ドーキンスは、神が存在しないことの科学的な立証を試みます。
非常に逆説的ですが、神の存在に科学的な裏打ちを与えれば、すなわち神は存在しないことになります。
神が座した場所に、今度は科学が本尊として置きかえられるわけですから。
というわけで、神様が成したみわざのすべてを、科学で説明します。
例えば、この宇宙を創成したのは神様とされてますが、科学においては、それは「ビッグバン」という現象に帰せられます。
けつろん、神様=科学
人類は神様が誕生させたものとされてますが、科学においては、それは有機物からの創発と適者生存の進化論で説明がつきます。
けつろん、神様=科学
要するに、科学を用いると、神様の介在によるあやふやなごまかしが必要なくなるわけです。
ところが、こうして世界から謎が消えていくと、宗教は困ります。
メシの種がなくなりますから。
そこで、教団による科学の取り込み(教義と最新知識のすり合わせ)がはじまります。
無理を承知で。
「世界のはじまりは数千年前!」と読める聖書ですが、数万年前、数億年前の化石が発見されて世界の長大な歴史が明らかなものとなると、「そんなマジックも神のみわざ!」としてしまう柔軟さときたら。
ビッグバンが確実なものとなってさえ、バチカンは「神が世界を生み出したもうた証拠!」としてしまうので、その胆の太さには脱帽するほかはありません。
懺悔して改心すればいいのにね(つか、懺悔させて改心させてなお殺しまくった科学者たちに謝ってほしい)。
「化石による進化過程のミッシングリンク(例えば、シッポのある種からシッポのない種への移行期に、中間種が存在しない)があることをバチカンは大喜びするが、その間の化石が見つかると、ミッシングリンクが二つに増えたことを大喜びする」という冗談がありまして、なるほど信仰的思考とはかくや、と深く納得させられます。
また、世界で最も権威あるキリスト教学者は、「広島で死んだ人間が一人でも少なかったら、そのために祈る価値が下がっただろう。あの死者の人数は、神に祈るために必要だった」とまで言ってまして、その見苦しいレトリックには際限がありません。
しかし、宇宙の大構造から、ミクロ世界での素粒子の振る舞い、生命進化の綿密なメカニズムまで、たいがいの自然法則が明らかとなりつつある今、果たして神の立場は守られるべきなのか?とドーキンスは張りきります。
神は完全!聖書こそが正しい!科学はそれに反するから死ね!・・・は、もう通用しないことが明白ですので。
神様は決して間違えないものらしいので、間違ってるのは人間の理知の方なのでしょうか?
その点の冷静な判断が欠けてるために、神様を信じ抜く人間が望むのは、科学がこれ以上に発展しませんように!の一点に尽きるわけです。
神様を信じる根拠が、それによって揺らぐわけですから。
神様が間違っちゃうわけですから。
なのに最新科学によれば、神様の知識は(聖書は、とするべきか)明らかに間違ってるので、教団サイドにとっては我慢がならないわけです。
しかしそもそも聖書は、この世界の構造、自然現象の基本法則についてまったく無明な一介の人間が書いた、いわば「創作の物語」です。
世界の謎の解説を神のみわざとしてふんわりと回避してるところにこそ、聖書の真実味があったわけです。
それは、ある時代には通用しました。
が、謎の部分を科学が解明してしまえば、「聖書を信じよ」というサイドの人間には立つ背がありません。
というわけで、現在における宗教の仕事は、まだ解き明かされてない謎探しと、科学へのイチャモンづけが主なものとなってしまうわけです。
つづきます。

