「やればできるはずなのに、どうして自分から勉強しないのだろう」

お子さんの姿を見ながら、そんなもどかしさを感じたことはありませんか。

声をかけても、なかなか机に向かわない。ようやく始めても、少し難しい問題に出会うと手が止まる。間違いを直しても、なぜ間違えたのかまでは考えようとしない。

大切な子どもだからこそ、「もう少し頑張ってほしい」と願ってしまう。その気持ちは、私にもよく分かります。

最近、忙しさからSunday Special Blogを書く時間が取れずにいました。しかし、日々の教育の現場で、ずっと考えていたことがあります。

それは、**「学力を上げたいという思いが本人の中にないとき、私たちはどのように学力を育てていけばよいのか」**という問いです。

教え方を工夫する。教材を変える。課題を減らす。励まし、待ち、ときには背中を押す。それでも、こちらの思いが届かないように感じることがあります。

学びへの向き合い方は、まさに十人十色です。だからこそ、「こうすれば必ずやる気が出る」という簡単な答えでは片づけられないのだと思います。

私は今回、この問題を「学力への執着」という言葉で考えてみたいと思いました。

少し強い言葉ですが、点数や順位だけにこだわるという意味ではありません。「この問題を自分で解きたい」「分からないままで終わりたくない」「昨日より少しできるようになりたい」。そんな、学びを自分のこととして受け止める気持ちです。

この気持ちがあれば、間違いも、次に進むための手がかりになります。しかし、その気持ちは「持ちなさい」と言われて、すぐに持てるものではないのでしょう。

ここで、私たち大人も少し立ち止まって考えたいのです。子どもに、初めから強い意欲を求めすぎてはいないでしょうか。

大人でも、苦手なことに最初から熱心に取り組めるとは限りません。やってみて、少し分かり、できることが増えてから、面白くなることがあります。

子どもの勉強も、「できるようになりたいから勉強する」という順番ばかりではないはずです。「支えてもらいながら取り組むうちに、できるようになりたいと思い始める」という道もあります。

**意欲は、学習の出発点になることもあれば、学習の中で育つこともある。**そう考えると、今はやる気が見えない子にも、私たちができることは残されています。

まず大切にしたいのは、「やる気がない」という言葉で、その子の姿をまとめてしまわないことです。

問題を前にして手が止まる理由は、一つではありません。説明が理解できていないのかもしれません。何から始めればよいか分からないのかもしれません。疲れていることもあれば、間違えるのが怖いこともあるでしょう。

また、「どうせ自分にはできない」と思い、挑戦する前に諦めかけている可能性もあります。

「できるようになりたいと思っていない」のか。それとも、「できるようになりたいと思っても、無駄だと感じている」のか。この違いは、とても大きいと思います。

ただし、大人が心の内を決めつけることも避けたいものです。「どこで困った?」「最初の一つだけ、一緒に見てみようか」。本人の言葉と、実際に取り組む様子から、必要な支えを探していきたいのです。

次に大切なのは、本人が「自分にもできた」と確かめられる経験をつくることです。

それは、必ずしも百点を取ることではありません。文章題を読んで、大切な数に印をつけられた。昨日は先生に聞いていた計算を、今日は一人で進められた。答えは違っていても、途中の考え方を説明できた。

大人から見ると小さな変化でも、その子にとっては意味のある一歩かもしれません。

そのとき、「すごいね」だけでなく、「今日は自分で図を描けたね」「前は見落としていたところを、確かめられたね」と、具体的に伝えてみる。何ができるようになったのか、本人にも分かる言葉で返すことを大切にしたいと思います。

もちろん、簡単なことだけをさせればよいわけではありません。少し考えたり、手がかりをもらったりすれば進める課題を用意する。その子が自分の力を使える部分を残しておくことが大切です。

そして、一度できたことが翌日にできなくても、「昨日できたでしょう」と責める前に、どこまで分かっているかを確かめる。思い出すための手がかりがあれば、また進めるかもしれません。

家庭では、勉強を始めるまでのやり取りに疲れてしまうこともあるでしょう。「早くしなさい」を何度も繰り返すうちに、親子ともに苦しくなってしまう。そんなときは、本人の気持ちだけを変えようとするのではなく、始め方を具体的にしてみる方法があります。

例えば、「勉強しなさい」ではなく、「まずノートを開いて、この一問をやってみよう」と伝える。終わりが見えない課題ではなく、「今日はここまで」と示す。取り組む順番を、「計算と漢字、どちらから始める?」と選んでもらう。

子どもによって合う方法は違いますが、大人がすべてを決めるのではなく、小さくても本人が選ぶ余地を残したいと思います。

また、勉強の後には「何点だった?」に加えて、「前より分かったことはあった?」「どこが難しかった?」と尋ねてみてください。

すぐに答えが返ってこなくても構いません。毎回、感想を言わせる必要もありません。結果だけでなく、途中の頑張りや困りごとにも関心を持っている。そのことが伝わる関わりを、大切にしていただきたいのです。

一方で、受験や学校の学習には期限があります。「やる気が出るまで待ちましょう」だけでは、保護者の不安に応えられません。

だからこそ、今必要な学習を小さく整理し、続けられる形をつくることと、本人の気持ちを育てることを、並行して考える必要があります。

量を増やす前に、何につまずいているかを見る。終えたページ数だけでなく、何が分かったかを確かめる。家庭と教室で困りごとを共有し、同じことで繰り返し責められる状況をつくらない。大人同士の連携も、学びを支える大切な要素です。

それでも、すべての子どもが、同じように勉強に熱中するとは限りません。

工作なら何度もやり直す子。生き物のことなら熱心に調べる子。好きな物語について、いくらでも話せる子。その姿にも、学ぶ力の一端が表れています。

「その熱意を勉強に向ければよいのに」と言いたくなることもあるでしょう。しかし、まずはその子が何に心を動かされ、どんなときに粘り強くなれるのかを知りたいと思います。

