物理学を学びたいという以上は、哲学方面もかじっておかねばなあ・・・
そう考え、最も先鋭で極端で典型的と思える形而上学とやらに、いよいよ手を伸ばしてみたのだった。
形而上学ってのは、存在の絶対的な根拠を思惟のみによって考究しようという学問。
ざっくり言えば、この世の森羅万象を科学実験抜きで考え詰める試みと言えようか。
「科学実験抜きで」と今言ったのは、単純に形而上学が創始された頃に科学実験なんてものがなかったから、という意味に過ぎない。
つまり形而上学とは、イマジン学(想像してみて・・・)だ。
物理学を含む自然科学は、昔、哲学と一体だった。
というか、哲学こそが科学だった。
科学的根拠なる概念がまだ生まれる前のことだから、当然、頭の中でアイデアを練り上げ、より説得力のある疑似真理を構築していくしかない。
ただ、その作業の中では、神様や魔法などの超自然現象を用いるのは禁じ手。
この世界の舞台裏は、いったいどういう造りになってるのか?
この現象の大元には、いったいどんなカラクリがあるのか?
そのへんを、純粋な理論で説明していきたい。
形而上学は、そんな厳密なルールのやつなのだ(と思う)。
というわけで、古今、「存在」なるものを定義するいろんなアイデアが出されたわけだ。
「円とはなにか?この世に存在する円をすべて集めて捨て去ったら、円はなくなるか?」なんてことから、「全体は部分の集まりか?だとすると生命は、肉と骨で説明できるか?」とか、「無は存在するのか?」「時間はいつ開始されたのか?」「心とは?」なんておなじみのものまで、なかなか興味深い。
が、やはり考え方自体が古めかしく、説明の論拠が「アイデア」であり、帰納も演繹も「曖昧なもの」をベースにした「一般的にはこうであろうから」的な文体が許されるために、軽薄な印象は否めない。
理屈の底に、定理が置かれてないのが致命的。
そんな作業の成果は、物語化され、奇跡と結ばれて宗教になっていくわけだけど、そうした展開の一方で、真実を実験によって立証する「サイエンス」というものが生まれ、自然現象はリアリズムによって説明できるものになっていく。
最新の科学は、哲学が思い描いた世界像に追いつくどころか超越して、宇宙を具体的かつ細密に解明してしまうまでに充実している。
時間・空間の概念や、生命現象、果ては「我思う、故に我あり」までが、現代では素粒子の振る舞いで説明され、広く理解されている。
人間の頭脳の創造性は、実験科学が明らかとした現実に、遠く及ばなくなってるわけだ。
形而上学がたどり着いた摩訶不思議な世界の構造は、量子力学が示すさらに奇妙奇天烈な現実世界に飲み込まれ(すっかり包含された)、圧倒されつつあるのが現状なんではなかろうか?
そんなわけで、「それ知ってる」「それももう解明されてる」「そこもすっかり科学に追い越されちゃってる」とツッコむ作業に明け暮れる、わびしい読書となってしまった。
が、やはり人間のイマジネーションは面白い。
着想から矛盾をひとつひとつ排除していき、自然現象に説明の土台を築こうとした形而上学の作業過程は、途方もない苦労と面白さを伴ったにちがいない。
深い、深いのう・・・考えよる、考えよるわい・・・
高みに立って、そんな読み方をした。(いやらしい読者だ)
が、やはりこの時代においては、古くて甘くてシャビーだ。
この時代に哲学が生き残るのは、やはり難しそうだ。
その説明の多くは、すでに科学がやりきってしまってるのだから。

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ミレトスのタレスは、どの文献を読んでも「哲学者第一号」「自然科学の開始者」みたいに紹介されてます。
その弟子に、アナクシマンドロスというのがいまして、この人物の思想展開を軸に、神々が統べた世からいかに自然科学が起こり、科学(物理学・数学・生物学)へと変遷を遂げていったのかを考えていきます。
その時代までは、「自然とは神さまの意思の反映である」という考え方が一般的・・・というよりも、そう理解するより他はありませんでした。
雷はゼウスの怒りの表現、日食は不吉なことが起きる前触れ、みたいなやつです。
そこにタレスが現れ、歴史上ではじめて「あらゆる物質は水の変化した形である」と言いだしました。
自然を、神さま抜きに説明しようとしたのです。
ところがタレスは、その結論に考え至ったことをゼウスに生け贄を捧げて感謝するような人物だったので、その弟子のアナクシマンドロスが「結局、神さまかよ!」とツッコんで反抗し、創始したのが科学だったわけです。
アナクシマンドロスは、自然の観察から正確に、「雨は川や海から蒸発した水が大気中で冷えて落ちてくるだけ」「大地は無限のひろがりではなく、巨大な空間に浮かんだ土の円盤(ちょっと惜しい)」として、現象の説明から神さまの介入の一切を取り除こうと試みました。
こうした考え方が広く行き渡ることで、ギリシャ文化は花開き、現代で知られていることの大半はギリシャ時代にすでに理解されていた!というほどの科学的発展を遂げたのです。
ところが、ここでおっちょこちょいなローマが台頭してくるのですね。
ローマ時代は、非難を覚悟で言えば、キリスト教が文化・文明をぶっつぶして、教養をサルのレベルに先祖返りさせた時代、です。
マルクスが「宗教は権威者のためにのみ機能する」と達見を披露してますが、帝国と手を結んだあの教団は、科学を魔女扱いし、徹底的に弾圧したのです。
宗教とは要するに、その教義を「完璧で絶対的で最終的!」と誇ってはばからない、限りなく無知な組織ですから、世界の真実が次々に明らかにされると非常に困るのですね。