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科学にとって、キリスト教とバチカン、そしてその頭目である教皇は天敵です。
いかなる罵詈雑言を浴びせても飽き足らないほどの煮え湯を飲まされてきましたし、実際的に人類の発展の重荷になって知性の展開を妨げてきた歴史があります。
そんなわけで、遺伝子学の巨人・ドーキンスがひと肌脱ぎ、「俺が言ってやる!」と一冊丸ごとの罵詈雑言をぶちまけてます。
上の教団の名は、「科学」の反義語として使ってもやぶさかでないもので、団体自体が理知の対岸にいると言っていい存在です(自分たちの口からも、「ひとを惑わせる理性を破壊せよ・ルター」「考えることをやめよ・聖アウグスティヌス」などなど、数々の頭の悪い発言が知られてます)。
科学者を「賢い」とするなら、この教団は「進歩を邪魔するバカ」「体制サイドにふんぞり返る問答無用の乱暴者」という、ドーキンスによるキャラづけです。
というわけで、「神」と銘打たれたこの本ですが、ドーキンスの舌鋒の矛先は、もっぱら憎きキリスト教へと向かってます。
現代においては、イスラム教が悪の権化のように(西側では)受け取られがちですが、キリスト教ほど独善と強権で民衆をいたぶり、奪い、殺してきた宗教は皆無で、そのおびただしさの規模は他教と何桁も違ってきます。
中でも、異端思想として最もひどい目に遭わされたのが科学者で、自然の法則を探ろうとしたり(現象に法則などない!自然とは神が自由自在に動かすもの!)、宇宙の真実に迫ったり(天上界は神の司る世界で不可侵!)する者は、容赦なしに拷問、迫害、挙げ句の果てには火あぶりにされてきました。
要するにキリスト教の本質とは、「聖書のみを信じろ!」「教義に反する言動をするやつは死刑!」というファシズムなのです(でした、と言いたいけど、今なお改善には遠いようです)。
人々の知識のすき間を粗探しにし、そこに眠る謎を「神」という概念で満たすことが彼らの企てです。
だから、本当にかしこいひとに余計な仕事(自然法則の理解)をされると困るのですね。
というわけで、科学者は目の敵にされ、徹底的な弾圧を受けるわけです。
当然のごとく、世界最高の知性のほとんどは宗教を疎んじてるというデータが出てまして、これによって、信者同志のカップルから遺伝的に賢い子が生まれる確率は低いというカガクテキな結論も導き出されます(彼らにはキセキを信じるしか方法がないようです)。
いやいや、冗談じゃなく、キリスト教の新知識への拒否感、新文化への排他性、そして聖書への執着といったら、尋常ではありません。
その点をドーキンスは、例によってありったけの証拠を積み上げ、ねちっこく論じ、あらんかぎりのレトリックを尽くしてコケのめします。
これが実に正鵠を射ていて、完全に納得させられ、痛快なのですね。
ぼくら無神論者の溜飲も下がりますが、むしろ、な〜んにも知らずにただ十字架をありがたがって手を合わせちゃってる信者さんにこそ読んでもらいたい本です。
ドーキンスは、腹に据えかねるこの教団の悪事の数々を、世に周知させたいという意欲に突き動かされてるのです。
「違う考えを持つ者を自分たちの立場に服従させようという振る舞いは、いったい何様のつもりなのか」「暴力と脅しで教義をひろめてきた連中の、どの口が道徳的信念を言うのか?」という言葉に象徴されるように、彼の怒りは宗教指導者に向かいます。
歴代教皇(法王)の傲慢、信者の隷属と無知であることの強要、そして部外者に対する迫害のえげつなさ(史実)ときたら、まるでブラックジョークに思えるほどです。
その道徳意識は、完全に内向きのものなのです。
聖書が言うところの「愛せよ」は、信仰の仲間に向けてのみの話で、信仰心のない者への「懲罰」と征服意欲ときたらすさまじいものがあります。
それもそのはず、聖書は、もっぱら「他者を滅ぼせ」の指示書という構成を取ってるのです。
実際に、聖書の「ことごとく滅ぼすべし」の言葉を愚直に行動に移したヒトラーは、神の名においてユダヤ人(キリスト殺しでおなじみ)を誅滅し、良心の呵責を感じることなく皆殺しを行うことができたわけです(教会もまたそんなナチスを支持しました)。
聖書はさらに過激な内容になってまして、中身を少し勉強したぼくも、そのエピソードのひどさ、くだらなさ、訳のわからなさ、気色悪さにはあ然としたものです。
信者はちゃんとこれを読んで理解した上で信仰してるのか、マジで謎ですわ。
しかしこのへんもまた、「聖書は完全なので、読んで、はて?と思う者は勉強が足りんか、解釈が間違ってる!」と教会サイドのレトリックは冴え渡るので、空いた口がふさがりません。
とにかくこの宗教は、「信じよ」が最初にきて、「考えるな」とつづき、「祈りなさい」で決着をつける方法論を金科玉条として頂いてるので、対処のしようがないのですね。
ぬる薬がない。
そして彼らの振る舞いからわかるのは、宗教が愛するのは宗教そのものであり、宗教が罰したいのは反道徳ではなく、反宗教(自分たちにとって気に入らない個人的な思考や行動)であるということです。
彼らは延々と自分の周囲を回りつづけ、進展できないのです。
仏教は、倫理体系、人生哲学としての体裁を採ってますが、キリスト教は、「祈れ」「信じよ」の他にはなにも教えてくれない空疎なものなので、その意味で、人々のオツムから理性を排除する必要があるわけです。
・・・と、ドーキンスは書いてます、ぼくが言ってるわけじゃありません。
つづきます。