好きなことを、無理にすべて勉強へ結びつける必要はありません。それでも、その子を理解する手がかりは、教科書の外にもあるはずです。

私自身、「もっとできるはずだ」という期待があるからこそ、もどかしくなることがあります。ただ、その期待が「もっとできなければいけない」という圧力に変わっていないか。子どもの姿とともに、自分の関わり方も問い直したいと思っています。

学力への執着なくして、どう学力を上げていくのか。今も、簡単な答えは持っていません。

けれども、今は意欲が見えないからといって、その子の未来まで決めてしまいたくはありません。

分からなかったことが分かる。自分の工夫が役に立つ。困ったときには助けてもらえる。そんな経験を重ねる中で、「もう少しできるようになりたい」という願いが育つ余地を、私たちはつくっていけるのだと思います。

その願いが、いつ、どんな形で生まれるかは、一人ひとり違うのでしょう。私はこれからも、目の前の子どもが自分の力を諦めずに済むように、その小さな変化に気づける教育者でありたいと思います。

 

Sunday Special Blog
一般社団法人 自在能力開発研究所 代表理事 乙幡和重

 

 

子育てに迷ったとき、そっと開いてほしい一冊ができました
― 家庭教育ブックレット『子どもの未来は、家庭から育まれる』のご紹介 ―

「この子への関わり方は、これでいいのだろうか」

子育てをしていると、そんなふうに立ち止まることがあると思います。

勉強をなかなか始めない。
学校に行きたがらない朝がある。
何度伝えても、思うように伝わらない。
周りの子と比べて、成長がゆっくりに感じられる。

大切に思っているからこそ、心配になる。
応援したいのに、つい強い言葉が出てしまう。

そして、お子さんが眠ったあとで、「もう少し違う言い方ができたかもしれない」と振り返る。

そんな日々の中で、少し気持ちを整え、子どもとの関わりを考えるきっかけになる一冊を届けたい。

その思いを込めて、家庭教育ブックレットを制作しました。

『子どもの未来は、家庭から育まれる』
― AI時代を、自分らしく生きる力を育てる ―

教育学・脳科学・発達心理学の視点から、子どもの育ちと学び、そして家庭での関わりについて考える冊子です。

■ 子どもの姿を、少し違う角度から見つめるために

私は、30年以上にわたり教育に携わってきました。

子どもたちと向き合う中で、考え続けてきたことがあります。

「どうすれば、この子が自分の力を発揮できるだろうか」

同じ説明でも、すぐに分かる子もいれば、実物を見たり、何度か試したりすることで理解する子もいます。

背中を押してほしい日もあれば、少し待ってほしい日もあります。

目に見える行動だけでは、その子が何に困っているのか、分からないこともあります。

だからこそ、大人の側にも、子どもの姿を見ながら関わり方を考え直す余地があってよいと思うのです。

この冊子では、学校へ行けなくなる子どもの心、幼少期からの学びの土台、心と脳の関係、AI時代の教育、学び直しなどを、6つの章にまとめました。

■ この冊子でお伝えしていること――目次のご紹介

はじめに
子どもの未来は、何度でも育まれます。
― 本書にこめた思い ―

第1章 なぜ、子どもは学校へ行けなくなるのか
子どもの心に起きている変化を理解する

「学校に行かない」という行動の背景に、どのような思いがあるのか。子どもの心の変化を理解するところから考えます。

第2章 幼少期から始まっている「学びの土台」
家庭が育てる自己肯定感と学ぶ力

家庭での関わりと、子どもの自己肯定感や学ぶ力について考える章です。「家庭で今日からできる7つのこと」も収めています。

第3章 心が疲れると、脳は学べなくなる
脳科学から考える学びの回復

学習を考えるとき、心の状態にも目を向けることが大切です。「学びを支える脳のしくみ」「脳の働きと学びの関係」の図を交え、学びの回復を考えます。

第4章 AI時代、本当に必要な学力とは何か
AIと共に生きる教育へ

AIが身近になる時代に、子どもたちにどのような力を育てたいのか。これからの学びと教育を考える章です。

第5章 子どもは、もう一度学び始めることができる
学び直しが未来を変える

学びにつまずいたとき、そこからどう歩み直していくか。「学びの回復モデル」「学び直しの好循環モデル」とともに考えます。

第6章 教育は、未来を再設計する営み
子どもの未来は、何度でも育まれる

今の状態だけで、その子の未来を決めつけない。これからの教育と、子どもの可能性を支える関わりを見つめます。

このほか、著者紹介と、Sprouts(スプラウツ)の紹介も掲載しています。

■ 家庭で使える5つの付録も収めました

読むだけでなく、ご家庭で振り返ったり、書き込んだりするためのページも用意しました。

付録1 家庭でできる発達チェックリスト

付録2 家庭教育カルテ「育てる記録」

付録3 「できた!できた!(記録)シート」

付録4 未来ノート(目標設定記録)

