人は、人の心をどこまでわかることができるのでしょうか。

これは、とても身近な問いでありながら、考え始めると実に深いテーマです。

私たちは日常の中で、よく「あなたの気持ちはわかる」「あの人の考えていることはわかる」「親だから子どものことはわかる」「夫婦だから相手のことはわかる」と言います。

もちろん、その言葉には優しさが込められていることもあります。
相手を突き放すのではなく、少しでも寄り添いたい。
そういう気持ちから出てくる「わかる」もあるでしょう。

しかし、私はこの「わかる」という言葉には、少し危うさもあると思っています。

なぜなら、人は「わかった」と思った瞬間に、相手をもう見なくなってしまうことがあるからです。

相手の言葉を聞かなくなる。
相手の沈黙を考えなくなる。
相手の変化に気づかなくなる。
そして、自分の中にある「この人はこういう人だ」という思い込みだけで、相手を見てしまう。

実は、人間関係のすれ違いの多くは、この「わかったつもり」から始まるのではないでしょうか。

人は、人の心を完全にはわかりません。

これは寂しいことのようにも聞こえます。
しかし、私はそうは思いません。

完全にはわからないからこそ、私たちは相手を理解しようとします。
完全には届かないからこそ、言葉を尽くします。
完全には一つになれないからこそ、想像し、待ち、対話を続けようとします。

そこにこそ、愛や教育の本質があるのではないかと思うのです。

「わかる」とは、心を直接見ることではない

私たちは、相手の表情や声の調子、言葉の選び方、態度、沈黙などから、その人の気持ちを想像します。

怒っているのかな。
悲しいのかな。
疲れているのかな。
何かを我慢しているのかな。
本当は助けてほしいのかな。

そうやって相手の心を推測します。

しかし、そこで見えているのは、相手の心そのものではありません。
あくまで、相手の心が外に表れた一部分です。

たとえば、同じ「黙っている」という態度でも、その意味は人によって違います。

怒って黙っている人もいます。
悲しくて黙っている人もいます。
考えていて黙っている人もいます。
言葉にできなくて黙っている人もいます。
相手を傷つけないために黙っている人もいます。

外から見える行動は同じでも、その奥にある心の意味は一つではありません。

だから、人を理解するということは、とても繊細なことなのです。

本当に相手を理解しようとする人は、簡単に「わかった」とは言わないのかもしれません。

むしろ、
「本当は別の気持ちがあるのかもしれない」
「自分が思っているより、もっとつらいのかもしれない」
「この沈黙には、まだ言葉にならない理由があるのかもしれない」
と考え続ける。

その姿勢こそが、他者理解の出発点なのだと思います。

夫婦だからこそ、わかったつもりになる

夫婦という関係は、とても不思議です。

もともとは他人だった二人が、長い時間を一緒に過ごします。
生活を共にし、喜びも苦労も経験し、相手の癖や考え方も少しずつわかってきます。

何を言えば喜ぶのか。
何を言えば怒るのか。
どんな時に疲れているのか。
どんなことで安心するのか。

長く一緒にいれば、たしかに相手についてわかることは増えていきます。

しかし、そこに落とし穴があります。

それは、「長く一緒にいるから、相手のことはわかっている」という思い込みです。

人は変わります。
年齢とともに変わります。
経験によって変わります。
体調や仕事や家庭の状況によっても変わります。
本人でさえ気づかないうちに、心の風景が変わっていることもあります。

それなのに、夫婦は時として、昔の相手のイメージで相手を見続けてしまいます。

「あなたは昔からそういう人だ」
「どうせこう思っているんでしょう」
「何年一緒にいると思っているの」

こうした言葉は、相手を理解しているようでいて、実は今の相手を見ていないことがあります。

夫婦とは、相手を知り尽くす関係ではありません。
相手を知り続けようとする関係なのだと思います。

今、この人は何を感じているのか。
今、この人は何に疲れているのか。
今、この人は何を求めているのか。

その問いを持ち続けることが、夫婦という関係を成熟させていくのではないでしょうか。

親子だからこそ、見えなくなるものがある

親子関係にも、同じことが言えます。

親は子どもを深く愛しています。
生まれた時から見てきた。
小さい頃からの成長を知っている。
好きなものも、苦手なものも、性格も、ある程度わかっている。

だからこそ、親は「この子のことは自分が一番わかっている」と思いやすい。

もちろん、親だからこそ気づけることはたくさんあります。
子どもの表情の小さな変化、声の違い、元気のなさ。
そういうものを感じ取る力は、やはり親子の時間の積み重ねから生まれます。