特に、教義の反証が出て確たる論理立てをされると、「逆に間違ってる感じになる(実際に間違ってるが)」権威サイドの信用が失われ、恥ずかしい目に遭うことになるので、どうしても許せないわけです。
そこで、こざかしい科学者など殺せ、肉を削いで、八つ裂きで、火に炙って・・・と短絡的な大虐殺をしはじめるわけですが、この行為にも知性はどこにも見出せません。
というわけで、一千年の長きにわたり、科学は虐げられ、教団によるうそ一辺倒の無理強い知識が幅を利かせるせいで、人々はアホのまま過ごすしかなかったのです。
ちなみに、紀元前3世紀のアルキメデスが計算によって小数点以下6桁までを正確に弾き出していた円周率は、ローマ時代になると3,1から先がもうあやふやな数字となってしまいました。
そこにようやく光を差したのが、ルネッサンスと啓蒙思想です。
ルネッサンスという言葉は、新しい芸術運動の勃興という小さな意味に解釈されがちですが、実は「再生」と訳せまして、要するに、ギリシャ時代に育まれた知性と理性を取り戻し、世界の真実をきちんと探ろうではないか、というムーブメントです。
こうしてようやく、地球は回りはじめ、生物は進化を開始したのでした。
科学は、新たな発見のたびに前説を覆すしかないという性質上、「常に間違いつづける」宿命を背負ってます。
しかしそれは、「常に正確性の限界へと更新をしつづける」「真実に近づきつづける」姿勢の裏返しでもあります。
完璧で絶対的で最終的なものは、人類の歩みを止めます。
史上初の哲学を生み出したタレスでしたが、その師の間違いをアナクシマンドロスが修正し、正確性を更新してはじめて、科学が生まれました。
そして、新たな発見と既存の見方の修正に向けて、今日も宇宙の果てを、ミクロの底を、遙かな古代を、果てしない未来をのぞこうではないか、それこそが科学だよ、と著者は叫んでるのでした。

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チャールズ・ダーウィンが着想した進化論は、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」によって近代化され、定着したわけですが、そのドーキンスの理論も、今やすっかり古典化してきました。
それをさらに更新して、現代科学にマッチさせたのが本作と言っていいかもしれません。
当のドーキンスが序説を書いているのも興味深いところです
ドーキンスの著作に、チャールズ・ダーウィンが帯を書く、というくらいの洒落っ気ではないですか。
ホーキンスによる進化論が、ポスト・ドーキンス論と認められた証でしょう(ホーキとドーキでややこしいな)。
ドーキンスは(以前にこのブログでも書いた通り)、生物は遺伝子によって生かされている機械だ、と論じて、世界に衝撃を与えました。
生命とは突き詰めれば遺伝子情報のことであり、その命ずるところに従って、「わたし」は外環境から物質を集めて肉体をつくり上げ、生涯の営みの中で「遺伝子を後世に残す」という作業を行い、死んでいく、という説です。
遺伝子の意図は、遺伝子自体の存続とアップデイトなので、その情報さえ後の世代に継続できれば、「わたし」の肉体さえ使い捨てにできるのです。
要するに、生物がなぜ死ぬのかというと、遺伝子にとって「わたし」のアイデンティティなどさほど重要ではなく、遺伝情報をリレーする途中経過の一部分(一世代)に過ぎないから、というわけです。
これに異議を唱えたのが本作で、著者は「人類が獲得した高性能の脳が、それを拒否しはじめた」としています。
大脳新皮質は、高度な霊長類のみが持つ理性を司る脳の部位で、この新しい脳の一部が、古い脳と戦いをはじめた、と言うのですね。
つまり、原始的な動物は、遺伝子の命ずるところに従って戦い、奪い、犯し、どんな手を使ってでも子孫を残そうとインプットされているわけですが、人類だけがそれを回避しているのだ、と。
例えば、空腹の「わたし」を生かすために、店頭に並んだリンゴを盗んで食らいつきたい、と古い脳は欲求するわけですが、新しい脳である新皮質は、その行為を「だめだよ」といさめます。
目の前に置かれたケーキを食べれば、古い脳の本能は「高カロリーがまかなえる!」とよろこぶでしょうが、新しい脳は「まてまて、太るぞ」とストップをかけることもします。
いい女を見たら、こいつと今すぐせっくすしてえ〜!と古い脳は切望し、ナマでヤって精液ぶちまけてえ〜!とハアハアしますが、新しい脳はそれに歯止めをかけ、まずはまどろっこしく映画デイトから入り、お食事の機会を重ねまして、ついに事に至りましても「ここはまだ子孫繁栄の件は置いておいて、ひとまず避妊具を使っておこうではないか」となります。
要するに、子供なんかつくらない、という、遺伝子サイドから見たらおよそあり得ない反抗に、人類は及びはじめたわけです。
その大脳新皮質がどんなメカニズムで社会の構造理解を進めたのか、という謎解きから、機械知能・AIへとつながっていく最先端技術まで、現代の脳科学を概論的にスケッチした内容となっています。
網羅の幅が広すぎて、語りたいカテゴリーが散らかっている印象ですが、面白く読めました。

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「この世界は空である」推しがますます極まりつつあるこの読みものですが、その先に果たしてタイトルに準じた着地点はあるのでしょうか?