付録5 家庭教育10か条

「今日は、どんなことができたかな」
「最近、どんなことに興味を持っているかな」
「次は、何を一緒にやってみようか」

親子で話したり、大人が関わり方を振り返ったりするきっかけとして、使っていただければと思います。

発達チェックリストも、点数で子どもを評価したり、診断したりするためではなく、日々の様子を見つめる手掛かりとしてご活用ください。

すべてを一度に取り組む必要はありません。今のご家庭に合いそうなものを、一つ選ぶところから始めていただければ十分です。

■ 「家庭から育まれる」に込めた思い

タイトルに「家庭」とありますが、子どもの成長の責任を、すべて保護者に求めたいわけではありません。

学校や地域、支援機関に相談すること。
周囲の大人と、子どもの様子を共有すること。
保護者自身が、少し休める時間を持つこと。

そうしたことも、子どもの育ちを支えるうえで大切だと思います。

家庭でできる関わりも、特別なことばかりではありません。

結果を尋ねる前に、今日あったことを聞いてみる。
できなかったことに加えて、取り組めた部分にも目を向ける。
すぐに答えを教える前に、子どもの考えを待ってみる。

いつも上手にできなくても、大丈夫です。

うまくいかなかった日には、大人も立ち止まり、関わり直していけばよい。そのために、この冊子を手元に置いていただけたらと思います。

■ 気になる章から、少しずつ読んでください

このブックレットは、一度で読み切る必要はありません。

登校への不安があるときは、第1章から。
幼いお子さんとの関わりを考えたいときは、第2章から。
学習につまずき、もう一度始める方法を考えたいときは、第5章から。

そのときの気持ちや、ご家庭の状況に合わせて、気になるところから開いてください。

保護者の皆さまはもちろん、祖父母の皆さま、教育や子どもの支援に携わる方にも読んでいただければうれしく思います。

■ ご購入のご案内

家庭教育ブックレット
『子どもの未来は、家庭から育まれる』
― AI時代を、自分らしく生きる力を育てる ―

著者:乙幡和重(工学博士)
発行:一般社団法人 自在能力開発研究所

販売価格:1冊550円(税込)

送料・梱包料:1~2冊は全国一律200円(国内配送)

・1冊の場合:お支払い合計750円
・2冊の場合:お支払い合計1,300円
・3冊以上の場合:送料を別途ご案内いたします。

▼ ご購入案内・お申し込みはこちら
『子どもの未来は、家庭から育まれる』購入申込ページ

リンク先のHPでお申し込み方法をご確認ください。

氏名・ご希望部数・発送先住所を記入し、メールでお申し込みいただく流れです。お申し込み後、お支払い金額・お支払い方法・発送予定をご案内いたします。

子どもの未来を、今すべて見通すことはできません。

けれど、今日の言葉を一つ変えること、子どもの話を少し長く聞くこと、一緒に喜べる小さな成長を見つけることはできます。

未来は、小さな一歩から育ちます。

この一冊が、親子の明日を考えるきっかけになれば幸いです。

一般社団法人 自在能力開発研究所
代表理事 乙幡和重

― 脳科学と療育研究から考える、知的発達を支える日々の関わり ―

「検査の結果、IQは65でした」

お子さんについて、そう伝えられたとき。
その数字が、頭から離れなくなることがあるかもしれません。

「小学校に入ってから、大丈夫だろうか」
「この先、どこまでできるようになるのだろう」
「毎日、療育を続ければ、IQは上がるのだろうか」

年中、年長という就学が近づく時期なら、なおさら気になりますよね。

今日は、その問いについて、研究論文を手掛かりに考えてみたいと思います。

最初にお伝えしたいのは、今のIQだけで、お子さんの将来の到達点を決めることはできないということです。

ただし、「療育をすれば、必ずIQが何点上がる」と約束できるわけでもありません。

希望を持つことと、研究を正確に読むこと。その両方を大切にしながら、今日からの関わりを考えていきましょう。

数字の向こうに、その子の得意なことがあります

検査結果を見ると、どうしても総合得点に目が向きます。

けれど、お子さんの姿を思い浮かべてみてください。

言葉で説明されると難しくても、実物を見せると分かる。
お話をするのは苦手でも、形を合わせる遊びは好き。
初めての場所では固まってしまうけれど、家ではいろいろなことを試している。

一つの数字だけでは、そうした違いは見えてきません。

IQは支援を考えるための大切な情報です。同時に、何が得意で、どこに助けが必要なのかを、日常の様子と合わせて見る必要があります。

知的障害の評価も、IQだけで行うものではありません。意思を伝えることや身の回りのことなど、生活の中で発揮する「適応行動」を含めて判断します。AAIDD・知的障害の定義と評価基準

検査者には、「この子は、どんな提示の仕方だと分かりやすかったですか」と聞いてみてもよいと思います。

得点には測定誤差もあります。緊張や疲れ、説明の理解などを含め、結果の幅や所見について説明を受けましょう。発達検査の「発達指数」と知能検査の「IQ」も、同じ数字として単純には比較できません。

結果を打ち消すためではなく、その子に合う学び方を見つけるために、検査を役立てたいのです。

療育で、認知能力が伸びた研究はあるのでしょうか

実際に、認知発達の指標が改善した研究があります。

Dawsonらは、自閉スペクトラム症のある生後18~30か月の幼児48人を対象に、包括的な早期介入「ESDM」を調べました。

2年間で、認知発達の標準得点は、介入群で平均17.6点、地域の通常支援を受けた比較群で平均7.0点上昇しました。Dawsonら、2010年

「そんなに変わる可能性があるのですね」と感じるかもしれません。

ただ、読み方には注意が必要です。比較群も伸びているため、17.6点すべてを、この療育固有の効果とは言えません。平均変化の差は10.6点です。

また、年中・年長でIQ60~70程度のお子さん全般を調べた研究ではなく、より低年齢の自閉スペクトラム症児が対象です。使われたのも乳幼児の認知発達を評価する尺度でした。

ですから、「うちの子も65から85になる」と予測することはできません。

それでも、支援によって認知発達の経過が変わる可能性が示されたことには意味があります。

なお、これは専門家と保護者が関わる包括的な介入です。毎日、知育プリントを繰り返すだけの方法を検証した研究ではありません。

脳の働きにも、療育との関連が見られました

脳には、経験や学習に応じて働きやつながりが変わる性質があります。これを「神経可塑性」と呼びます。

ただ、「脳には可塑性があるから、繰り返せば必ずIQが上がる」とは言えません。実際の研究で何が分かったかを、確かめることが大切です。

Dawsonらは、先ほどの研究に参加した子どもたちの療育後の脳波も調べています。

ESDM群では、人の顔を見る際の注意に関連する脳活動に、定型発達の比較群と似た反応のパターンが認められました。顔に対する活動は、社会的行動の良好さとも関連していました。Dawsonら、2012年