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今読んでいるリチャード・ドーキンスが、このブログで前章までに書いてきたことをうまく表現しているので(くやしい)、パクリじゃないけど、レトリックだけを頂戴してぼくの考えるところに反映させてもらいます。
「利己的な遺伝子」でおなじみのドーキンスは、生物学界で知らぬひとはいない、ポスト・ダーウィニズムの巨人です。
彼は常に進化論を基にしてものを見ようとするひとで、量子力学と生物進化を掛け合わせた「分子生物学(細胞などの働きを分子レベルにまで解体して構造を知ろうという学術分野)」にもその考え方を持ち込んでいます。
ぼくは前章で、「人類は、世界の本当の姿を見ているわけではなく、自分たちの営みに必要な情報だけを選択して受け取り、活動が都合よくいくように主体的な解釈をしているにすぎない」ということをくどくどと書きました。
ドーキンスはこの点をわかりやすく、「人類の目は可視光だけを見るように進化したため、脳もまた、赤外線と紫外線の間におさまる限定された世界を構築するしかなかった」という表現を採っています。
人類が、もしもガンマ線だけを見るように進化していたなら、この世界は、ぼくらが見ているこの「感じ」とはまったく違ったものになっているはずです。
ヘビは赤外線を舌で感知して世界を構築していますし、コウモリは音波をキャッチして暗闇の中に立体世界を描いています。
犬はにおいで、鳥は電磁気で、ミミズは・・・なんらかの方法で独自に自然界から情報を選択的に受容し、自分たちのオリジナルな風景を築いているわけです。
そんな各々の主観によって描かれた独自な画づらが、人類のものとまったく異なることは、疑いがありません。
要するに、「世界」とは脳内にのみ存在しているもので、その意味ではみんなそれぞれに別の世界に住んでいるのです(同じ人類であるぼくとあなたとでも、それは違います)。
脳が高度に発達したわれわれ霊長類は、原形質に近い微生物の粗い世界とはまったく別ものの、さまざまな情報を総合して細密に組み立てられた世界を生きていると自負するわけですが、逆に、微生物がわずらわされている(あるいは彼らにとってはなくてはならないかもしれない)分子のブラウン運動や、微弱な電磁気力、量子世界のエンタングルメントなどを実感できない粗い世界を生きている、とも言えそうです。
自身の中で発達させた受容機械が、宇宙を飛び交うどの波をどう選択的に拾い上げ、脳内にどんな画を投影しているかによって、その者にとっての世界像(宇宙の形)が決定されます。
事実上の盲目であるコウモリは、相手のコウモリが可愛いかどうかを音で判断しますし、物質表面の細かなキメにぶつかる空気の震え(波!)によって、色彩のようなクオリアまで脳内に立ち上げている(とドーキンスは信じている)ほどです。
その世界を想像すれば、人類が唯一無二のものと思い込んでいる可視光解釈による脳内フィードバック映像が、いかに世界を表現しきっていないか、情報の偏った狭いものであるかが理解できそうです。
逆に言えば、ぼくらの感知の及ぶ守備範囲の外側にこそ、世界の真実はあります。
ぼくらが見ているこの世界は、文字通りに幻想でしかないわけです。
実際にはそこには、ただスカスカな波が立っているだけ、なのですから。
その中のどの波を拾ったところで、それは真実の一部でしかなく、ぼくらには世界の本当の姿を見ることはできません。
何者かの肉体が、例えばどんな電磁気力とも反応しないニュートリノでできていたとしたら、彼にとってそもそも物質という概念は意味を持ちません。
彼の世界には、形も触感も存在しないわけですから。
そんな生命体にとっては、太陽や地球などの天体は真空のようなもので、自身の「カタチ」すらもおぼつかなく、ビッグバンという世界創生からしてまったく別の現象に感じられ、とりあえずは光子とのやり取りや、素粒子の対生成・消滅などにつき合うことをベースにした進化と生き方が求められることでしょう。
だけど考え詰めれば、クォークやニュートリノを含めた素粒子という「波」概念そのものが、ぼくらが脳内に立ち上げた勝手な世界の一部なわけですよね。
素粒子どころか、ぼくらの世界の外には、ぼくらが感知できない、素粒子以外のものからできている生命体が独自に立ち上げた奇妙奇天烈な世界が、つまるところ、彼らの中に存在しているかもしれませんよ。
そんな彼らにとっては、われわれ物質世界に生きる生命体が、感覚的にまったく理解できない奇妙奇天烈な存在に思えるにちがいありません。