筆者としては、深い考えなしに(知識と科学的裏付けには正確を期しているつもりですが)その場での思いつきを並べ立て、ロンリの行方は成り行きにまかせているので、自分の指先から編まれる文章を読み返しては、「ええっ、世界ってこんな姿だったのか?」と驚き、興奮し、得心がいっているわけではないものの、それでもただ書き進めるしかないのが現状です。
こうしてまったく不意に現れてしまった、サイエンスでは説明のつかない「生気」なるものの存在は、筆者の手に負えるものではないので、いったんは横に置いておきます。
ここではまた深海底に場所を移し、分子が生物の前駆体である粗機能を組み立てているところまで、話を巻き戻しましょう。
ところで、ダーウィンの雰囲気的進化論は、今や精密に理論立てられた「ドーキンスの進化論」に取って代わられた感じです。
進化論を「キリンは、高い枝の葉っぱを食べようとがんばった結果、首が長くなった」という、今だに昭和時代の解釈(というよりも俗説)を信じているひとは少し問題があるので、きちんと理解しましょう。
キリンの首は、正確には「短いもの、太いもの、曲がったもの・・・いろんな姿に枝分かれした結果、長くまっすぐに伸びる方向に進化したものが適者として生き残った」のでした。
首の短い種が、何世代にもわたって高い枝の葉っぱを食べようとしたところで、首が長くはなりません。
たった一度の遺伝子のコピーミスが首の長い種をつくり出し、その有利な形質を獲得した当たり組が生存競争を勝ち抜いていくことで、ついに全キリンが首の長い種の子孫に置き換えられたわけです。
進化はランダムかつ全方向的であり、強い意欲と指向が種の形態を変貌させていくわけではありません。
要するに、あなたが肉体改造を試みてムキムキになったところで、その変わりっぷりは子孫の姿かたちにはつゆほども影響を与えない、ということです。
後天的な獲得形質は、次の世代に遺伝することはないのでした。
さて、話題は海底深くの熱水噴出口に戻っています。
その煙突は半導体素材でできており、側壁にうがたれた微細な小部屋内で、自然の力で発動するエンジンが・・・電子の通過による分子間のドミノ押し出しで駆動する機構が奇跡的に組み上がり、なおも物質の掛け合わせを繰り返して、洗練と複雑化を進めているのでした。
そして、素材の数知れないコンビネーションのトライアルは、ついにベストマッチを見つけ出したようですよ。
こうしてついに、有機物の合成は(はなはだ都合よくはありますが)RNAの形成にまでたどり着いたのです!
RNAはご存知の通りに、遺伝子の元、進化の基本単位みたいな性質のひとなので、おおいよいよか?という感じになってきますね。
ここで思い出したいのが、生物という概念における三大基本要素です。
それは、1・外界から独立している(膜に包まれたりとか)、2・自己管理をする(新陳代謝をしたりとか)、3・自己複製をする(子孫を残したりとか)・・・というものでした。
この中では、1番があまりにも簡単に実現できそうに見えるために、おっちょこちょいなひとは、最初の生命体が「まずあぶくの中に材料を詰め込み」「その中で新陳代謝を学ばせ」「最終的に自らの完コピを制作」できるようになるのが真っ当な順序だと考えるわけです。
ところが、これは残念ながら引っ掛け問題のNG解答です。
なぜなら、あぶくは儚いものだからです。
いっとき、奇跡のようにあぶく生物が発生したとしても、その命脈が一日と保つことはありません。
あぶくがはじけるまでの制限時間内に、新陳代謝と自己複製の能力を身につけることは、絶対的に不可能です(1億年もらっても足りないほどでしょう)。
だとしたら、ある場所に留まってじっくりと生命現象を身につけ、機能を完成させてから自前の容器(ぶっちゃけ、細胞膜)をつくり、満を持してその環境を離脱してポータブルになるのが現実的です。
つまり、この順序並べ替え問題の正解は、「まずは小部屋の中で自己複製の機能までをつくり上げる」でした。
われわれのご先祖さまであるRNAは、どうやらこの問題に正解したようです。

つづく

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生命の原質としての、例えば「生気」なるものの存在が先にあり、とある何物か(純粋な物質)に取り憑いて、その内面で意識を形成する・・・という順序は、科学サイドには受け入れがたいことです。
その考え方は、神の存在を認める=科学的な説明を回避する、という行為に等しいわけですから。
やはりここは、自然がつくりあげた機能が進化を経るうちに、徐々に内面に意識が発生した、と考えたいところです。
ただ、この生命観は、表裏一体の形で、死観の解答をズバリと含んでいます。
つまり、生命や意識の正体が純粋な物理的機能なのだとすれば、生物のメカニズムが滅んだ(肉体が死んだ)のちに、魂には行き場がない、ということです。
魂の器であるところの生命機械が灰になれば、内容物であったアイデンティティがおさまりどころを失うことは自明です。
認めたくない事態ですが、その答えはまたしても棚に上げておいて、先に生命の発生を考え詰めてみましょう。
ついては、発生・・・この言葉の意味を、根本的に考え詰めてみます。
この読みものが量子力学を説明するくだりで、筆者は「粒子とは、現象である」ことを明らかにしてきました。
この言葉はシュレディンガーさんのものですが、要するに波と粒子の二面性を持つ素粒子は、素粒子間の相互作用によってのみ、その「効果」であるところの姿を見せるのです。
くどいようですが、またこの例え話を出させてください。
三つのクォークがグルーオン(これらすべてが、素粒子という仮名をあてがわれた波)と相互作用をして原子核を形成し、これがフォトンの媒介で電子と相互作用をして、やっと原子という形の物質になります。
ところが、粒子とは名ばかりの素粒子は、実は波なのであって、「場」として世界に展開しており、個々が各位置に座標を持って漂っているわけではありません。
要するに、素粒子とは「ひろがり」そのものなのであって、それを収縮して粒子化させるには、観測者の存在が必要となります。
この世には時間も空間もなく、「素粒子」とうっかり表現されてしまった波が立っており、その波が何者かの意識による観測によって一点に収縮し、ようやくわれわれ人類種に感じることができる様式であるところの粒子の形状を取るのでした。
結果、その粒子を手触りあるものとして感じるわれわれの内面が、ひとりひとりの脳の中に物質的世界を形づくっているわけです。
こんな幻想みたいな茫洋としてつかみどころのない世界観が、最先端の理論(そして当代最高の知性の巨人たちによるコンセンサスに近い解釈)なのであります。
・・・まだ疑います?
