今いる環境と時間を自由に生きるべきなんじゃないですかね?(これはドーキンスじゃなく、ぼくの出す結論です)
死んだらどうなるか?のぼくの考え方は極限まで科学的で、くわしくは別のサイトに書いてますので、よかったらご参考にどうぞ。
真理は、宗教とはまるっきり別のところにあるのでした。
おわり。
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ドーキンスは、神が存在しないことの科学的な立証を試みます。
非常に逆説的ですが、神の存在に科学的な裏打ちを与えれば、すなわち神は存在しないことになります。
神が座した場所に、今度は科学が本尊として置きかえられるわけですから。
というわけで、神様が成したみわざのすべてを、科学で説明します。
例えば、この宇宙を創成したのは神様とされてますが、科学においては、それは「ビッグバン」という現象に帰せられます。
けつろん、神様=科学
人類は神様が誕生させたものとされてますが、科学においては、それは有機物からの創発と適者生存の進化論で説明がつきます。
けつろん、神様=科学
要するに、科学を用いると、神様の介在によるあやふやなごまかしが必要なくなるわけです。
ところが、こうして世界から謎が消えていくと、宗教は困ります。
メシの種がなくなりますから。
そこで、教団による科学の取り込み(教義と最新知識のすり合わせ)がはじまります。
無理を承知で。
「世界のはじまりは数千年前!」と読める聖書ですが、数万年前、数億年前の化石が発見されて世界の長大な歴史が明らかなものとなると、「そんなマジックも神のみわざ!」としてしまう柔軟さときたら。
ビッグバンが確実なものとなってさえ、バチカンは「神が世界を生み出したもうた証拠!」としてしまうので、その胆の太さには脱帽するほかはありません。
懺悔して改心すればいいのにね(つか、懺悔させて改心させてなお殺しまくった科学者たちに謝ってほしい)。
「化石による進化過程のミッシングリンク(例えば、シッポのある種からシッポのない種への移行期に、中間種が存在しない)があることをバチカンは大喜びするが、その間の化石が見つかると、ミッシングリンクが二つに増えたことを大喜びする」という冗談がありまして、なるほど信仰的思考とはかくや、と深く納得させられます。
また、世界で最も権威あるキリスト教学者は、「広島で死んだ人間が一人でも少なかったら、そのために祈る価値が下がっただろう。あの死者の人数は、神に祈るために必要だった」とまで言ってまして、その見苦しいレトリックには際限がありません。
しかし、宇宙の大構造から、ミクロ世界での素粒子の振る舞い、生命進化の綿密なメカニズムまで、たいがいの自然法則が明らかとなりつつある今、果たして神の立場は守られるべきなのか?とドーキンスは張りきります。
神は完全!聖書こそが正しい!科学はそれに反するから死ね!・・・は、もう通用しないことが明白ですので。
神様は決して間違えないものらしいので、間違ってるのは人間の理知の方なのでしょうか?