つづく

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ぼくの脳みそはタンパク質でできていて、その内部に張りめぐらされた細線(神経系)を電気が走り、線の間の節部が科学物質のやり取りをすることで、ぼくの「想と記憶」をつくり出す。
ニューロンとシナプスというやつだが、ここに「想と記憶」が刻印され、形を持って残るわけではない。
かと言って、DNAのように物質が配列されてデータとされるわけでもない。
「想と記憶」、つまりぼくのアイデンティティは、非物質から構成されている。
とは言え、そこに物質が関与していないわけでもない。
脳内に巡らされたシナプスとニューロンの経路・・・それらによる、言葉通りの道すじそのものが記憶回路となり、コードされるのだ。
タンパク質のかたまりである脳みそは、新陳代謝によって部品交換をくり返し、ひと月もすれば物質的にすっかり違った別ものに置き換えられる。
脳自体が、というよりもむしろ、形状を持ったぼくそのものが総取っ替えされるのだ。
なので、消えゆく運命である物質的なものは、記憶媒体とはなり得ない。
しかし、だ。
物質は消えゆくが、経路の配置は前物質を踏襲して保存される。
鉄道の全路線のレールを完全に入れかえてもルートが失われないのと同じ理屈で、脳みそを含めた肉体がひと月で失われても、新しい素材が経路を引き継ぐため、ぼくがせっせと構築した「想と記憶」は相変わらずにそこに同じ状態で居座りつづけることができるわけだ。
こうして、物質でないところに「内的なぼく」、すなわち永続的なアイデンティティの存在と継続が約束される。
さて、ぼくが所有するところのタンパク質でできた肉体は、内的なぼくが操縦する「外界をリモートで動くエージェントロボット」と言える。
これは、脳みそからつながる運動神経系へのアウトプット(感覚情報のインプットと逆方向のルート)で、外界へアクセスされる。
が、厳密に定義すると、「脳みそが動かす肉体の触れる世界が外界」なのではない。
また、「脳みそから外の神経系から先が外界」なのでもない。
形のないぼくの意思が起動させるあちらサイド・・・つまり形あるところである脳みそ・神経系という「内的なぼく」から先のパートすべてが外界なのだ。
わかりにくいが、物質界そのものが外界であるため、脳みそもまたぼくの外にあるというわけだ。
保存された「想と記憶」としての内的なぼく(操縦者)が、外界に存在する脳みそにアクセスし、神経系をコントロールして情報の獲得・・・つまり、見て聞いて触って外界の様子を感じ取り、それに対応したアウトプットで生命装置を操縦して、感覚を環境にフィットさせていく、という作業が生の営みというやつなわけだ。
そして逆に、ぼくの外側の世界に存在しているぼくの肉体の一部が、ぼくの「想と記憶」をつくり出してもいる。
ぼくの中に「想と記憶」があるわけではなく、ぼくはその「想と記憶」の中にいて、「想と記憶」そのものがぼくと言え、ぼくはぼくの肉体とは相互作用の関係にある。
内的なぼくを構築するのはぼくの外側にある肉体の活動だが、その肉体を操るものが内的なぼくであるため、この相互作用の関係は「脳の中に操縦者がいて、その操縦者には操縦者がいて、その操縦者の操縦者には操縦者がいて・・・」という無限の退行という批判を回避することができる。
さて、前説が終わったここで思い出してほしいのが、「肉体自体はマボロシのようなものだ」という量子論だ。
ぼくは、ぼくの肉体を「ある(在る)」ものとして感受しているものの、そこには実際にはなにもないと言っていい。
ここまでくどくどと説明してきた通りに、素粒子は「波という現象」なのであって、モノとしての実体があるわけではない。
波がどれだけおびただしく集まり、空間上であやを構成したところで、それはカタチなどにはなり得なく、したがって、ぼくの目に物質として見えているものが幻想でしかないことは自明だ。
この波の集まりを、ぼくが所有するところの生命機械は、スペクトルの反射や吸収という情報の色彩解釈や、電磁気力の反発としての手触り感によって、あたかもそこになにかが実在するように思わせてくれているだけなのだ。
まとめれば、この宇宙に物質などというものはなく、「波の濃淡の境界にラインを引く機能」を獲得した人類の目の構造が、ぼくに理解しやすい形で脳にデータを送って像を立ち上げ、また電磁気力の相互作用を利用した「イリュージョン→実在感」という感触への翻訳機能によってぼくをだまし、この目に、手に、世界を与えてくれているのだ。
そういう「発明」を、人類はしたのだった。
このマボロシという点を、次回は掘り下げてみたい。

つづく

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今回も少しの間だけ、難しい話を我慢してください(シンプルにやさしくしたいんだけど、どうしても、ね)。
ゆうべ布団の中で、前章に書いた自説をぼんやりと思い返しているうちに、本当にびっくりしたことに、「小林・益川理論が言う『CP対称性の破れ』ってのは、このことだったのでは?」とはたと気がついたのです。
このノーベル賞を獲ったやつは、当時に少し当たってみたぼくにはまったく理解ができていなかったのですが、かいつまんで言えば、「鏡面に映ったふたつの世界(パリティ)が対称性を持って(つまりまったく同じカンジに)存在している」ついでに「電荷が逆(+・-)の素粒子一対が、その点以外にはまったく同じ性質を持って存在している」というふたつの保存則が破れた場合、この物質世界の誕生が説明できそうだ、というものです。
・・・わからないですよね?
だけど、ゆうべ布団の中で突然、天啓が降りてきたように理解できたのです!
同時に、それってオレのアイデアなのになあ、先にふたりが見つけちゃったのかなあ・・・と。
とりあえず、小林・益川理論をベースに、ぼくの考えを説明してみますね。
まず、「鏡面に映ったふたつの世界」と気持ち悪いことを言いましたが、ぼくらの生きるこの世界のあちら側には、もうひとつのそっくりな反転世界が存在しているらしいのです。
これは、CERNなどの最先端の科学技術を用いた実験物理でも実証されていて、「あちらサイド」は、科学的にも現実のものとされつつあるようです(というか、それが存在すればいろいろと説明がつくのです)。
こちらサイドにある素粒子は、性質が同じで対となるふたつがかち合って対消滅し、エネルギーを残してあちらサイドの世界にいきます。
逆に、あちらサイドからは、こちらサイドにあるエネルギーに媒介してもらって、ふたつの素粒子が一対になり、忽然と立ち現れます。
つまり、あちらサイドをのぞき込むことができないこちらの世界内で物事を見ていると、素粒子は消えたり生まれたりしているわけです。
これは、エントロピーの法則と矛盾しているように思えますが、プラマイで相殺勘定が合うというか、精妙なエクスチェンジが成り立つので、法則には反しません。
これをうまく図式化して、電子(-)・陽電子(+)などの物質と反物質は、舞台と舞台裏の二面構造でできている表裏の世界間を行き来していると解釈しようではないか、というのが「パリティ」の概念と思われます。
そして、その表裏の対になった世界は、鏡面に映したようにそっくり!双方に違いなんて見あたらない!というのが、パリティの保存則でしょうか。
そしてそして、いやいや、そっくりだけどよく見たらちょこっと違ってるかも!というのが、パリティ対称性の破れ、です。
法則に漏れがあったから、「破れ」です。
さて、小林・益川理論の「CP」のCの方は「チャージ」でして、これは電荷のことです。
電荷も、世界にはプラスとマイナスが同じだけある「べき」なのですが、こちらもどうやらそうではないようなのですね。
つまり、先ほど出てきました物質・反物質の違いである電荷の勘定が合わない・・・すなわち、「物質と反物質の数が違ってる!」というのがチャージ対称性の破れでありまして、チャージとパリティ、このふたつを合わせて「CP対称性の破れ」ということになります。
鏡に映ったあっちの世界はこっちの世界とそっくりなのに本当は少しだけ違いがあるし、トランプの裏面にはそれと同数の表面があると思ってたのに実はそうじゃなかった!みたいなやつが、この理論です。
・・・難しくてすみません、やさしくしますから、マジでここまでは我慢して聞いてて。
と言いつつ、また前置きで終わってしまいました・・・