ただし、解析できた自閉スペクトラム症児の脳波は29人分です。同じ子の介入前後の脳波の変化を直接示した研究でもなく、「脳全体が正常になった」という意味ではありません。

私がここから考えるのは、子どもが人と関わりながら学べる機会を、丁寧につくることの大切さです。

大人の動きを見て、まねをする。
自分が伝えたことに、相手が応じてくれる。
うまくいったので、もう一度やってみる。

その子が参加しやすい関わりを考えることが、療育の大切な役割だと思います。

IQが変わらなくても、成長はあります

「では、どのくらいまで上がるのでしょうか」

保護者が知りたいのは、やはりそこですよね。

しかし、今回の研究から、一人ひとりの到達IQや上昇幅は示せません。同じIQでも、言葉の理解、注意、運動、対人関係などの状態は異なるからです。

そして、忘れたくないことがあります。

できることが増えることと、IQが上がることは、同じではありません。

IQは同じ年齢の集団との比較を含む指標です。本人が着実に学んでいても、周囲の子も成長しているため、得点が大きく変わらない場合があります。

「着替えを自分で進められた」
「困ったとき、助けを求められた」
「短い説明を聞いて動けた」

こうした成長があれば、IQが同じでも、療育に意味がなかったわけではありません。

反対に、再検査の点数が上がっても、検査への慣れや受検条件などを考えず、すべて療育の成果とすることもできません。

数字と生活の変化を、両方見ていきたいですね。

家庭では、どんなことを繰り返せばよいのでしょう

ここからは、家庭や療育で目標を具体化するための例です。一つひとつの遊びが、単独でIQを何点上げると証明された方法ではありません。

まずは、今のお子さんが分かるところから始めます。

年長だから年長用の教材、と決めなくて大丈夫です。同じ形を探すのが難しければ、選択肢を二つにする。大人が一度見本を見せてから、やってもらう。

できるようになったら、指差しや声かけを少しずつ減らしていきます。

「大人と一緒ならできた」が、「少しの助けでできた」になる。それも大切な一歩です。

次に、お子さんの好きな遊びと言葉を結び付けます。

車が好きなら、「赤い車」「走った」「止まった」と短い言葉を添える。「車」と言ったら、「車、走ったね」と少しだけ表現を広げます。

「これは何?」「何色?」と質問を続けるだけでなく、大人も楽しみながら、反応を待ってみましょう。

言葉がまだ出にくければ、指差し、身振り、写真で選ぶことも、意思を伝える方法として大切にします。

生活の中には、数や分類に触れる機会もあります。

「コップを一つ置こう」
「同じ靴下を合わせよう」
「大きい箱に入れよう」

難しければ、見本を示す、物を減らす、手順を分ける。できなかった理由を、本人の努力だけに求めず、伝え方から考え直します。

覚えたことを、別の場面でも使えるように

教室で赤い積み木を選べても、家で赤いコップを選べるとは限りません。

先生には「手伝って」と言えても、家で困ったときに伝えられないこともあります。

そこで、物や場所、相手を少しずつ変えて試します。園や療育機関と、「今はこれを練習しています」と共有できるとよいですね。

目標も、「言葉を伸ばす」より、「困ったときに、言葉か身振りで助けを求める」と具体的にすると、変化を見つけやすくなります。

ただし、言わせるために、必要な物や助けを長く与えない対応は避けます。安心して伝えられることを優先しましょう。

記録は短くてかまいません。

「今日は、指差しだけで選べた」
「見本を見たら、自分で片付けられた」

何ができたかに加え、どんな助けが必要だったかを残すと、次の関わりを考えやすくなります。

早く始めることは、急がせることではありません

「幼児期が大切」と聞くほど、焦ってしまう保護者もいらっしゃると思います。

「もっと長くやらせた方がいいのでは」
「休んだら、伸びる機会を逃すのでは」

でも、紹介した研究は、すべての子に同じ時間や負荷を求める根拠ではありません。嫌がる課題を長時間続ければ、それだけ知能が伸びるとは言えないのです。

着替えで選ぶ、食事の準備で数える、遊びで順番を交代する。家庭の生活に組み込めるところから考えてみてください。

進みにくければ、説明が長すぎないか、周囲が騒がしくないか、手の操作が難しくないかを見直します。

知能検査の問題そのものを繰り返して、点数を上げることを目標にするのも適切ではありません。育てたいのは、暮らしの中で使える力です。

聞こえや見え方、睡眠、体調なども、専門家と確認したい条件です。以前できていたことが明らかにできなくなった場合は、練習を増やすだけで済ませず、医療機関に相談してください。

保護者が、一人で療育の責任を背負う必要はありません。園、療育機関、医療と一緒に、うまくいかなければ方法を変えていけばよいのです。

幼児期を大切にすることは、「就学後はもう伸びない」ということでもありません。

今日の小さな成長を、見逃さないために

欲しい物が伝わらず泣いていた子が、指を差して知らせてくれた。

大人に任せていた片付けを、一つだけ自分でやってみた。

分からないとき、大人のところへ来てくれた。

こうした変化は、次の検査の点数にはっきり表れないかもしれません。それでも、その子が暮らしやすくなり、人とつながる力が育ったという意味があります。

私は、知的な力を育てることを大切にしたいと思っています。同時に、IQの上昇だけを成功の条件にすると、目の前の成長を見落としてしまうとも感じます。

「どこまで伸びるか」を、今、決めることはできません。

けれど、「どうすれば分かりやすいか」「次は何を一緒に試せるか」を考えることはできます。

今の数字を、その子の未来の天井にしない。今日の小さな成長を、見逃さない。

その姿勢を、日々の関わりとして積み重ねていくこと。それが、幼児期の療育を大切にするということなのだと、私は考えています。

 