しかし、親子関係にはもう一つの難しさがあります。

それは、親が子どもを「自分の延長」として見てしまうことです。

親は子どもの幸せを願います。
失敗してほしくない。
苦労してほしくない。
将来困らないように、今のうちに頑張ってほしい。

その気持ちは、とても自然なものです。

けれども、その愛情が強いほど、親は子どもの心を、自分の不安や期待で覆ってしまうことがあります。

「この子のため」と思っていることが、実は親自身の安心のためになっている。
「将来のため」と言いながら、子どもには大きなプレッシャーになっている。
「あなたならできる」と励ましているつもりが、子どもには「できなければ認められない」と聞こえている。

そういうこともあります。

子どもは、親の前で本音をすべて話すとは限りません。

心配させたくなくて黙る。
怒られるのが嫌で黙る。
どうせわかってもらえないと思って黙る。
自分でも気持ちが整理できなくて黙る。

特に思春期の子どもは、自分の心を言葉にする力がまだ十分ではありません。

だから、態度に出ます。
反抗になる。
無気力になる。
スマホに逃げる。
勉強から離れる。
学校に行きたがらなくなる。

その時、大人が「怠けている」「甘えている」「反抗している」とだけ見てしまえば、子どもの心の奥には届きません。

なぜ動けないのか。
なぜ勉強に向かえないのか。
なぜ言葉が荒くなるのか。
なぜ学校が苦しいのか。

行動の奥にある理由を考えることが必要です。

親子の愛とは、子どもの心を完全にわかることではありません。
子どもを親の思い通りに動かすことでもありません。

子どもが自分とは別の人生を生きる一人の人間であることを認め、その心を時間をかけて理解しようとすること。
そこに、親子の愛の本質があるのだと思います。

教師と生徒の間にも、見えない心がある

教師と生徒の関係にも、同じ問題があります。

教師は、生徒の成績を見ます。
答案を見ます。
授業態度を見ます。
宿題の提出状況を見ます。
集中力や理解度を見ます。

そして、そこから生徒の状態を判断します。

この子は理解している。
この子は基礎が弱い。
この子は集中力が続かない。
この子はやる気がない。
この子は努力不足だ。

しかし、教師が見ているのは、生徒の一部分です。

成績は、その子のすべてではありません。
態度も、その子のすべてではありません。
宿題をやってこないことも、単純に怠けているとは限りません。
授業中に集中できないことも、単純にやる気がないとは限りません。

勉強が苦手な子ほど、自分の心を守るための行動を取ります。

わからないと言えない。
質問できない。
間違えるのが怖い。
できない自分を見られたくない。
だから、ふざける。
だから、黙る。
だから、投げ出す。
だから、「別にどうでもいい」と言う。