つづく

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前章の着想の説明があまりに雑で難解で「きょとん」だったので、ここではもう少し噛み砕いて解説を試みてみます。
ぼくら物質世界に生きる者は、逆説的ですが、外界は物質でできているものと神経系が解釈して、脳内に幻想世界を築いています。
実際の外界のつくりと振る舞いがあまりに摩訶不思議なので、観念をいろいろにいじくって、人類にもシンプルに理解ができる物質世界なる虚像を発明し、そういうものだということにしているに過ぎないわけです。
ここで言う外界とは、「自分のアイデンティティであるところの脳内世界」に対する外側という意味なので、自身の肉体も、脳構造をも外界に含みます。
あなたの外界のイメージは、網膜(目のレンズ)が時々刻々に拾った素粒子の様子を視神経が暗号化して脳の奥へと送信し、そこでのタンパク質間の電気と化学物質のやり取りによって、こちら都合の様式(というか、解釈の限界)に再構築された抽象画なので、世界の実相とは似ても似つかないものにすり替わっています。
絵画をにくわしいひとは、「いやいや、目に映ってるこの風景は、具象そのものだろ!」と考えるかもしれません。
確かに、人類の側から見たら、抽象的な世界の姿を物質として具象化している、という言い方もできますが、脳の外に存在するものこそがガチのリアリズムでであるために、創意は反転するのです。
ぼくらの脳は、つかみどころのない実世界を人類ごときの低能機械にも理解できるように、具象(ここでは単純に、具象絵画の意味)という形式で視界を観念化しているわけで、それはすなわち、実世界の抽象化という言い回しになります。
・・・いかんいかん、ちゃんとやさしく噛み砕いてます?この文面。
ここまでの前提を踏まえての、世界の実相の描写ということになるので、ついてきてください。
要するに、ぼくら人類は、視界の中にイリュージョンを見ているのだと、遺伝子の進化によって錯覚を見せられているのだと割り切って、まずは固定的な見方を捨てることが第一です。
だって、思い返してみてください。
以前に書いたように、この世は・・・例えば地球のような天体は、鉄筋コンクリートづくりのビルは、りんごは、そして人間の人体は、その構成物すべてが「パチンコ玉の周囲を甲子園球場の外周もの直径の軌道で回るごま粒」というほどの密度でつくられている、スカスカの空洞なのです。
中身が詰まっているように思えるのは、人類の機能が生み出す幻影なのです。
りんごがりんごに見えるのは、りんごを構成する元素のクーロン力に弾かれたスペクトルを受容する目と脳の便宜上の解釈なのであり、その感触は、りんごと指との分子間の電磁気力の反発力でしかありません。
そこには手応えを直接に伝える固まりなどはなく、絡み合う波同志の相互作用があるばかりなのでした。
「気持ち悪がらないでくれ」「オカルトの話じゃない」とは、このお話の所々に組み込まざるを得ない釈明ですが、マジでこれこそが「最先端の科学」なので、ご注意ください。
これから描き出そうと試みる世界は、不完全な人類が視覚や触覚で経験するよりも確かな、科学的検証によって明らかにされた実の姿、「実相」です。
というわけで、場の量子論なのですが、これは今年のノーベル物理学賞まで獲ったちゃんとしたやつなので、ひとつ信じてみてください。
・・・本編に入る前に、この章の字数も埋まってしまいました、ごめんなさい。