確かに、これってオカルトみたいで、スピリチュアルじみていて、筆者が狂っていて・・・みたいなやつですが、アインシュタインやシュレディンガーが基礎をつくって、その後につづく物理学者たちが最先端技術を駆使して精緻極まる実験結果を限りなく積み上げて構築したモデルなのですよ。
そこだけはちゃんと理解してください(つまり、筆者がマッドな人間ではないことを)。
このオカルト物語・・・もとい、最新理論は、理解力に限りのある人類をさらに深淵な暗闇の奥へと導きます。
それはあまりにも現実離れした、「観測者がいない場所では、物質は存在し得ない」という事実です。
いや、ここでは「場所」という言葉を用いることも許されません。
なぜなら、観測者のいない世界には、場所そのものが存在しないのですから。
「世界」そのものがあるのかどうかも疑わしいところです。
が、これは積み上げてきた理論の、結論と言ってよろしい部分です。
観測者が波動を収縮させて世界を三次元の様式に変換し、実体化させないことには、粒子が相互作用によってつくり出す物質世界は永遠に実現しないのです。
ということはですよ、またまた驚くべき事態が明らかになります。
それは、「素粒子に先立って、生命が存在する必要がある」ということです!
観測者が粒子を生み出すというのなら、そう考えるしかありません。
生命から発生する意識による観測なしに、波は粒子化してくれないわけですから、これは「ニワトリが先か卵が先か?」の議論よりも解答が明白に思えます。
議論は最初に戻りますが、科学が試行錯誤してたどり着いた結論はこうです。
魂の入れものである物質的機能に先立って、内容物である生命が存在していなければ、世界そのものを誕生させることができない。
よって、「生気」は存在する!
おめでとうございます、これであなたの死後、あなたの中身は行き場を獲得する可能性が出てきました。
・・・ほんとかなあ?

つづく

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生物の「食べる」という行為は、突き詰めれば「物質から電子を引き剥がし、体内機能のスイッチリレーをさせる」という意味に他なりません。
どういうことか、単純な例でその過程を説明します。
植物が日光を浴びると、葉緑素が働いて、細胞内で栄養分がつくられます。
以前の章でも書いた、おなじみの「水・H2Oと二酸化炭素・CO2からブドウ糖・H6C12O6を組み立てて、余った酸素・O2を放出する」というやつです。
この一連の作用を起動させるのが、日光というわけです。
そのメカニズムを、分子生物学・・・つまり量子レベルで読み解くと、とてもおもしろいのですよ。
日光は、光子という素粒子でできていまして、これが葉緑素内の元素(例えば水素)に飛び込むと、その中の電子が励起(元気になる)されて飛び出します。
この電子は暴れん坊なので、水と二酸化炭素の分子構造に働きかけて、結合をほどきます。
一方で、電子(-電荷)が抜けた水素原子(もとは中性)は、水素イオン=陽子となって、電荷が+になっています。
この電荷の変更によって水素イオンは、もともと細胞内で偏りができていた電位の影響を受け(例の陽子勾配に従って)、あっちこっちの分子に受け渡されていきます。
電荷は元素間の接着剤ですから、バラバラにほどかれた分子が、イオンの力でまた組み立て直されるのです。
こうして、ブドウ糖が編み上げられます。
ここで特筆すべきは、「電子と陽子が、誰の意図を汲むわけでもなく、全自動で解体と合成という仕事をやってのけている」という事実です。
つまりこれは、物質が物理的な現象のみを用いて、まるで生きているかのごとくに連動する例です。
生命活動とは要するに、素粒子によるこうした小仕事の積み重ねなのです。
生命の問題に、いよいよ量子が顔を突っ込んできました。
分子同士の合体(化学結合)は、大雑把に言って「陽子と電子が持つ電磁気力でくっつき合う」「分子の外側に突き出た、あるいは欠けた電子の凹凸でパズルのように噛み合う」の二種類なので、電子の抽出と利用は、生命現象にとって決定的な重要事となるわけです。
励起した電子は、あちこちに受け渡されて利用され、徐々にエネルギーを吸い取られた挙げ句に、最後は酸素と結合し、呼吸で体外(植物の話をしているのでした)に排出されます。
この「あちこちに受け渡され」る行程がまた、自然現象に厳密に従っていまして、電子を強く求める分子から弱くなっていく順番で利用されていきます。
用意された勾配に従って電子が流れていくことが、生命現象の安定をもたらしているのだから、実に不思議です。
電子がその都度に道すじを判断して決めていくのではなく、あらかじめ電子が必要な順序で、生物の分子構造ができているわけです。
このミステリーの深いところが理解できていますか?