その点の冷静な判断が欠けてるために、神様を信じ抜く人間が望むのは、科学がこれ以上に発展しませんように!の一点に尽きるわけです。
神様を信じる根拠が、それによって揺らぐわけですから。
神様が間違っちゃうわけですから。
なのに最新科学によれば、神様の知識は(聖書は、とするべきか)明らかに間違ってるので、教団サイドにとっては我慢がならないわけです。
しかしそもそも聖書は、この世界の構造、自然現象の基本法則についてまったく無明な一介の人間が書いた、いわば「創作の物語」です。
世界の謎の解説を神のみわざとしてふんわりと回避してるところにこそ、聖書の真実味があったわけです。
それは、ある時代には通用しました。
が、謎の部分を科学が解明してしまえば、「聖書を信じよ」というサイドの人間には立つ背がありません。
というわけで、現在における宗教の仕事は、まだ解き明かされてない謎探しと、科学へのイチャモンづけが主なものとなってしまうわけです。
つづきます。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

科学にとって、キリスト教とバチカン、そしてその頭目である教皇は天敵です。
いかなる罵詈雑言を浴びせても飽き足らないほどの煮え湯を飲まされてきましたし、実際的に人類の発展の重荷になって知性の展開を妨げてきた歴史があります。
そんなわけで、遺伝子学の巨人・ドーキンスがひと肌脱ぎ、「俺が言ってやる!」と一冊丸ごとの罵詈雑言をぶちまけてます。
上の教団の名は、「科学」の反義語として使ってもやぶさかでないもので、団体自体が理知の対岸にいると言っていい存在です(自分たちの口からも、「ひとを惑わせる理性を破壊せよ・ルター」「考えることをやめよ・聖アウグスティヌス」などなど、数々の頭の悪い発言が知られてます)。
科学者を「賢い」とするなら、この教団は「進歩を邪魔するバカ」「体制サイドにふんぞり返る問答無用の乱暴者」という、ドーキンスによるキャラづけです。
というわけで、「神」と銘打たれたこの本ですが、ドーキンスの舌鋒の矛先は、もっぱら憎きキリスト教へと向かってます。
現代においては、イスラム教が悪の権化のように(西側では)受け取られがちですが、キリスト教ほど独善と強権で民衆をいたぶり、奪い、殺してきた宗教は皆無で、そのおびただしさの規模は他教と何桁も違ってきます。
中でも、異端思想として最もひどい目に遭わされたのが科学者で、自然の法則を探ろうとしたり(現象に法則などない!自然とは神が自由自在に動かすもの!)、宇宙の真実に迫ったり(天上界は神の司る世界で不可侵!)する者は、容赦なしに拷問、迫害、挙げ句の果てには火あぶりにされてきました。
要するにキリスト教の本質とは、「聖書のみを信じろ!」「教義に反する言動をするやつは死刑!」というファシズムなのです(でした、と言いたいけど、今なお改善には遠いようです)。
人々の知識のすき間を粗探しにし、そこに眠る謎を「神」という概念で満たすことが彼らの企てです。
だから、本当にかしこいひとに余計な仕事(自然法則の理解)をされると困るのですね。
というわけで、科学者は目の敵にされ、徹底的な弾圧を受けるわけです。
当然のごとく、世界最高の知性のほとんどは宗教を疎んじてるというデータが出てまして、これによって、信者同志のカップルから遺伝的に賢い子が生まれる確率は低いというカガクテキな結論も導き出されます(彼らにはキセキを信じるしか方法がないようです)。
いやいや、冗談じゃなく、キリスト教の新知識への拒否感、新文化への排他性、そして聖書への執着といったら、尋常ではありません。
その点をドーキンスは、例によってありったけの証拠を積み上げ、ねちっこく論じ、あらんかぎりのレトリックを尽くしてコケのめします。
これが実に正鵠を射ていて、完全に納得させられ、痛快なのですね。
ぼくら無神論者の溜飲も下がりますが、むしろ、な〜んにも知らずにただ十字架をありがたがって手を合わせちゃってる信者さんにこそ読んでもらいたい本です。
ドーキンスは、腹に据えかねるこの教団の悪事の数々を、世に周知させたいという意欲に突き動かされてるのです。