つづく

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常に新しい情報を得るために・・・すなわち、日々解釈が更新されていく「世界の真実性(の近似)」に接するために、科学の新刊本は見逃せません。
新しいページをめくるたびに、新しすぎる知見(アップグレードされた解釈)が殺到してきて、これがまた信じられないくらいにフレッシュで、知るたびに驚天動地!
なにしろ、それまでにコツコツと蓄積させてきた知識とはまるで別見解の宇宙が、まさしく日進月歩で上書きされ、一層上の説得力を持って目の前に展開するものだから、感動するとともに、当惑・混乱させられます。
なのにその本を読み終える頃には、新しく書店に並べられた別の本でさらなる知見の更新が行われているものだから、きりがありません。
この「死んだらどうなるか?問題」をちゃんと読み込んでくれているひとなら気づいちゃってると思いますが、章を経るごとに、筆者の限りある脳容量の中身が総取っ替えされたかのように、指が打ち込む世界の説明がコロコロと変わっていきます。
アウトプットの段階に至っても、おびただしいインプットによる脳内情報の書き換えがあるために、打ち込み作業が追いつかないのです。
ただ、筆者の指から新しく紡がれるものは「かつて書いたことの間違いの訂正」ではなく「知識の更新」なのであり、「より実相に近いものへの描写の細密化」「正確化」と理解してもらえたらありがたいことです。
というわけで、この長い長い一連の文章は、過ぎゆく風のような情報の中に置かれた、習作にすらも至らない「上書きされる運命にある、現時点での覚え書き」となっているので、みなさんにはななめに忘れ読みしてもらうことをお勧めします。
そんな軽〜い気分で、久しぶりにつづきを。

いきなりですが、時間は連続的なものではないようです。
びっくりしません?
つながっていないのですよ、昨日と今日とは、さっきと今とは。
時間が粒状で離散的なことは、場の量子論の計算式から確実とされていて、その刻まれた最小単位はプランク定数でも求められます。
時間は、ここでも何度も書いた通りに、空間と一緒くたになって「時空間」の形を取っていまして、その存在は伝統的に重力理論で説明されます。
重力なしには(われわれ人類が感知できるところの)時空間は発生できず、時空間なしには重力は存在できないので、このふたつもまた一蓮托生、一緒くたということになりますか。
そのへんを起点に、情報を頭の中で転がして宇宙創造の順序を整頓してみたので、ここに開陳します。
現世よ、生まれよ〜!
・・・さて、すべての前提として、さまざまな量子が展開する「場」があるのでした。
これは「電磁気」とか「重力」とか「物質」とか、あるいは「時空間」になりたがっている高エネルギーの「状態」で、まだ「特異点」という針の先ほどもない小箱に閉じ込められています。
これら「やがて粒になりうる波」が、それぞれに絡まり合い、重なり合って、なんというか、もやもやと浮遊しているわけです、どことも言えない場所を(「場所」「宇宙」「現世」自体がまだありません)。
・・・はやくも訳がわからなくなっていますが、ちょっとがまんしてね。
そこでまず、クォークの量子場を考えてみます。
クォークは、三つがくっつくと「陽子」「中性子」(要するに原子核)になる、物質の種と言える素粒子(波)なのでした。
宇宙創生前の煮えたぎる場において、クォークは対生成と対消滅を繰り返し、つまり、物質と反物質のペアで生まれたり、ペアごと消滅したりしていました。
ところが、あるときどういうわけか(この部分は未解明です)対称性が破れ、反物質よりも物質の方が多めに生成されたのですね。
すると、物質サイドが余るわけですから、相方(反物質)を求めて消える必要がなくなります。
ここですかさず、グルーオンの場と相互作用し(つまり、接着剤の役割をする素粒子が介入し)、クォークが三つくっついたわけです。
つまり、陽子(水素原子核)の誕生です。
陽子が生まれますと、今度はヒッグス場が相互作用し、粒に確固たる質量を与えます。
波という茫洋としたものが形と重みを持ちまして、いよいよ宇宙開闢(かいびゃく)の期待が高まります。
以前に重力理論の章で説明しましたが、質量のあるところには、重力が発生します。
ここで、重力場のグラビトンという未知の素粒子である重力子(まだ仮想的存在)が相互作用し、空間をゆがめるわけです。
・・・まてよ、わずか二行上で紹介した重力理論では、質量を持つ物質が時空間をゆがめて重力を生み出すのでした。
ところが、ここではまだ「時空間」そのものが存在していません。
だとしたら、これはどういう理屈なのか?
そこで、文脈を逆説してみます。
つまり、質量が時空間をゆがめて重力を生み出すのではなく、重力が質量と相互作用をしたゆがみこそが時空間なのでは?と仮説立てるのです。
わかります?
時空間における重力発生の話が、一周さかのぼって、重力による時空間の成り立ちの話にすり替わってしまいました。
要するに、アインシュタインが重力論の説明に用いた「フラットなゴム製マット」の状態は存在せず、その上に鉄球を置いた山谷こそが、時空間の正体(質量による発生)なのではないかと。
考えてみれば、なにもないフラットな場は、例えば人類の感覚器には引っ掛かりもなくスルーされてしまい、感知が不可能です。
そこ(時空間)は現世においては、トタン屋根のように波波でデコボコでなければならないのです。
そもそも、時空間のデコボコを光学的、電磁気的に受信して分析し、解像するのが人類の神経系だからです。
その時空間のデコボコをつくるものこそが、質量と重力場なのではないか?というのが、ぼくの新しいアイデアです。