電子が遺伝子に働きかけるシーンを例に取って説明します。
まず、電子がある分子に飛び込むことで、機構の分子構造に変化が起こり、それがスイッチとなってシステムが起動し、DNAの固く結んでいた二重螺旋が解錠します。
飛び込んだ電子はエネルギーを減らし、この場では必要とされなくなりますが、次なる求めに応じて、別の分子に飛び移ります。
そして、その場でまたスイッチの役割を果たすわけです。
電子を失った水素イオンも大活躍です。
これがひとつ余るだけで、水素結合で繋がっていた塩基・塩基の組み合わせが次々にほどけて、DNA鎖がジッパーのように開いていきます。
その後は、分子構造が次々に枝分かれして、定められた通りに仕事が進みます。
要するに、電気が流れていく形で化学結合と解離が起き、さらにそれに弾き出される形で、+と−の素粒子が各現場現場に指示を与えていくわけです。
こうして、開かれたDNA鎖にRNAが飛び込んでコードを読み取るわ、コピーを終えたメッセンジャーRNAが離脱し、トランスファーRNAと示し合わせてアミノ酸を集めるわ、リボソームにもぐり込んでタンパク質の組み立てに入るわ・・・という連鎖反応が起きていくのです。(ちょっと違うかもしれませんが、こういうもんだということをざっくりと物語にしています)
そして驚くべきは、これら電子の先々に立ち現れるすべての構造分子が、電子が持つエネルギー準位と電荷を必要とする切実性の順序で並べられているという点です。
その整然と用意された順路があるために、電子はナチュラルに移動し、その度に小機構のスイッチが入っていき、連動が開始され、それらを総合した結果、素粒子のオーダーとは桁違いの巨大なメカニズムが動いて正確な仕事をする、というわけなのです。
その一連の仕事は完全に自律的・・・というよりは、自然の摂理に忠実に従っているために、生命体(細胞の持ち主)の意思が入る余地も必要もまったくありません。
生命体は、生きているのではなく、生かされている、としか表現のしようがありません。
さて、こうまで洗練されたシステムが後々の世に発生するとして、今は深海底の小穴に単純な有機物が集められつつあるのでした。
この場所で、電子とスイッチングのメカニズムを組み上げることができれば、生命誕生にぐっと近づくことができます。
われわれはそれを思考で試みてるのでした。
ところがこれがなかなか難しい作業なのです。
このせまいスペースで、限られた物質と現象を使ってつくり上げたい目標は、「RNA」なので。

つづく

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死んだらどうなるか?を考えていたのだと、ふと思い出すわけですが(いつも忘れます)、ずいぶんと回り道をしているものです。
ただ、その目的地にたどり着くまでに、まずは「生命現象」という途方もない道のりをゆかねばなりません。
そして、死を語る前に、どうしても誕生を考え詰める必要があるのでした。
あなたが生まれた話ではなく、生命そのものが生まれた話を、です。
ダーウィンは「生ぬるい小さな池」あたりから生命は発生したと考えていたようで、確かにその環境だと、有機的なスープが凝縮され、温められたり日を浴びたり濡れたり乾いたりを繰り返すうちに、生命の素のようなものがころりと生まれそうな予感があります。
実際に、太古の地球上に存在し得た物質を煎じて電気を流す(カミナリの代わりに)、というバカバカしい実験で、アミノ酸が生成された事実があります。
さらに、干潟の満ち干で細胞膜がつくられ(これも実験ずみ)、その中に収められた有機的なスープがうまい具合いに循環すれば、ダーウィン的進化の初手になり得るという研究もあるようです。
ところで、今さらの感はありますが、生命誕生には必要最低限の三つの条件があります。
すなわち、
1、閉じた系である(細胞膜などに覆われ、外界から独立している)
2、自分の体を自分で維持管理できる(養分を摂取してエネルギーをつくり、新陳代謝をする)
3、自己複製ができる(自分の形をした子孫を残す)
というものです。
上に紹介した「スープにカミナリ説」は、「まずは膜の中に材料を入れてしまおう」という順序なわけです。
一方で、ぼくはこちらの方がオススメなのですが、「生命現象をつくったのちに、それをカプセルに入れて環境から独立させよう」という考え方もあります。
それが、現時点で最も有力な生命発生理論である、「深海底熱水噴出口生命起源説」です。
地球が出来たての頃、大気には酸素がなく、当然ながら、海洋にも二酸化炭素が充満していました。
その深海底に、地底のマグマで熱せられた水が噴出する穴が空いていた(現在の深海底にも存在します)ところから、物語ははじまります。
この熱水は数百度もあって、文字通りにアッチッチなわけですが、その周囲に、比較的穏やかな温水噴出の口があると想像してください。
そこからは、硫化水素が主成分の(つまり、二酸化炭素の海水とはpHが違う)水が噴き出しているのです。
温水には硫黄やら鉄やらといった重金属も含まれているために、その成分が積もり積もった噴出口は、まるで煙突のようになっていまして、見た目通りに「チムニー」と呼ばれます。
さて、チムニーには非常に微細な孔がたくさん開いており、スポンジのような内部構造になっています。
その入り組んだ迷路のような孔に、都合よろしく、前生命物質が安定的にひそむことができそうなのですね。
現代のような酸素たっぷりの海の中に水素が飛び込むと、両者は安定を求めて水(H2O)になりますが、当時の二酸化炭素の海では、メタン(CH4)になります。
C!なんとなんと、この記号はゆうきの証です(有機物とは、炭素=C混じりである、ということです)。
ただ、メタンで生命が創造できればいいのですが、その後に誕生したわれわれの肉体は、極めて雑な言い方をして、「メタンになりきる前の中間物質」である、ホルムアルデヒドからメタノールあたりの「雰囲気」でできています。
つまり初期生命は、安定した水素と二酸化炭素の壁は化学変化で飛び越えたが、メタンに到達してしまうほどには変化しすぎなかったようです。
その中間の不安定な物質に留まって、生命は創造されたわけですが、こんな難しい作業を魔法で実現させてくれるのが、チムニーの多孔質な壁面というわけです。
チムニーを形成する素材である鉄と硫黄の化合物は半導体で、電子が都合よく通過できるようになっています。
そして、水素を噴出させるチムニー内と、外界である二酸化炭素の海との間に、前章でミトコンドリアの構造を例にして説明した電荷の勾配(「陽子=+」と「電子=-」の濃度による電荷の差)が存在するのです。
要するに、内と外とで陽子の数が違うために、浸透圧により、陽子も電子も多い方から少ない方に流れたがります。
この勾配(理論上の坂の角度)により、噴出してくる水素まじりの熱水から、二酸化炭素の海に向かって、半導体であるチムニー内を電子がほとばしります。
電気の発生です。
このエネルギーを獲得し、チムニー内で眠っていた無機物が有機化され、多孔質な小部屋のひとつひとつに、生命の素とも言うべき初期物質(単純なアミノ酸など)が濃縮されてたまっていくと考えたら・・・あなた、興奮しないでいられますか?