「違う考えを持つ者を自分たちの立場に服従させようという振る舞いは、いったい何様のつもりなのか」「暴力と脅しで教義をひろめてきた連中の、どの口が道徳的信念を言うのか?」という言葉に象徴されるように、彼の怒りは宗教指導者に向かいます。
歴代教皇(法王)の傲慢、信者の隷属と無知であることの強要、そして部外者に対する迫害のえげつなさ(史実)ときたら、まるでブラックジョークに思えるほどです。
その道徳意識は、完全に内向きのものなのです。
聖書が言うところの「愛せよ」は、信仰の仲間に向けてのみの話で、信仰心のない者への「懲罰」と征服意欲ときたらすさまじいものがあります。
それもそのはず、聖書は、もっぱら「他者を滅ぼせ」の指示書という構成を取ってるのです。
実際に、聖書の「ことごとく滅ぼすべし」の言葉を愚直に行動に移したヒトラーは、神の名においてユダヤ人(キリスト殺しでおなじみ)を誅滅し、良心の呵責を感じることなく皆殺しを行うことができたわけです(教会もまたそんなナチスを支持しました)。
聖書はさらに過激な内容になってまして、中身を少し勉強したぼくも、そのエピソードのひどさ、くだらなさ、訳のわからなさ、気色悪さにはあ然としたものです。
信者はちゃんとこれを読んで理解した上で信仰してるのか、マジで謎ですわ。
しかしこのへんもまた、「聖書は完全なので、読んで、はて?と思う者は勉強が足りんか、解釈が間違ってる!」と教会サイドのレトリックは冴え渡るので、空いた口がふさがりません。
とにかくこの宗教は、「信じよ」が最初にきて、「考えるな」とつづき、「祈りなさい」で決着をつける方法論を金科玉条として頂いてるので、対処のしようがないのですね。
ぬる薬がない。
そして彼らの振る舞いからわかるのは、宗教が愛するのは宗教そのものであり、宗教が罰したいのは反道徳ではなく、反宗教(自分たちにとって気に入らない個人的な思考や行動)であるということです。
彼らは延々と自分の周囲を回りつづけ、進展できないのです。
仏教は、倫理体系、人生哲学としての体裁を採ってますが、キリスト教は、「祈れ」「信じよ」の他にはなにも教えてくれない空疎なものなので、その意味で、人々のオツムから理性を排除する必要があるわけです。
・・・と、ドーキンスは書いてます、ぼくが言ってるわけじゃありません。
つづきます。
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今読んでいるリチャード・ドーキンスが、このブログで前章までに書いてきたことをうまく表現しているので(くやしい)、パクリじゃないけど、レトリックだけを頂戴してぼくの考えるところに反映させてもらいます。
「利己的な遺伝子」でおなじみのドーキンスは、生物学界で知らぬひとはいない、ポスト・ダーウィニズムの巨人です。
彼は常に進化論を基にしてものを見ようとするひとで、量子力学と生物進化を掛け合わせた「分子生物学(細胞などの働きを分子レベルにまで解体して構造を知ろうという学術分野)」にもその考え方を持ち込んでいます。
ぼくは前章で、「人類は、世界の本当の姿を見ているわけではなく、自分たちの営みに必要な情報だけを選択して受け取り、活動が都合よくいくように主体的な解釈をしているにすぎない」ということをくどくどと書きました。
ドーキンスはこの点をわかりやすく、「人類の目は可視光だけを見るように進化したため、脳もまた、赤外線と紫外線の間におさまる限定された世界を構築するしかなかった」という表現を採っています。
人類が、もしもガンマ線だけを見るように進化していたなら、この世界は、ぼくらが見ているこの「感じ」とはまったく違ったものになっているはずです。
ヘビは赤外線を舌で感知して世界を構築していますし、コウモリは音波をキャッチして暗闇の中に立体世界を描いています。
犬はにおいで、鳥は電磁気で、ミミズは・・・なんらかの方法で独自に自然界から情報を選択的に受容し、自分たちのオリジナルな風景を築いているわけです。
そんな各々の主観によって描かれた独自な画づらが、人類のものとまったく異なることは、疑いがありません。