Dr.Kazushige.O

一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事

聡生館&スプラウツ 代表

「この子は、もっと伸びるはず」

お子さんを見ていて、そう思ったことはありませんか。

今は成績が振るわなくても、勉強の仕方が分かれば変わるかもしれない。よい先生に出会えば、苦手な教科もできるようになるかもしれない。

そう願うのは、ごく自然なことです。

私自身、30年以上、子どもたちの学習に関わってきましたが、「まだできることがあるのではないか」という思いは、今も指導の出発点になっています。

説明の仕方を変えてみる。教材を少し易しくしてみる。前の学年に戻って、つまずいているところを探してみる。

そうした工夫によって、止まっていた学習が動き出すことがあります。

その一方で、教え方を工夫し、本人も努力しているのに、思うように成績が上がらないこともあります。

そんなとき、大人はどう考えればよいのでしょうか。

「まだ努力が足りない」と励まし続けるのでしょうか。それとも、「このあたりが限界なのだろう」と判断するのでしょうか。

今日は、すぐには答えを出しにくい、この問いについて考えてみたいと思います。

「頑張ればできる」は、いつも励ましになるのでしょうか

「頑張れば、きっとできるよ」

私たちは、子どもを励ますときによくこの言葉を使います。

初めてのことに不安を感じている子や、失敗を恐れて一歩を踏み出せない子にとっては、背中を押してくれる言葉になるでしょう。

ただ、すでに十分頑張っている子にとっては、どうでしょうか。

毎日机に向かっている。宿題もやっている。分からないところは質問し、間違えた問題も解き直している。

それでも、点数が変わらない。

そんなときに「もっと頑張ればできる」と言われ続けると、子どもはこう感じるかもしれません。

「これだけやっても、まだ頑張っていないと思われるんだ」

「できないのは、全部自分が悪いんだ」

励ましたい気持ちでかけた言葉が、本人には責められているように聞こえることもあるのです。

だからこそ、結果が出ないときには、まず「今、どのように取り組んでいるのか」を確かめたいと思います。

勉強時間だけでなく、何が分かり、どこで困っているのか。課題は難しすぎないか。疲れがたまっていないか。

努力を求める前に、大人の側で見直せることはないか。

その問いを持つことが、子どもを支える第一歩になるのではないでしょうか。

同じ時間をかけても、同じようには伸びません

例えば、数学の偏差値が55前後の生徒について、「60以上を目指したい」と考えたとします。

もちろん、目指すこと自体はよいことです。学習方法を変えたり、基礎の抜けを補ったりすることで、届く可能性もあります。

しかし、数学だけを勉強していればよいわけではありません。

英語も国語も、理科も社会もあります。学校の課題もあれば、睡眠や休息も必要です。

数学をさらに伸ばすために多くの時間を使った結果、ほかの教科が下がってしまうことも考えられます。

また、数学の中でも、計算はできるけれど文章題が難しい子、解説を聞けば分かるけれど初めて見る問題には対応しにくい子など、つまずき方はさまざまです。

その違いを埋めるには、時間がかかる場合があります。

ここで大切なのは、「現在の時間や条件の中では、これ以上伸ばすことが難しい」という現実があることです。

それは、「その子には将来にわたって能力がない」という意味ではありません。

受験までの期間、ほかの教科とのバランス、本人の負担。その条件を踏まえると、目標を調整した方がよい場合もあるということです。

親としては、少し受け入れにくい話かもしれません。

けれども、使える時間が限られているからこそ、どこに力を注ぐかを考える必要があります。

「今は難しい」と「ずっとできない」は違います

私は、教育の中で「限界」という言葉を使うときには、慎重でありたいと思っています。

「この子は、ここまでです」

そう言い切れるほど、私たちはその子の未来を知っているわけではないからです。

今は理解できないことでも、基礎がつながったり、別の説明に出会ったりして、分かるようになることがあります。

興味のあることを通して、学ぶ意味が見つかる場合もあります。

ですから、成績がしばらく変わらないからといって、それだけで生涯の能力の上限が分かったとは言えません。

一方で、「いつかできるかもしれない」と考えるだけでは、目の前の学習計画は立てられません。

受験まであと数か月という時期であれば、今できること、時間をかければできそうなこと、今回は優先順位を下げることを考える必要があります。

未来を決めつけないことと、現在の判断をすること。

この二つは、両立できます。

「今の方法では難しいから、やり方を変えてみよう」

「ここは基本を確実にして、得意な分野にも時間を使おう」

そのように考えれば、限界を見つめることは、次の学び方を探すきっかけになります。

期待が、子どもの重荷になっていないでしょうか

保護者の方から見れば、お子さんにはできるだけ多くの選択肢を持ってほしいと思うでしょう。

将来困らないように。本人が望む道へ進めるように。

その願いは、子どもを大切に思う気持ちから生まれるものです。

ただ、その気持ちが強くなると、いつの間にか「今の子どもの姿」よりも、「こうなってほしい姿」ばかりを見てしまうことがあります。

80点を取ったら、次は90点。
90点を取ったら、なぜ100点ではなかったのか。

目標を持つことは大切ですが、到達するたびに求められるものが上がっていくと、子どもは達成感を持ちにくくなります。

「どこまで頑張れば、認めてもらえるのだろう」

そんな気持ちになるかもしれません。

お子さんがテストを持ち帰ったとき、まず、どのような言葉をかけているでしょうか。

「ここ、どうして間違えたの?」

その前に、

「前はできなかった問題が、できるようになったね」