つづく

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物理学を学びたいという以上は、哲学方面もかじっておかねばなあ・・・
そう考え、最も先鋭で極端で典型的と思える形而上学とやらに、いよいよ手を伸ばしてみたのだった。
形而上学ってのは、存在の絶対的な根拠を思惟のみによって考究しようという学問。
ざっくり言えば、この世の森羅万象を科学実験抜きで考え詰める試みと言えようか。
「科学実験抜きで」と今言ったのは、単純に形而上学が創始された頃に科学実験なんてものがなかったから、という意味に過ぎない。
つまり形而上学とは、イマジン学(想像してみて・・・)だ。
物理学を含む自然科学は、昔、哲学と一体だった。
というか、哲学こそが科学だった。
科学的根拠なる概念がまだ生まれる前のことだから、当然、頭の中でアイデアを練り上げ、より説得力のある疑似真理を構築していくしかない。
ただ、その作業の中では、神様や魔法などの超自然現象を用いるのは禁じ手。
この世界の舞台裏は、いったいどういう造りになってるのか?
この現象の大元には、いったいどんなカラクリがあるのか?
そのへんを、純粋な理論で説明していきたい。
形而上学は、そんな厳密なルールのやつなのだ(と思う)。
というわけで、古今、「存在」なるものを定義するいろんなアイデアが出されたわけだ。
「円とはなにか?この世に存在する円をすべて集めて捨て去ったら、円はなくなるか?」なんてことから、「全体は部分の集まりか?だとすると生命は、肉と骨で説明できるか?」とか、「無は存在するのか?」「時間はいつ開始されたのか?」「心とは?」なんておなじみのものまで、なかなか興味深い。
が、やはり考え方自体が古めかしく、説明の論拠が「アイデア」であり、帰納も演繹も「曖昧なもの」をベースにした「一般的にはこうであろうから」的な文体が許されるために、軽薄な印象は否めない。
理屈の底に、定理が置かれてないのが致命的。
そんな作業の成果は、物語化され、奇跡と結ばれて宗教になっていくわけだけど、そうした展開の一方で、真実を実験によって立証する「サイエンス」というものが生まれ、自然現象はリアリズムによって説明できるものになっていく。
最新の科学は、哲学が思い描いた世界像に追いつくどころか超越して、宇宙を具体的かつ細密に解明してしまうまでに充実している。
時間・空間の概念や、生命現象、果ては「我思う、故に我あり」までが、現代では素粒子の振る舞いで説明され、広く理解されている。
人間の頭脳の創造性は、実験科学が明らかとした現実に、遠く及ばなくなってるわけだ。
形而上学がたどり着いた摩訶不思議な世界の構造は、量子力学が示すさらに奇妙奇天烈な現実世界に飲み込まれ(すっかり包含された)、圧倒されつつあるのが現状なんではなかろうか?
そんなわけで、「それ知ってる」「それももう解明されてる」「そこもすっかり科学に追い越されちゃってる」とツッコむ作業に明け暮れる、わびしい読書となってしまった。
が、やはり人間のイマジネーションは面白い。
着想から矛盾をひとつひとつ排除していき、自然現象に説明の土台を築こうとした形而上学の作業過程は、途方もない苦労と面白さを伴ったにちがいない。
深い、深いのう・・・考えよる、考えよるわい・・・
高みに立って、そんな読み方をした。(いやらしい読者だ)
が、やはりこの時代においては、古くて甘くてシャビーだ。
この時代に哲学が生き残るのは、やはり難しそうだ。
その説明の多くは、すでに科学がやりきってしまってるのだから。

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ミレトスのタレスは、どの文献を読んでも「哲学者第一号」「自然科学の開始者」みたいに紹介されてます。
その弟子に、アナクシマンドロスというのがいまして、この人物の思想展開を軸に、神々が統べた世からいかに自然科学が起こり、科学(物理学・数学・生物学)へと変遷を遂げていったのかを考えていきます。
その時代までは、「自然とは神さまの意思の反映である」という考え方が一般的・・・というよりも、そう理解するより他はありませんでした。
雷はゼウスの怒りの表現、日食は不吉なことが起きる前触れ、みたいなやつです。
そこにタレスが現れ、歴史上ではじめて「あらゆる物質は水の変化した形である」と言いだしました。
自然を、神さま抜きに説明しようとしたのです。
ところがタレスは、その結論に考え至ったことをゼウスに生け贄を捧げて感謝するような人物だったので、その弟子のアナクシマンドロスが「結局、神さまかよ!」とツッコんで反抗し、創始したのが科学だったわけです。
アナクシマンドロスは、自然の観察から正確に、「雨は川や海から蒸発した水が大気中で冷えて落ちてくるだけ」「大地は無限のひろがりではなく、巨大な空間に浮かんだ土の円盤(ちょっと惜しい)」として、現象の説明から神さまの介入の一切を取り除こうと試みました。
こうした考え方が広く行き渡ることで、ギリシャ文化は花開き、現代で知られていることの大半はギリシャ時代にすでに理解されていた!というほどの科学的発展を遂げたのです。
ところが、ここでおっちょこちょいなローマが台頭してくるのですね。
ローマ時代は、非難を覚悟で言えば、キリスト教が文化・文明をぶっつぶして、教養をサルのレベルに先祖返りさせた時代、です。
マルクスが「宗教は権威者のためにのみ機能する」と達見を披露してますが、帝国と手を結んだあの教団は、科学を魔女扱いし、徹底的に弾圧したのです。
宗教とは要するに、その教義を「完璧で絶対的で最終的!」と誇ってはばからない、限りなく無知な組織ですから、世界の真実が次々に明らかにされると非常に困るのですね。
特に、教義の反証が出て確たる論理立てをされると、「逆に間違ってる感じになる(実際に間違ってるが)」権威サイドの信用が失われ、恥ずかしい目に遭うことになるので、どうしても許せないわけです。
そこで、こざかしい科学者など殺せ、肉を削いで、八つ裂きで、火に炙って・・・と短絡的な大虐殺をしはじめるわけですが、この行為にも知性はどこにも見出せません。
というわけで、一千年の長きにわたり、科学は虐げられ、教団によるうそ一辺倒の無理強い知識が幅を利かせるせいで、人々はアホのまま過ごすしかなかったのです。
ちなみに、紀元前3世紀のアルキメデスが計算によって小数点以下6桁までを正確に弾き出していた円周率は、ローマ時代になると3,1から先がもうあやふやな数字となってしまいました。
そこにようやく光を差したのが、ルネッサンスと啓蒙思想です。
ルネッサンスという言葉は、新しい芸術運動の勃興という小さな意味に解釈されがちですが、実は「再生」と訳せまして、要するに、ギリシャ時代に育まれた知性と理性を取り戻し、世界の真実をきちんと探ろうではないか、というムーブメントです。
こうしてようやく、地球は回りはじめ、生物は進化を開始したのでした。
科学は、新たな発見のたびに前説を覆すしかないという性質上、「常に間違いつづける」宿命を背負ってます。
しかしそれは、「常に正確性の限界へと更新をしつづける」「真実に近づきつづける」姿勢の裏返しでもあります。
完璧で絶対的で最終的なものは、人類の歩みを止めます。
史上初の哲学を生み出したタレスでしたが、その師の間違いをアナクシマンドロスが修正し、正確性を更新してはじめて、科学が生まれました。
そして、新たな発見と既存の見方の修正に向けて、今日も宇宙の果てを、ミクロの底を、遙かな古代を、果てしない未来をのぞこうではないか、それこそが科学だよ、と著者は叫んでるのでした。