要するに、「世界」とは脳内にのみ存在しているもので、その意味ではみんなそれぞれに別の世界に住んでいるのです(同じ人類であるぼくとあなたとでも、それは違います)。
脳が高度に発達したわれわれ霊長類は、原形質に近い微生物の粗い世界とはまったく別ものの、さまざまな情報を総合して細密に組み立てられた世界を生きていると自負するわけですが、逆に、微生物がわずらわされている(あるいは彼らにとってはなくてはならないかもしれない)分子のブラウン運動や、微弱な電磁気力、量子世界のエンタングルメントなどを実感できない粗い世界を生きている、とも言えそうです。
自身の中で発達させた受容機械が、宇宙を飛び交うどの波をどう選択的に拾い上げ、脳内にどんな画を投影しているかによって、その者にとっての世界像(宇宙の形)が決定されます。
事実上の盲目であるコウモリは、相手のコウモリが可愛いかどうかを音で判断しますし、物質表面の細かなキメにぶつかる空気の震え(波!)によって、色彩のようなクオリアまで脳内に立ち上げている(とドーキンスは信じている)ほどです。
その世界を想像すれば、人類が唯一無二のものと思い込んでいる可視光解釈による脳内フィードバック映像が、いかに世界を表現しきっていないか、情報の偏った狭いものであるかが理解できそうです。
逆に言えば、ぼくらの感知の及ぶ守備範囲の外側にこそ、世界の真実はあります。
ぼくらが見ているこの世界は、文字通りに幻想でしかないわけです。
実際にはそこには、ただスカスカな波が立っているだけ、なのですから。
その中のどの波を拾ったところで、それは真実の一部でしかなく、ぼくらには世界の本当の姿を見ることはできません。
何者かの肉体が、例えばどんな電磁気力とも反応しないニュートリノでできていたとしたら、彼にとってそもそも物質という概念は意味を持ちません。
彼の世界には、形も触感も存在しないわけですから。
そんな生命体にとっては、太陽や地球などの天体は真空のようなもので、自身の「カタチ」すらもおぼつかなく、ビッグバンという世界創生からしてまったく別の現象に感じられ、とりあえずは光子とのやり取りや、素粒子の対生成・消滅などにつき合うことをベースにした進化と生き方が求められることでしょう。
だけど考え詰めれば、クォークやニュートリノを含めた素粒子という「波」概念そのものが、ぼくらが脳内に立ち上げた勝手な世界の一部なわけですよね。
素粒子どころか、ぼくらの世界の外には、ぼくらが感知できない、素粒子以外のものからできている生命体が独自に立ち上げた奇妙奇天烈な世界が、つまるところ、彼らの中に存在しているかもしれませんよ。
そんな彼らにとっては、われわれ物質世界に生きる生命体が、感覚的にまったく理解できない奇妙奇天烈な存在に思えるにちがいありません。
つづく
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ぼくの脳みそはタンパク質でできていて、その内部に張りめぐらされた細線(神経系)を電気が走り、線の間の節部が科学物質のやり取りをすることで、ぼくの「想と記憶」をつくり出す。
ニューロンとシナプスというやつだが、ここに「想と記憶」が刻印され、形を持って残るわけではない。
かと言って、DNAのように物質が配列されてデータとされるわけでもない。
「想と記憶」、つまりぼくのアイデンティティは、非物質から構成されている。
とは言え、そこに物質が関与していないわけでもない。
脳内に巡らされたシナプスとニューロンの経路・・・それらによる、言葉通りの道すじそのものが記憶回路となり、コードされるのだ。
タンパク質のかたまりである脳みそは、新陳代謝によって部品交換をくり返し、ひと月もすれば物質的にすっかり違った別ものに置き換えられる。
脳自体が、というよりもむしろ、形状を持ったぼくそのものが総取っ替えされるのだ。
なので、消えゆく運命である物質的なものは、記憶媒体とはなり得ない。
しかし、だ。
物質は消えゆくが、経路の配置は前物質を踏襲して保存される。
鉄道の全路線のレールを完全に入れかえてもルートが失われないのと同じ理屈で、脳みそを含めた肉体がひと月で失われても、新しい素材が経路を引き継ぐため、ぼくがせっせと構築した「想と記憶」は相変わらずにそこに同じ状態で居座りつづけることができるわけだ。
