
物理学を学びたいという以上は、哲学方面もかじっておかねばなあ・・・
そう考え、最も先鋭で極端で典型的と思える形而上学とやらに、いよいよ手を伸ばしてみたのだった。
形而上学ってのは、存在の絶対的な根拠を思惟のみによって考究しようという学問。
ざっくり言えば、この世の森羅万象を科学実験抜きで考え詰める試みと言えようか。
「科学実験抜きで」と今言ったのは、単純に形而上学が創始された頃に科学実験なんてものがなかったから、という意味に過ぎない。
つまり形而上学とは、イマジン学(想像してみて・・・)だ。
物理学を含む自然科学は、昔、哲学と一体だった。
というか、哲学こそが科学だった。
科学的根拠なる概念がまだ生まれる前のことだから、当然、頭の中でアイデアを練り上げ、より説得力のある疑似真理を構築していくしかない。
ただ、その作業の中では、神様や魔法などの超自然現象を用いるのは禁じ手。
この世界の舞台裏は、いったいどういう造りになってるのか?
この現象の大元には、いったいどんなカラクリがあるのか?
そのへんを、純粋な理論で説明していきたい。
形而上学は、そんな厳密なルールのやつなのだ(と思う)。
というわけで、古今、「存在」なるものを定義するいろんなアイデアが出されたわけだ。
「円とはなにか?この世に存在する円をすべて集めて捨て去ったら、円はなくなるか?」なんてことから、「全体は部分の集まりか?だとすると生命は、肉と骨で説明できるか?」とか、「無は存在するのか?」「時間はいつ開始されたのか?」「心とは?」なんておなじみのものまで、なかなか興味深い。
が、やはり考え方自体が古めかしく、説明の論拠が「アイデア」であり、帰納も演繹も「曖昧なもの」をベースにした「一般的にはこうであろうから」的な文体が許されるために、軽薄な印象は否めない。
理屈の底に、定理が置かれてないのが致命的。
そんな作業の成果は、物語化され、奇跡と結ばれて宗教になっていくわけだけど、そうした展開の一方で、真実を実験によって立証する「サイエンス」というものが生まれ、自然現象はリアリズムによって説明できるものになっていく。
最新の科学は、哲学が思い描いた世界像に追いつくどころか超越して、宇宙を具体的かつ細密に解明してしまうまでに充実している。
時間・空間の概念や、生命現象、果ては「我思う、故に我あり」までが、現代では素粒子の振る舞いで説明され、広く理解されている。
人間の頭脳の創造性は、実験科学が明らかとした現実に、遠く及ばなくなってるわけだ。
形而上学がたどり着いた摩訶不思議な世界の構造は、量子力学が示すさらに奇妙奇天烈な現実世界に飲み込まれ(すっかり包含された)、圧倒されつつあるのが現状なんではなかろうか?
そんなわけで、「それ知ってる」「それももう解明されてる」「そこもすっかり科学に追い越されちゃってる」とツッコむ作業に明け暮れる、わびしい読書となってしまった。
が、やはり人間のイマジネーションは面白い。
着想から矛盾をひとつひとつ排除していき、自然現象に説明の土台を築こうとした形而上学の作業過程は、途方もない苦労と面白さを伴ったにちがいない。
深い、深いのう・・・考えよる、考えよるわい・・・
高みに立って、そんな読み方をした。(いやらしい読者だ)
が、やはりこの時代においては、古くて甘くてシャビーだ。
この時代に哲学が生き残るのは、やはり難しそうだ。
その説明の多くは、すでに科学がやりきってしまってるのだから。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園