と伝えられるところはないでしょうか。

改善点を一緒に考えることは必要です。同時に、今まで積み重ねてきたものも、きちんと言葉にして認めたいと思います。

今の自分を認めてもらえることは、次の挑戦へ向かう支えにもなるはずです。

苦手を伸ばし続けることだけが、教育でしょうか

苦手な教科があると、大人はどうしても、そこを何とかしたくなります。

通知表に一つ低い評価があれば、その教科が気になる。得意な教科でよい結果が出ていても、「こちらも何とかしなければ」と考える。

そのお気持ちはよく分かります。

基礎的な読み書きや計算など、生活や次の学習を支える力は、丁寧に育てていく必要があります。

ただ、苦手なことをすべて得意な水準まで引き上げることを目指すと、学習時間の多くが苦手教科で埋まってしまいます。

子どもからすれば、毎日が「うまくできないことに向き合う時間」になってしまうかもしれません。

そこで、少し視点を変えてみたいのです。

苦手な教科は、まず基本を確実にする。そのうえで、得意な教科や興味のある分野にも、十分な時間を確保する。

理科が好きなら、じっくり調べる時間をつくる。
文章を書くことが好きなら、自分の考えをまとめてみる。
ものづくりに夢中になるなら、試行錯誤できる機会を用意する。

得意なことに取り組む時間にも、学びはあります。

「自分にもできることがある」

その実感を育てることも、教育の大切な役割ではないでしょうか。

一つの教科の評価を、その子全体の評価にしない

数学が苦手だからといって、考える力がすべて弱いわけではありません。

国語のテストが振るわないからといって、人の気持ちが分からないわけでもありません。

テストは、学習の到達度を確かめるための大切な道具です。しかし、そこで分かることには範囲があります。

人の変化に気づく細やかさ。
道具を工夫して使う力。
好きなことを粘り強く調べる姿勢。
人との約束を守る誠実さ。

そうしたものは、教科の点数だけでは分かりません。

もちろん、「成績が低くても、必ず何か特別な才能がある」と決めつける必要もないと思います。

目立った才能を見つけなければ、その子を認められないわけではないからです。

特別に優れていることがなくても、時間をかけながら少しずつ学んでいても、その子の価値は変わりません。

数学の伸びにくさを、その子自身の価値や、人生の可能性にまで結びつけない。

大人が、この区別を忘れないことが大切です。

努力が結果につながらなかったときに

一生懸命取り組んでも、希望する結果に届かないことがあります。

そのとき、「頑張ったから、それでいい」とすぐにまとめてしまうと、本人の悔しさが置き去りになる場合があります。

目標に届きたかったのです。
結果を出したくて、努力してきたのです。

まずは、その気持ちを受け止めたいと思います。

「悔しかったね」

「ここまで続けてきたことは、ちゃんと見ていたよ」

そのうえで、少し落ち着いてから、何が身についたのかを一緒に確かめる。

以前より自分で勉強を始められるようになった。
分からないことを質問できるようになった。
間違いをそのままにしなくなった。

そうした変化があるなら、具体的に伝えたいと思います。

ただし、「努力には意味があるから」と、同じ方法を続けさせるだけでは不十分です。

結果につながらなかった理由を考え、次の取り組みを変えるところまで、大人が関わる必要があります。

努力を認めることと、方法を見直すこと。

どちらも、欠かすことはできません。

目標を見直すときこそ、本人の気持ちを聞く

目標を変えることは、大人が思う以上に、子どもにとって大きな出来事かもしれません。

志望校を変える。
苦手教科の目標点を調整する。
得意な分野を生かせる進路を考える。

こうした判断を、大人だけで決めてしまうと、「自分は見放された」と受け取ることもあるでしょう。

だからこそ、本人が何を望んでいるのかを聞く必要があります。

まだ挑戦したいのか。
今の学習が苦しすぎるのか。
別の道にも興味があるのか。

もし本人が挑戦を続けたいのであれば、期間を決めて方法を変え、その結果を一緒に確かめることもできます。

目標を調整する場合も、「できないから下げる」という話だけで終わらせず、これから何を大切にして進むのかを共有したいと思います。

子どもは、大人が立てた計画を実行するだけの存在ではありません。

自分の力や希望を知り、自分の道を選ぶ経験も、学びの一つです。

可能性を信じるとは、考え続けること

教育は、子どもをどこまで伸ばせるのでしょうか。

その答えを、あらかじめ数字で示すことはできません。

指導を工夫することで大きく変わる場合もあれば、時間をかけても、目標に届かない場合もあります。

だからといって、教育に意味がないわけではありません。

できなかったことが一つできるようになる。
自分に合う学び方が見つかる。
困ったときに助けを求められる。
うまくいかなかった後に、次の方法を考えられる。

その積み重ねを支えることが、教育にできることだと思います。

子どもの可能性を信じることと、限界を認めることは、両立します。

今の条件で難しいことを認めながら、条件や方法を変えればどうなるかを考える。目標を見直しながら、その子が学ぶことまで諦めない。

その姿勢を持ち続けたいのです。

もし今、お子さんの成績を見て「もっと伸びるはずなのに」と感じているなら、一度、点数から少し目を離してみてください。

何に困っているのか。
何なら自分から取り組めるのか。
どんなときに、表情が明るくなるのか。

そこに、次の関わり方を考える手がかりがあるかもしれません。

「もっとできるはず」と期待する気持ちとともに、

「今のあなたを、きちんと見ているよ」

という思いも、届けていきたいと思います。

伸び悩むときにも、結果が出なかったときにも、一緒に考えてくれる大人がいる。

その関係の中で、子どもがもう一度、自分の歩幅で学び始められるように。

私は、そうした教育を続けていきたいと考えています。

 