こうして、物質でないところに「内的なぼく」、すなわち永続的なアイデンティティの存在と継続が約束される。
さて、ぼくが所有するところのタンパク質でできた肉体は、内的なぼくが操縦する「外界をリモートで動くエージェントロボット」と言える。
これは、脳みそからつながる運動神経系へのアウトプット(感覚情報のインプットと逆方向のルート)で、外界へアクセスされる。
が、厳密に定義すると、「脳みそが動かす肉体の触れる世界が外界」なのではない。
また、「脳みそから外の神経系から先が外界」なのでもない。
形のないぼくの意思が起動させるあちらサイド・・・つまり形あるところである脳みそ・神経系という「内的なぼく」から先のパートすべてが外界なのだ。
わかりにくいが、物質界そのものが外界であるため、脳みそもまたぼくの外にあるというわけだ。
保存された「想と記憶」としての内的なぼく(操縦者)が、外界に存在する脳みそにアクセスし、神経系をコントロールして情報の獲得・・・つまり、見て聞いて触って外界の様子を感じ取り、それに対応したアウトプットで生命装置を操縦して、感覚を環境にフィットさせていく、という作業が生の営みというやつなわけだ。
そして逆に、ぼくの外側の世界に存在しているぼくの肉体の一部が、ぼくの「想と記憶」をつくり出してもいる。
ぼくの中に「想と記憶」があるわけではなく、ぼくはその「想と記憶」の中にいて、「想と記憶」そのものがぼくと言え、ぼくはぼくの肉体とは相互作用の関係にある。
内的なぼくを構築するのはぼくの外側にある肉体の活動だが、その肉体を操るものが内的なぼくであるため、この相互作用の関係は「脳の中に操縦者がいて、その操縦者には操縦者がいて、その操縦者の操縦者には操縦者がいて・・・」という無限の退行という批判を回避することができる。
さて、前説が終わったここで思い出してほしいのが、「肉体自体はマボロシのようなものだ」という量子論だ。
ぼくは、ぼくの肉体を「ある(在る)」ものとして感受しているものの、そこには実際にはなにもないと言っていい。
ここまでくどくどと説明してきた通りに、素粒子は「波という現象」なのであって、モノとしての実体があるわけではない。
波がどれだけおびただしく集まり、空間上であやを構成したところで、それはカタチなどにはなり得なく、したがって、ぼくの目に物質として見えているものが幻想でしかないことは自明だ。
この波の集まりを、ぼくが所有するところの生命機械は、スペクトルの反射や吸収という情報の色彩解釈や、電磁気力の反発としての手触り感によって、あたかもそこになにかが実在するように思わせてくれているだけなのだ。
まとめれば、この宇宙に物質などというものはなく、「波の濃淡の境界にラインを引く機能」を獲得した人類の目の構造が、ぼくに理解しやすい形で脳にデータを送って像を立ち上げ、また電磁気力の相互作用を利用した「イリュージョン→実在感」という感触への翻訳機能によってぼくをだまし、この目に、手に、世界を与えてくれているのだ。
そういう「発明」を、人類はしたのだった。
このマボロシという点を、次回は掘り下げてみたい。
つづく
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
今回も少しの間だけ、難しい話を我慢してください(シンプルにやさしくしたいんだけど、どうしても、ね)。
ゆうべ布団の中で、前章に書いた自説をぼんやりと思い返しているうちに、本当にびっくりしたことに、「小林・益川理論が言う『CP対称性の破れ』ってのは、このことだったのでは?」とはたと気がついたのです。
このノーベル賞を獲ったやつは、当時に少し当たってみたぼくにはまったく理解ができていなかったのですが、かいつまんで言えば、「鏡面に映ったふたつの世界(パリティ)が対称性を持って(つまりまったく同じカンジに)存在している」ついでに「電荷が逆(+・-)の素粒子一対が、その点以外にはまったく同じ性質を持って存在している」というふたつの保存則が破れた場合、この物質世界の誕生が説明できそうだ、というものです。
・・・わからないですよね?
