
ドーキンスは、神が存在しないことの科学的な立証を試みます。
非常に逆説的ですが、神の存在に科学的な裏打ちを与えれば、すなわち神は存在しないことになります。
神が座した場所に、今度は科学が本尊として置きかえられるわけですから。
というわけで、神様が成したみわざのすべてを、科学で説明します。
例えば、この宇宙を創成したのは神様とされてますが、科学においては、それは「ビッグバン」という現象に帰せられます。
けつろん、神様=科学
人類は神様が誕生させたものとされてますが、科学においては、それは有機物からの創発と適者生存の進化論で説明がつきます。
けつろん、神様=科学
要するに、科学を用いると、神様の介在によるあやふやなごまかしが必要なくなるわけです。
ところが、こうして世界から謎が消えていくと、宗教は困ります。
メシの種がなくなりますから。
そこで、教団による科学の取り込み(教義と最新知識のすり合わせ)がはじまります。
無理を承知で。
「世界のはじまりは数千年前!」と読める聖書ですが、数万年前、数億年前の化石が発見されて世界の長大な歴史が明らかなものとなると、「そんなマジックも神のみわざ!」としてしまう柔軟さときたら。
ビッグバンが確実なものとなってさえ、バチカンは「神が世界を生み出したもうた証拠!」としてしまうので、その胆の太さには脱帽するほかはありません。
懺悔して改心すればいいのにね(つか、懺悔させて改心させてなお殺しまくった科学者たちに謝ってほしい)。
「化石による進化過程のミッシングリンク(例えば、シッポのある種からシッポのない種への移行期に、中間種が存在しない)があることをバチカンは大喜びするが、その間の化石が見つかると、ミッシングリンクが二つに増えたことを大喜びする」という冗談がありまして、なるほど信仰的思考とはかくや、と深く納得させられます。
また、世界で最も権威あるキリスト教学者は、「広島で死んだ人間が一人でも少なかったら、そのために祈る価値が下がっただろう。あの死者の人数は、神に祈るために必要だった」とまで言ってまして、その見苦しいレトリックには際限がありません。
しかし、宇宙の大構造から、ミクロ世界での素粒子の振る舞い、生命進化の綿密なメカニズムまで、たいがいの自然法則が明らかとなりつつある今、果たして神の立場は守られるべきなのか?とドーキンスは張りきります。
神は完全!聖書こそが正しい!科学はそれに反するから死ね!・・・は、もう通用しないことが明白ですので。
神様は決して間違えないものらしいので、間違ってるのは人間の理知の方なのでしょうか?
その点の冷静な判断が欠けてるために、神様を信じ抜く人間が望むのは、科学がこれ以上に発展しませんように!の一点に尽きるわけです。
神様を信じる根拠が、それによって揺らぐわけですから。
神様が間違っちゃうわけですから。
なのに最新科学によれば、神様の知識は(聖書は、とするべきか)明らかに間違ってるので、教団サイドにとっては我慢がならないわけです。
しかしそもそも聖書は、この世界の構造、自然現象の基本法則についてまったく無明な一介の人間が書いた、いわば「創作の物語」です。
世界の謎の解説を神のみわざとしてふんわりと回避してるところにこそ、聖書の真実味があったわけです。
それは、ある時代には通用しました。
が、謎の部分を科学が解明してしまえば、「聖書を信じよ」というサイドの人間には立つ背がありません。
というわけで、現在における宗教の仕事は、まだ解き明かされてない謎探しと、科学へのイチャモンづけが主なものとなってしまうわけです。
つづきます。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園