つづく

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「この世に物質が生まれた」の部分を入念に描写しているわけですが、本当にこの物語、死にまでたどり着く日がくるのですかね・・・?
それはさておき、比較的穏やかな環境を与えられた太陽系第三惑星で、原始世界はひとつの実験を開始しました。
電荷の勾配(+と-の強弱バランス)によるイオンや電子の移動と、化学反応(原子のモデル上の電子の出っ張りやへこみを噛み合わせるパズル)のみによって、多種多彩な分子の形成をはじめたのです。
組み上げられた分子はさらに組み合わされ、ますます多様な性質のものに展開されます。
数限りないピースの突き合わせが、ああでもない、こうでもない、と果てしなく繰りひろげられました。
原始世界は、元素間の相性を根気強く試したようです。
その結果、さまざまな分子が巧みに絡まり合うアミノ酸が「偶然に」生み落とされました。
生命をつくるのに非常に重要な素材です。
さらにアミノ酸は長大に連ねられ、とてつもなく複雑な構造のタンパク質が「偶然に」形成されました。
こんな偶然の連鎖(文字通り)が、実際に起きるものですかね?
しかしまあ、億年のケタとは、それが形成されるに十分な歳月なのかもしれません。
そもそも現代の結果からさかのぼれば、自然はその難しい方程式の解をあらかじめ用意していたわけですから、「できそうなものはできる」という法則から、必然的にそれはでき得たのでしょう。
こうして、自然は生命体を形づくる準備を終えたわけです。
それをこの惑星上で具体的な風景にスケッチすると、「ぬるい陽だまりの海辺にたまった有機物のスープ」という画づらになります。
そこへ、雷がドーン!と落ちまして、原始の生物が発生しました。
・・・というのが、古典的な科学(ただの直感?)による生命誕生物語の見立てだったわけですが、最新の理論によると、そうではないようです。
ここでもミトコンドリアの構造がヒントになっているので、生命発生のメカニズムの説明を聞く前に、予習しておきましょう。
ミトコンドリアというエネルギー製造装置は、電荷の勾配で発動します。
「プロトン(陽子)勾配」と呼ばれますが、ふたつの系の間に陽子の濃度差があるのです。
要するに、装置の外側と内側とで陽子の数が違っていまして、陽子を多く持つ装置外から浸透圧の原理で、この+電荷を中に呼び込むことができるわけです。
そして装置内への通過の際に陽子は、ある羽根仕掛けの酵素を回転させ、ころりとエネルギー(ATP)を組み上げるのです。
そのメカニズムはあまりに全自動的で、ミトコンドリアとしては「仕事をするぞう、それっ」という発意さえ必要ないほどなのです。
これはつまり、細胞内にミトコンドリアをもつ宿主(例えば人類)が、ミトコンドリアのエネルギー生産の働きを「自律的」と表現するのと入れ子になって、ミトコンドリアにとっても、ATPの生産は自律的であると言えます。
そういうからくりにできてるんだから、やろうとは考えなくても無意識下でそれをやっちゃう、という意味です。
無意識下!・・・これは非常に深い意味を持つ表現ですよ。
なぜなら、「生命体のある部分を動かすのに、意識は必要ない」「それはただの自然現象なのだから」と言っているのと同意なわけですから。
水が高いところから低いところへと流れるのと同じことが、そしてその流れが勝手に水車を回してしまうのと同じことが、生命体の内側に設置されたエネルギー製造装置において起きているのです。
そしてこの装置のメカニズムは、深海底にも存在するのだ・・・というのが、現在の発生生物学の主流となりつつある理論です。
昔むかし、太古の昔・・・ある深海底に、地下深くでマグマに熱せられた水が噴出しておったのじゃ。
・・・からはじまるお話ですが、これは次回に。「この世にものが生まれた」の部分を入念に描写しているわけですが、本当にこの物語、死にまでたどり着く日がくるのですかね・・・?
それはさておき、比較的穏やかな環境を与えられた太陽系第三惑星で、原始世界はひとつの実験を開始しました。
電荷の勾配(+と-の強弱バランス)によるイオンや電子の移動と、化学反応(原子のモデル上の電子の出っ張りやへこみを噛み合わせるパズル)のみによって、多種多彩な分子の形成をはじめたのです。
組み上げられた分子はさらに組み合わされ、ますます多様な性格のものに展開されます。
数限りないピースの突き合わせが、ああでもない、こうでもない、と果てしなく繰りひろげられました。
原始世界は、元素間の相性を根気強く試したようです。
その結果、さまざまな分子が巧みに絡まり合うアミノ酸が「偶然に」生み落とされました。
有機体をつくるのに非常に重要な素材です。
さらにアミノ酸は長大に連ねられ、とてつもなく複雑な構造のタンパク質が「偶然に」形成されました。
こんな偶然の連鎖(文字通り)が、実際に起きるものですかね?