だけど、ゆうべ布団の中で突然、天啓が降りてきたように理解できたのです!
同時に、それってオレのアイデアなのになあ、先にふたりが見つけちゃったのかなあ・・・と。
とりあえず、小林・益川理論をベースに、ぼくの考えを説明してみますね。
まず、「鏡面に映ったふたつの世界」と気持ち悪いことを言いましたが、ぼくらの生きるこの世界のあちら側には、もうひとつのそっくりな反転世界が存在しているらしいのです。
これは、CERNなどの最先端の科学技術を用いた実験物理でも実証されていて、「あちらサイド」は、科学的にも現実のものとされつつあるようです(というか、それが存在すればいろいろと説明がつくのです)。
こちらサイドにある素粒子は、性質が同じで対となるふたつがかち合って対消滅し、エネルギーを残してあちらサイドの世界にいきます。
逆に、あちらサイドからは、こちらサイドにあるエネルギーに媒介してもらって、ふたつの素粒子が一対になり、忽然と立ち現れます。
つまり、あちらサイドをのぞき込むことができないこちらの世界内で物事を見ていると、素粒子は消えたり生まれたりしているわけです。
これは、エントロピーの法則と矛盾しているように思えますが、プラマイで相殺勘定が合うというか、精妙なエクスチェンジが成り立つので、法則には反しません。
これをうまく図式化して、電子(-)・陽電子(+)などの物質と反物質は、舞台と舞台裏の二面構造でできている表裏の世界間を行き来していると解釈しようではないか、というのが「パリティ」の概念と思われます。
そして、その表裏の対になった世界は、鏡面に映したようにそっくり!双方に違いなんて見あたらない!というのが、パリティの保存則でしょうか。
そしてそして、いやいや、そっくりだけどよく見たらちょこっと違ってるかも!というのが、パリティ対称性の破れ、です。
法則に漏れがあったから、「破れ」です。
さて、小林・益川理論の「CP」のCの方は「チャージ」でして、これは電荷のことです。
電荷も、世界にはプラスとマイナスが同じだけある「べき」なのですが、こちらもどうやらそうではないようなのですね。
つまり、先ほど出てきました物質・反物質の違いである電荷の勘定が合わない・・・すなわち、「物質と反物質の数が違ってる!」というのがチャージ対称性の破れでありまして、チャージとパリティ、このふたつを合わせて「CP対称性の破れ」ということになります。
鏡に映ったあっちの世界はこっちの世界とそっくりなのに本当は少しだけ違いがあるし、トランプの裏面にはそれと同数の表面があると思ってたのに実はそうじゃなかった!みたいなやつが、この理論です。
・・・難しくてすみません、やさしくしますから、マジでここまでは我慢して聞いてて。
と言いつつ、また前置きで終わってしまいました・・・
つづく
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前章の着想の説明があまりに雑で難解で「きょとん」だったので、ここではもう少し噛み砕いて解説を試みてみます。
ぼくら物質世界に生きる者は、逆説的ですが、外界は物質でできているものと神経系が解釈して、脳内に幻想世界を築いています。
実際の外界のつくりと振る舞いがあまりに摩訶不思議なので、観念をいろいろにいじくって、人類にもシンプルに理解ができる物質世界なる虚像を発明し、そういうものだということにしているに過ぎないわけです。
ここで言う外界とは、「自分のアイデンティティであるところの脳内世界」に対する外側という意味なので、自身の肉体も、脳構造をも外界に含みます。
あなたの外界のイメージは、網膜(目のレンズ)が時々刻々に拾った素粒子の様子を視神経が暗号化して脳の奥へと送信し、そこでのタンパク質間の電気と化学物質のやり取りによって、こちら都合の様式(というか、解釈の限界)に再構築された抽象画なので、世界の実相とは似ても似つかないものにすり替わっています。
絵画をにくわしいひとは、「いやいや、目に映ってるこの風景は、具象そのものだろ!」と考えるかもしれません。