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チャールズ・ダーウィンが着想した進化論は、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」によって近代化され、定着したわけですが、そのドーキンスの理論も、今やすっかり古典化してきました。
それをさらに更新して、現代科学にマッチさせたのが本作と言っていいかもしれません。
当のドーキンスが序説を書いているのも興味深いところです
ドーキンスの著作に、チャールズ・ダーウィンが帯を書く、というくらいの洒落っ気ではないですか。
ホーキンスによる進化論が、ポスト・ドーキンス論と認められた証でしょう(ホーキとドーキでややこしいな)。
ドーキンスは(以前にこのブログでも書いた通り)、生物は遺伝子によって生かされている機械だ、と論じて、世界に衝撃を与えました。
生命とは突き詰めれば遺伝子情報のことであり、その命ずるところに従って、「わたし」は外環境から物質を集めて肉体をつくり上げ、生涯の営みの中で「遺伝子を後世に残す」という作業を行い、死んでいく、という説です。
遺伝子の意図は、遺伝子自体の存続とアップデイトなので、その情報さえ後の世代に継続できれば、「わたし」の肉体さえ使い捨てにできるのです。
要するに、生物がなぜ死ぬのかというと、遺伝子にとって「わたし」のアイデンティティなどさほど重要ではなく、遺伝情報をリレーする途中経過の一部分(一世代)に過ぎないから、というわけです。
これに異議を唱えたのが本作で、著者は「人類が獲得した高性能の脳が、それを拒否しはじめた」としています。
大脳新皮質は、高度な霊長類のみが持つ理性を司る脳の部位で、この新しい脳の一部が、古い脳と戦いをはじめた、と言うのですね。
つまり、原始的な動物は、遺伝子の命ずるところに従って戦い、奪い、犯し、どんな手を使ってでも子孫を残そうとインプットされているわけですが、人類だけがそれを回避しているのだ、と。
例えば、空腹の「わたし」を生かすために、店頭に並んだリンゴを盗んで食らいつきたい、と古い脳は欲求するわけですが、新しい脳である新皮質は、その行為を「だめだよ」といさめます。
目の前に置かれたケーキを食べれば、古い脳の本能は「高カロリーがまかなえる!」とよろこぶでしょうが、新しい脳は「まてまて、太るぞ」とストップをかけることもします。
いい女を見たら、こいつと今すぐせっくすしてえ〜!と古い脳は切望し、ナマでヤって精液ぶちまけてえ〜!とハアハアしますが、新しい脳はそれに歯止めをかけ、まずはまどろっこしく映画デイトから入り、お食事の機会を重ねまして、ついに事に至りましても「ここはまだ子孫繁栄の件は置いておいて、ひとまず避妊具を使っておこうではないか」となります。
要するに、子供なんかつくらない、という、遺伝子サイドから見たらおよそあり得ない反抗に、人類は及びはじめたわけです。
その大脳新皮質がどんなメカニズムで社会の構造理解を進めたのか、という謎解きから、機械知能・AIへとつながっていく最先端技術まで、現代の脳科学を概論的にスケッチした内容となっています。
網羅の幅が広すぎて、語りたいカテゴリーが散らかっている印象ですが、面白く読めました。

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