Dr.Kazushige.O

一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事

聡生館&スプラウツ 代表

私たちは普段、「私」という存在について、それほど深く考えることなく生きています。

鏡に映っている自分。

昨日から続いている自分。

名前を持ち、記憶を持ち、誰かを愛し、誰かに愛され、さまざまな経験を積み重ねてきた自分。

それを当然のように「私」だと思っています。

しかし、少し立ち止まって考えてみると、

「私とは、いったい何なのだろう」

という問いは、実はとても不思議な問いです。

私はこの身体なのでしょうか。

それとも脳なのでしょうか。

記憶でしょうか。

意識でしょうか。

あるいは、身体を構成する無数の物質が、一時的につくり上げている「生命という秩序」なのでしょうか。

今日は少し壮大なテーマになります。

量子力学の「量子もつれ」から始まり、生命、意識、人と人との関係、そして最後には「死」についてまで考えてみたいと思います。

ただし、最初に大切なことを書いておきます。

私は、「人間の心は量子もつれでつながっている」と主張したいわけではありません。

まして、量子力学によって魂や死後の世界が証明された、と言いたいわけでもありません。

科学で分かっていることと、まだ分かっていないこと。

そして、その先にある哲学的な問い。

その境界線を大切にしながら考えてみたいのです。

量子の世界は、私たちの常識とは少し違っている

量子力学には「量子もつれ」と呼ばれる非常に興味深い現象があります。

二つの量子的な系が、個々に完全に独立した状態としてではなく、全体として一つの状態を持つような関係です。

これは私たちの日常感覚からすると、非常に奇妙に感じられます。

机の上の二つのリンゴなら、それぞれ別々のリンゴとして考えることができます。

ところが量子の世界では、物事を単純に「これはこれ」「あれはあれ」と切り離して説明できない場合があります。

ここに私は、とても興味を惹かれます。

もちろん、だからといって、

「人間同士も量子もつれで心がつながっている」

と結論づけることはできません。

そこには科学的な飛躍があります。

けれども量子力学は、私たちに一つの大切なことを教えてくれます。

それは、

「人間の日常的な常識が、自然界のすべてを説明できるとは限らない」

ということです。

そして、この視点から改めて人間を見たとき、私は一つの疑問を持ちます。

そもそも「私」は、本当に私一人だけで完結している存在なのでしょうか。

私の中には、無数の「他者」がいる

考えてみれば、現在の私は、自分一人でつくられたわけではありません。

私は母から生まれました。

父がいました。

多くの人に育てられました。

誰かに言葉を教えられ、

誰かに褒められ、

誰かに叱られ、

誰かに傷つけられ、

そして誰かに救われながら生きてきました。

恩師から教えられた一言が、自分の考え方の一部になっていることもあります。

愛した人との経験が、その後の人生観を変えることもあります。

何十年も前に誰かから言われた言葉を、今でも覚えていることさえあります。

そう考えると、

「私」

という存在は、実は私だけでできているわけではありません。

私の中には、これまで出会ってきた無数の人々がいるのです。

そして逆に、私がこれまで関わった人の中にも、おそらく私の何かが残っています。

「想念」はどこへ行くのだろう

私は以前から、「想念」というものに興味があります。

誰かを強く思う。

会いたいと思う。

心配する。

愛する。

亡くなった人を思い出す。

すると、ときどき不思議なことがあります。

ある人のことを考えていたら、その人から突然連絡が来た。

そんな経験をしたことがある人もいるでしょう。

けれども、それを直ちにテレパシーや量子力学で説明してはいけないと思います。

偶然かもしれません。

人間の記憶の性質によるものかもしれません。

心理学的に説明できる現象なのかもしれません。

科学者として物事を見るならば、証拠のないものを「証明された事実」のように語るべきではありません。

しかし同時に、

「まだ証明されていない」

という理由だけで、考えることまでやめる必要もないと私は思っています。

なぜなら人の「思い」は、少なくとも言葉や行動を通して他者へ伝わっていくからです。

教師の一言が、生徒の人生を変える。

親の何気ない言葉が、子どもの心に何十年も残る。

誰かから受けた優しさが、その人をさらに別の人へ優しくさせる。

愛した人が亡くなった後も、その人の言葉が自分の人生を支え続ける。

これは量子テレポーテーションではありません。

しかし、

「人間の中にあったものが、別の人間へ伝わり、その人の中で生き続ける」

ということは、確かにあります。

私は教育という仕事を長く続けてきました。

これまで多くの子どもたちと出会い、さまざまな言葉を伝えてきました。

私自身は忘れてしまっていても、もしかすると、ある生徒は私が何十年も前に話した一言を覚えているかもしれません。

もし、その一言がその人の生き方に少しでも影響しているなら、私が発した「思い」の一部は、その人の中で今も生きていることになります。

人は、そのようにして互いの中に何かを残しながら生きているのではないでしょうか。

生命とは「物質」なのか

ここで、もう一度「私」に戻ります。

人間の身体は物質でできています。

炭素、酸素、水素、窒素。

さまざまな元素が組み合わされ、細胞をつくり、組織をつくり、身体をつくっています。

しかし、それらの物質をただ集めただけでは「私」にはなりません。

大切なのは、それらがどのような関係を持ち、どのように生命活動を維持しているかということです。

心臓が動く。

肺が呼吸する。

血液が流れる。

細胞が代謝する。

神経細胞が電気的・化学的な信号をやり取りする。

私たちは外から食物や酸素を取り入れ、エネルギーを使い、熱や老廃物を外へ出しながら生きています。

生命とは、外界と物質やエネルギーを交換しながら、高度な秩序を維持している存在です。

そして不思議なのは、身体をどれだけ細かく調べても、

「ここに『私』があります」

という小さな物体が見つかるわけではないことです。

脳にも「私」という粒はありません。

心臓にもありません。

DNAそのものが「私」なのでもありません。

それでも私は、

考え、

喜び、

悲しみ、

人を愛し、