確かに、人類の側から見たら、抽象的な世界の姿を物質として具象化している、という言い方もできますが、脳の外に存在するものこそがガチのリアリズムでであるために、創意は反転するのです。
ぼくらの脳は、つかみどころのない実世界を人類ごときの低能機械にも理解できるように、具象(ここでは単純に、具象絵画の意味)という形式で視界を観念化しているわけで、それはすなわち、実世界の抽象化という言い回しになります。
・・・いかんいかん、ちゃんとやさしく噛み砕いてます?この文面。
ここまでの前提を踏まえての、世界の実相の描写ということになるので、ついてきてください。
要するに、ぼくら人類は、視界の中にイリュージョンを見ているのだと、遺伝子の進化によって錯覚を見せられているのだと割り切って、まずは固定的な見方を捨てることが第一です。
だって、思い返してみてください。
以前に書いたように、この世は・・・例えば地球のような天体は、鉄筋コンクリートづくりのビルは、りんごは、そして人間の人体は、その構成物すべてが「パチンコ玉の周囲を甲子園球場の外周もの直径の軌道で回るごま粒」というほどの密度でつくられている、スカスカの空洞なのです。
中身が詰まっているように思えるのは、人類の機能が生み出す幻影なのです。
りんごがりんごに見えるのは、りんごを構成する元素のクーロン力に弾かれたスペクトルを受容する目と脳の便宜上の解釈なのであり、その感触は、りんごと指との分子間の電磁気力の反発力でしかありません。
そこには手応えを直接に伝える固まりなどはなく、絡み合う波同志の相互作用があるばかりなのでした。
「気持ち悪がらないでくれ」「オカルトの話じゃない」とは、このお話の所々に組み込まざるを得ない釈明ですが、マジでこれこそが「最先端の科学」なので、ご注意ください。
これから描き出そうと試みる世界は、不完全な人類が視覚や触覚で経験するよりも確かな、科学的検証によって明らかにされた実の姿、「実相」です。
というわけで、場の量子論なのですが、これは今年のノーベル物理学賞まで獲ったちゃんとしたやつなので、ひとつ信じてみてください。
・・・本編に入る前に、この章の字数も埋まってしまいました、ごめんなさい。
つづく
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常に新しい情報を得るために・・・すなわち、日々解釈が更新されていく「世界の真実性(の近似)」に接するために、科学の新刊本は見逃せません。
新しいページをめくるたびに、新しすぎる知見(アップグレードされた解釈)が殺到してきて、これがまた信じられないくらいにフレッシュで、知るたびに驚天動地!
なにしろ、それまでにコツコツと蓄積させてきた知識とはまるで別見解の宇宙が、まさしく日進月歩で上書きされ、一層上の説得力を持って目の前に展開するものだから、感動するとともに、当惑・混乱させられます。
なのにその本を読み終える頃には、新しく書店に並べられた別の本でさらなる知見の更新が行われているものだから、きりがありません。
この「死んだらどうなるか?問題」をちゃんと読み込んでくれているひとなら気づいちゃってると思いますが、章を経るごとに、筆者の限りある脳容量の中身が総取っ替えされたかのように、指が打ち込む世界の説明がコロコロと変わっていきます。
アウトプットの段階に至っても、おびただしいインプットによる脳内情報の書き換えがあるために、打ち込み作業が追いつかないのです。
ただ、筆者の指から新しく紡がれるものは「かつて書いたことの間違いの訂正」ではなく「知識の更新」なのであり、「より実相に近いものへの描写の細密化」「正確化」と理解してもらえたらありがたいことです。
というわけで、この長い長い一連の文章は、過ぎゆく風のような情報の中に置かれた、習作にすらも至らない「上書きされる運命にある、現時点での覚え書き」となっているので、みなさんにはななめに忘れ読みしてもらうことをお勧めします。
そんな軽〜い気分で、久しぶりにつづきを。
いきなりですが、時間は連続的なものではないようです。
びっくりしません?