しかしまあ、億年のケタとは、それが形成されるに十分な歳月なのかもしれません。
そもそも現代の結果からさかのぼれば、自然はその方程式の解をはじめから用意していたわけですから、「できそうなものはできる」という法則から、必然的にそれはでき得たのでしょう。
こうして、自然は生命体を形づくる準備を終えたわけです。
それをこの惑星上で具体的な風景にスケッチすると、「ぬるい陽だまりの海辺にたまった有機物のスープ」という画づらになります。
そこへ、雷がドーン!と落ちまして、原始の生物が発生しました。
・・・というのが、古典的な科学による生命誕生物語の見立てだったわけですが、最新の理論によると、そうではないようです。
ここでもミトコンドリアの構造がヒントになっています。
このエネルギー製造装置は、電荷の勾配で発動します。
つまり、装置の外と中で陽子の数が違っていまして、陽子を多く持つ装置外から浸透圧の原理でこの+電荷を呼び込み、装置内への通過の際に、ある羽根仕掛けの酵素を回転させ、ころりとエネルギー(ATP)を組み上げるのです。
そのメカニズムはあまりに全自動的で、ミトコンドリアが「意図的な仕事をする」必要さえないほどなのです。
これはつまり、細胞内にミトコンドリアをもつ宿主(例えば人類)が、ミトコンドリアのエネルギー生産の働きを「自律的」と表現するのと入れ子になって、ミトコンドリアにとっても、ATPの生産は自律的、と言えないでしょうか。
そういうからくりにできてるんだから、やろうとは考えなくても無意識下でそれをやっちゃう、という意味です。
そしてこの装置のメカニズムは、深海底にも存在するのだ・・・というのが、現在の発生生物学の主流となりつつある理論です。
昔むかし、太古の昔・・・ある深海底に、地下深くでマグマに熱せられた水が噴出しておったのじゃ。
・・・からはじまるお話ですが、これは次回に。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

さて、そんな物質生成プロセスが、転がりに転がって、現在の宇宙の大構造に展開したわけなのでした。
色彩鮮やかで変化に富む、豊潤極まる多様世界に、です。
・・・なんだか不思議ですよね。
なぜなら、最も単純で確率の高い(つまりナチュラルな)宇宙の進展は、一様な確度で素粒子たちが生成され、ビッグバン以降に拡大をつづける空間に完全な均衡を保った状態(どこを切り取っても一律)でひろがっていく、という形のはずです。
なのに、宇宙にはガスが偏っているし、そこには銀河もあればブラックホールもあり、あまつさえ生命体などという複雑系が存在しています。
整理整頓が行き届いた要素を解体し、エネルギーゼロの果てしない「無の平面」にならすのがエントロピーの役割なら、単独では使いものになりそうにない素粒子たちを、特異点から飛び出した勢いそのままに、散らかったまま交わらせず、各々まっすぐに進ませればよかったのです。
それだけで、エントロピーはなんの障害もなく増大しつづけ、たちまち目指す荒野に落ち着くはずでした。
その点において、現実の宇宙の秩序立った入れ子細工と有機的な連動は、意図的と言っていいほどの不自然さがあります。
ここに、ちょっとした生命の謎のヒント的な・・・生命体の誕生と宇宙の大構造展開のプロセスに類似点を嗅ぎ取るのは、こじつけでしょうか?
と、このアイデアはしばらく横に置いておいて、宇宙構築のプロセスを突き詰めます。
ビッグバンが生み落とした、素粒子とは名ばかりの量子ときたらとんだやんちゃもので、ここにいるのに同時にあそこにもいるという「もつれ」に、いながらにしていないという「重ね合わせ」ときては、その振る舞いは予測不可能です。
波の姿で空間にひろがっているのに、観測者の存在で収縮して粒子になる、などという変幻癖はまだまだ序の口。
量子の存在を表す関数の「いるかいないか50%の確率」とは、「いるといないの両方」ということであり、「いるけどいない」と「いないけどいる」が半々ずつ、という理解を超えた内容を含んでいるのです。
表現が難しいのですが、量子にとって50とは、1か100か50か、ということではなく、1か100か「1と100の両方」なのです。
意味がわからないでしょ?
放射性物質の半減期、も奇天烈です。
一個の放射性同位体は、半減期の間、崩壊前と崩壊後の両方の状態を同時に取っているというのですよ。
半減期を終えて観測をして、はじめてそれが崩壊を終えたかどうかがわかるのです。
このコペンハーゲン解釈に、アインシュタインさんは大反発をしましたが、すべての実験結果がその現実を示唆しているので、最終的には納得せざるを得ないのでした。
量子とはそんなあやふやなものですから、おびただしい素粒子がビッグバンから一直線に飛び出すというよりは、宇宙空間でモグラ叩きのように現れては消える、とした方がより正確な表現となります。
この性質を踏まえて、以前の章で雑に描写した宇宙成長の様子を細密ぎみに加筆すると、次のようになります。
ビッグバンは、物質の種であるクォークと同時に、世界に「力の素粒子」を与えることも忘れませんでした。
重力の量子場から発生する重力子=グラビトンは、質量を持つもの同士の引き合いを媒介する、例の「万有引力」の因子で(この「質量を与える」のがヒッグス場のヒッグス粒子で、重力子は相対性理論によれば「時空間をゆがめる」役割のものですが、ここでは「物質は引きつけ合う」というニュートン力学の表現を採ります)、物質を寄せ集めてひとつに丸め込み、練り上げて天体をつくります。
一方でグルーオンの核力=強い力は、核融合や超新星爆発で、天体の破壊に努めます。
重力子が、閉じた系をつくってコツコツとエントロピーの減少を試みるのに対し、グルーオンの強い力は、収支計算でマイナス分を補うにあまりあるエントロピーの増大に努めるというカウンターバランスでせめぎ合って宇宙を耕し、その仕事からこぼれ出た元素に、光子の媒介する電磁気力が働きかけます。
われわれの物質世界を、事実上構築しているのは電磁気力で、それの及ぼす化学反応(元素間の電子のやり取り)が、さまざまな性質を持つ分子構造をつくり上げてくれるわけです。
かくて、ぼくらが生きるこの複雑極まるわりに組織立った世界は、精妙につくり込まれていきます。
ビッグバンからこっち、世界は一直線にエントロピーの最大値を目指すのではなく、量子の振る舞いが許す遊びしろをつかって回り道をし、束の間(というにはあまりにも長い間)、こんなにも秩序よろしく整頓が行き届いた構造を許されたのでした。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

あなたは運命を信じますか?