そして、

「私はここにいる」

と感じています。

だとしたら「私」とは、一つの物体というよりも、

物質とエネルギーと情報がつくり上げ、維持している一つの巨大な「秩序」

と考えることもできるのではないでしょうか。

私は「物」ではなく、「過程」なのかもしれない

川を考えてみると分かりやすいと思います。

多摩川を昨日流れていた水と、今日流れている水は違います。

水は絶えず入れ替わっています。

それでも私たちは、それを今日も「多摩川」と呼びます。

川とは、一つの固定された水の塊ではありません。

絶えず水が流れながら、それでも一つの形を保っている存在です。

人間も、どこか似ているのではないでしょうか。

身体では代謝が起こり続けています。

私たちは食べ、呼吸し、身体を構成する物質も変化していきます。

考え方も変化します。

経験も増えます。

それでも、

昨日の私。

十年前の私。

今日の私。

それらを私たちは一つにつなげて、

「私の人生」

と呼びます。

そう考えると、「私」は名詞というよりも、むしろ動詞に近い存在なのかもしれません。

私は完成した一つの「物」なのではなく、

今この瞬間も変わり続けている「過程」

なのです。

では「死」とは何なのだろう

この考えを進めていくと、どうしても「死」という問題にたどり着きます。

人間はいつか死にます。

生命活動は終わり、私たちが「私」と呼んできた生命の秩序も維持できなくなります。

しかし、身体を構成していた原子が、その瞬間にすべて消滅するわけではありません。

物質は形を変え、やがて自然界の循環へ戻っていきます。

以前の私は、

「死とは、生命を構成していた素粒子が解放されることではないか」

と考えたことがありました。

しかし、今はもう少し正確に、

「死とは、『私』という生命の秩序を維持していた関係が解かれていくこと」

と考えています。

一滴の水が海へ戻るように。

一本の木がやがて土へ還るように。

私を形づくっていた物質も、再び世界の循環へ戻っていく。

これは、死後も人間の意識が量子的に存在し続ける、という話ではありません。

現在の科学は、そのようなことを証明していません。

けれども少なくとも、物質的に考えれば、

「死=すべてが突然無になる」

というわけでもないのです。

そして人は、他者の中にも残っていく

さらに私は思います。

人間が残すものは、物質だけではありません。

母親からもらった優しさ。

父親から教えられた生き方。

恩師の言葉。

友人との思い出。

愛した人の笑顔。

一緒に歩いた道。

何気なく交わした会話。

それらは、その人がいなくなった後も、残された人の中に生き続けます。

「魂」と呼ばなくてもいい。

「量子もつれ」と説明しなくてもいい。

もっと単純な事実として、

人は、他者の中に自分の一部を残しながら生きている。

私はそう思うのです。

メメント・モリ――死を思うことは、今を生きること

そして、ここで私が最後にたどり着くのが、

「メメント・モリ(Memento mori)」

という言葉です。

「自分がいつか死ぬことを忘れるな」

という意味で知られる言葉です。

一見すると暗い言葉に見えます。

しかし私は、むしろこれは非常に前向きな言葉だと思っています。

なぜなら、

終わりがあることを知るからこそ、今が大切になる

からです。

もし私たちが永遠に生きるなら、

今日言えなかった「ありがとう」は、百年後でもいい。

今日伝えられなかった「愛している」は、千年後でもいい。

今日始められなかったことも、いつか始めればいい。

しかし、私たちには限られた時間しかありません。

しかも、その終わりがいつなのかを誰も知りません。

だからこそ、

会えるときに会う。

伝えられるときに伝える。

愛せるときに愛する。

学べるときに学ぶ。

誰かを助けられるときに手を差し伸べる。

それが大切なのだと思います。

「私」という奇跡的な秩序が存在している今

宇宙には、とてつもなく長い時間があります。

その中で私たち一人ひとりが生きている時間は、ほんの一瞬です。

けれども、その一瞬の中で、

私たちは出会い、

愛し、

学び、

傷つき、

迷い、

立ち上がり、

そして誰かに何かを残していきます。

私は物質です。

しかし、物質だけではありません。

私は生命という秩序です。

そして同時に、

記憶であり、

経験であり、

誰かから受け取った愛情であり、

誰かへ渡していく思いでもあります。

量子の世界には、不思議な「関係」があります。

生命には、無数の物質を一つの生命として維持する「秩序」があります。

そして人間には、人と人を結びつける「思い」があります。

この三つを科学的に同じものとして扱うことはできません。

しかし、そのすべてを眺めていると、私は一つのことを考えます。

この世界は、私たちが考えているほど単純に、

「私」と「あなた」

「ここ」と「そこ」

「生」と「死」

に切り分けられるものではないのかもしれない、と。

私たちは誰かから何かを受け取って「私」になり、

今度は自分の何かを誰かへ渡しながら生きています。

だから本当に大切なのは、

死んだ後に「私」がどこへ行くのかを考えることだけではありません。

むしろ、

「私」という生命がここに存在している、この限られた時間をどう生きるのか。

ということなのではないでしょうか。

誰を愛するのか。

誰に何を伝えるのか。

何を学ぶのか。

何を教えるのか。

そして、誰の心に何を残すのか。

桜が美しいのは、散るからなのかもしれません。

夕日が美しいのは、沈んでいくからなのかもしれません。

人生がこれほどかけがえのないものなのも、いつか終わりが来るからなのかもしれません。

今日会える人に、明日も必ず会えるとは限らない。

今日伝えられる言葉を、明日も伝えられるとは限らない。

だからこそ、人を愛する。

だからこそ、学ぶ。

だからこそ、誰かに何かを伝える。

そして、

だからこそ、今日を生きる。

メメント・モリ。

いつか終わることを忘れない。

それは死を恐れるための言葉ではありません。

今、この瞬間を大切に生きるための言葉なのだと、私は思います。

 

Sunday Special Blog

by Dr.Kazushige.O

一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事

聡生館&スプラウツ 代表