つながっていないのですよ、昨日と今日とは、さっきと今とは。
時間が粒状で離散的なことは、場の量子論の計算式から確実とされていて、その刻まれた最小単位はプランク定数でも求められます。
時間は、ここでも何度も書いた通りに、空間と一緒くたになって「時空間」の形を取っていまして、その存在は伝統的に重力理論で説明されます。
重力なしには(われわれ人類が感知できるところの)時空間は発生できず、時空間なしには重力は存在できないので、このふたつもまた一蓮托生、一緒くたということになりますか。
そのへんを起点に、情報を頭の中で転がして宇宙創造の順序を整頓してみたので、ここに開陳します。
現世よ、生まれよ〜!
・・・さて、すべての前提として、さまざまな量子が展開する「場」があるのでした。
これは「電磁気」とか「重力」とか「物質」とか、あるいは「時空間」になりたがっている高エネルギーの「状態」で、まだ「特異点」という針の先ほどもない小箱に閉じ込められています。
これら「やがて粒になりうる波」が、それぞれに絡まり合い、重なり合って、なんというか、もやもやと浮遊しているわけです、どことも言えない場所を(「場所」「宇宙」「現世」自体がまだありません)。
・・・はやくも訳がわからなくなっていますが、ちょっとがまんしてね。
そこでまず、クォークの量子場を考えてみます。
クォークは、三つがくっつくと「陽子」「中性子」(要するに原子核)になる、物質の種と言える素粒子(波)なのでした。
宇宙創生前の煮えたぎる場において、クォークは対生成と対消滅を繰り返し、つまり、物質と反物質のペアで生まれたり、ペアごと消滅したりしていました。
ところが、あるときどういうわけか(この部分は未解明です)対称性が破れ、反物質よりも物質の方が多めに生成されたのですね。
すると、物質サイドが余るわけですから、相方(反物質)を求めて消える必要がなくなります。
ここですかさず、グルーオンの場と相互作用し(つまり、接着剤の役割をする素粒子が介入し)、クォークが三つくっついたわけです。
つまり、陽子(水素原子核)の誕生です。
陽子が生まれますと、今度はヒッグス場が相互作用し、粒に確固たる質量を与えます。
波という茫洋としたものが形と重みを持ちまして、いよいよ宇宙開闢(かいびゃく)の期待が高まります。
以前に重力理論の章で説明しましたが、質量のあるところには、重力が発生します。
ここで、重力場のグラビトンという未知の素粒子である重力子(まだ仮想的存在)が相互作用し、空間をゆがめるわけです。
・・・まてよ、わずか二行上で紹介した重力理論では、質量を持つ物質が時空間をゆがめて重力を生み出すのでした。
ところが、ここではまだ「時空間」そのものが存在していません。
だとしたら、これはどういう理屈なのか?
そこで、文脈を逆説してみます。
つまり、質量が時空間をゆがめて重力を生み出すのではなく、重力が質量と相互作用をしたゆがみこそが時空間なのでは?と仮説立てるのです。
わかります?
時空間における重力発生の話が、一周さかのぼって、重力による時空間の成り立ちの話にすり替わってしまいました。
要するに、アインシュタインが重力論の説明に用いた「フラットなゴム製マット」の状態は存在せず、その上に鉄球を置いた山谷こそが、時空間の正体(質量による発生)なのではないかと。
考えてみれば、なにもないフラットな場は、例えば人類の感覚器には引っ掛かりもなくスルーされてしまい、感知が不可能です。
そこ(時空間)は現世においては、トタン屋根のように波波でデコボコでなければならないのです。
そもそも、時空間のデコボコを光学的、電磁気的に受信して分析し、解像するのが人類の神経系だからです。
その時空間のデコボコをつくるものこそが、質量と重力場なのではないか?というのが、ぼくの新しいアイデアです。
つづく
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