昔、運命は信じてよいものでした。
ニュートンさん(あるいは、ラプラスさん)の計算式の時代までは。
ところが、相対性理論がニュートン力学を論破し、量子力学が幅を利かせるようになると、運命は「ゆらぎ」と「もつれ」と「波動関数」に揉まれて無数に枝分かれするものとなり、「あなたのゆく末を定めることはできない」と結論づけられることになりました。
すべての結果は、原因から発生します。
ある時点における宇宙のすべての状態が物理的・力学的に確定的なら、未来における宇宙の全運動(すなわち、将来の出来事)は確定的に思えます。
ある位置に置かれたビリヤードの白玉を突くとして、その力と方向が完全に確定すれば、その玉の飛ぶ方向は確定的であり、さらにその先に配されたどの玉とどの玉にぶつかってどれがどのポケットに入るか、というところまで確定できるわけです。
それを宇宙に置きかえれば、ビッグバン時の初期値がその後の宇宙の物質の振る舞い一切を決定した、となります。
つまり、ビッグバンが素粒子を散らした時点で、将来に起こる事件はすべて運命づけられていたのだ、と。
ところが、そうではなかったのです。
おびただしいツブツブ(素粒子)に力と方向が確定的に与えられた、と考えられていたこのオープニングイベントは、ビリヤードのように単純なドミノ倒しをしてくれるものではありませんでした。
ビッグバンが開いた空間にひろがったのは、物質としてのツブツブではなく、茫洋とした量子場だったのです。
要するに、波が立ったのです(・・・だろうね、と熱心な読者は感じていることでしょう)。
今「量子場」と書きましたが、これはビッグバンによって生まれた空間いっぱいにひろがる「波の立った次元」です。
ビッグバンは、波打つ次元を何層にも重ねた空間を生み出したのです。
そして、この波の高い部分に「確率的に」素粒子が生成されまして、それらが相互作用することにより、力も発生します。
非常に難しく、直感に反したメカニズムですが、説明を試みてみます。
例えば、開いた量子場のひとつに、クォークの場があります。
この波打つ場の頂点に、一個のクォーク・・・すなわち、本当の意味での素粒子が出現します(反物質として電荷が逆の反クォークも対生成されますが、ここでは省略)。
隣の波の山でも、その隣でも、クォークが出現しまして、合計三個ができました。
その波に重なって、グルーオン場という量子場もありまして、波の高いところ(これが「量」です)でグルーオンという素粒子が生成されます。
このグルーオンは、核力(強い力)を媒介する素粒子でして、クォーク間に働いて三つをくっつけてしまい、一個の陽子を構築する役割をします。
つまり、こうして水素原子核ができたわけです。
ここにさらに重なって、電子を生成する場、光(フォトン=光子)を生成する場が存在していまして、今さっきできた水素原子核(クォーク三つ+グルーオン)と電子が、光が媒介する電磁気力で引き合って、一個の水素原子を構成する、というプロセスを踏みます。
物質はこうした量子場の相互作用によってできているのです。
要するに場とは、素粒子を生んだり消したりする波打つ次元です。
そして、この波が高くなったところに、高確率で素粒子が出現するわけですね。
その生成は、ただただ可能性のパーセンテージで示せるのみであって、シュレディンガーさんの波動関数の計算式によると、絶対に確定ができません。
さらに素粒子は、ハイゼンベルクさんの不確定性原理によって位置と運動量があやふやなシロモノとされているので、絶対にシッポをつかませてくれないのですよ。
要するに素粒子は、ここにいるのかそこにいるのかわからない、いついていついなくなったのかもわからない、という、ツブらしからぬ振る舞いをするのです。
しかも、「力」って、素粒子だったのですよ!
重さも、電気も、ベータ崩壊も、素粒子なのです。
逆に言えば、人間って、波なのですよ。
こんなやつらを、ビッグバンは宇宙中にばらまいたのですから、運命ときたらたまりません。
はてさて、どっちに転ぶやら・・・ですわ。
しかし、いつか書いた「宇宙マイクロ波背景放射」が、宇宙空間に完全に均一に・・・いや、ほんの少しだけ揺らいで漂っていることから、場が完全に均衡している(素粒子が当初、完全な等間隔で配されていた)ことは間違いありません。
たった今、「ゆらぎ」という言葉を使いましたが、素粒子の曖昧な性格のせいで、初期値にわずかな遊びしろが発生し、それが増幅されていったわけなのですね。
そのせいで、あなたの運命も定まらない、ということになります。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園