表面的には、やる気がないように見えるかもしれません。
しかし、その奥には、傷ついた自尊心があるのかもしれません。

「どうせ自分には無理だ」
「またできなかったら嫌だ」
「頑張っても結果が出なかった」
「もう自分の力を試すのが怖い」

そうした心の声は、答案用紙には書かれていません。
成績表にも出てきません。

しかし、教育において本当に大切なのは、むしろそこなのだと思います。

教師の仕事は、問題の解き方を教えることだけではありません。

子どもの中にある、
「もう一度やってみよう」
という力を呼び戻すこと。

それもまた、教育の大切な役割です。

理解することは、甘やかすことではない

ここで大切なのは、「理解すること」と「何でも認めること」は違うということです。

相手の気持ちを理解しようとすることは、相手の言うことをすべて受け入れることではありません。

子どもの気持ちに寄り添うことは、勉強しなくてもいいと言うことではありません。
生徒の苦しさを理解することは、努力しなくてもいいと認めることではありません。

本当の理解は、甘やかしではありません。

むしろ、本当に理解しようとするからこそ、必要なことを伝えることができます。

この子は今、何につまずいているのか。
何を怖がっているのか。
どの言葉なら届くのか。
どの順番なら前に進めるのか。

それを考えたうえで、必要な努力を求める。
必要な課題を与える。
必要な現実を伝える。

これが教育です。

理解のない厳しさは、ただの圧力になります。
厳しさのない理解は、ただの迎合になります。

教育に必要なのは、理解と厳しさの両方です。
ただし、その順番が大切です。

まず理解しようとする。
そのうえで、必要なことを伝える。

この順番を間違えると、子どもは心を閉じてしまいます。

人は、自分のことを理解しようとしてくれない相手からの言葉を、なかなか受け取ることができません。

どれほど正しいことを言われても、
「この人は自分のことをわかっていない」
と感じれば、その言葉は心に入りません。

逆に、自分の苦しさや不安を少しでも理解しようとしてくれる人の言葉であれば、厳しい言葉であっても受け取れることがあります。

教育において大切なのは、正しいことを言うことだけではありません。
その正しさが、子どもの心に届く形になっているかどうかなのです。

愛とは、相手を所有しないこと

愛という言葉は、とても美しい言葉です。

しかし、愛は時に、相手を縛るものにもなります。

愛しているから、わかっている。
愛しているから、こうしてほしい。
愛しているから、あなたのために決めている。

もちろん、そこには本当の愛情があることもあります。

しかし、愛情が強いほど、人は相手を自分の安心の形に合わせようとしてしまうことがあります。

夫婦でも、親子でも、教育でも同じです。

相手のためと言いながら、実は自分の不安を相手に背負わせている。
相手を心配していると言いながら、実は相手の自由を認めていない。
相手を理解していると言いながら、実は相手を自分の思い通りにしようとしている。

本当の愛とは、相手を所有しないことだと思います。

夫婦であっても、相手の心は相手のものです。
親子であっても、子どもの心は子どものものです。
教師と生徒であっても、生徒の心は生徒のものです。

その心に近づくことはできます。
寄り添うことはできます。
支えることはできます。
導くこともできます。

しかし、支配することはできません。
完全に把握することもできません。

この謙虚さを持てるかどうかが、人間関係の成熟を決めるのではないでしょうか。

それでも理解しようとすること

人は、人の心を完全にはわかりません。

しかし、それは絶望ではありません。

完全にはわからないからこそ、わかろうとする。
完全には届かないからこそ、言葉を尽くす。
完全には一つになれないからこそ、橋を架ける。
完全には理解できないからこそ、対話を続ける。

この「それでも」という姿勢こそが、人間の尊さなのだと思います。

夫婦とは、相手を知り尽くした関係ではなく、相手を知り続けようとする関係です。

親子とは、子どもを自分の延長として扱う関係ではなく、子どもが一人の人間として立ち上がることを支える関係です。

教師と生徒とは、教師が生徒を一方的に評価する関係ではなく、生徒の心の奥にある可能性に届こうとする関係です。

愛とは、相手の心を完全に知っていることではありません。
教育とは、子どもの心を完全に把握していることではありません。

相手の心には、自分には見えない部分がある。
自分には届かない深さがある。
自分とは違う痛みや願いや沈黙がある。

そのことを認めたうえで、それでも近づこうとすること。

そこにこそ、愛と教育の本質があるのだと思います。

聡生館で子どもたちと向き合う時にも、私はこのことをいつも考えます。

この子は、なぜ今、勉強に向かえないのか。
この子は、どこで自信を失ったのか。
この子は、何を怖がっているのか。
この子は、本当は何を願っているのか。
この子の中にある力を、どうすればもう一度引き出せるのか。

その答えは、すぐにはわかりません。
一回の授業でわかるものでもありません。
テストの点数だけでわかるものでもありません。

だからこそ、見続ける。
聞き続ける。
考え続ける。
関わり続ける。

教育とは、その積み重ねです。

人は、人の心を完全にはわからない。
それでも、理解しようとする。

その「それでも」の中に、夫婦の愛があり、親子の愛があり、教師と生徒の信頼があり、教育の本質があるのだと思います。

人の心は、簡単には見えません。
けれども、見えないからこそ、大切にしなければならない。
わからないからこそ、決めつけてはいけない。
届かないからこそ、何度でも言葉を尽くさなければならない。

人と人との間には、いつも少し距離があります。

けれども、その距離があるからこそ、相手を思うことができる。
その距離があるからこそ、想像することができる。
その距離があるからこそ、心と心の間に橋を架けようとすることができる。

その橋を架け続ける営みこそが、人間が人間であることの証なのではないでしょうか。

そして、教育とはまさに、子どもの心に向かって、その橋を架け続ける仕事なのだと思います。

 

Sunday  Special Blog

by Dr.Kazushige.O

一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事

聡生館&スプラウツ 代表

今日は、勉強へのモチベーションについて考えてみたいと思います。

子どもたちを見ていると、同じように授業を受け、同じように宿題を出され、同じようにテストを受けていても、学習に向かう姿勢は一人ひとりまったく違います。

こちらが細かく言わなくても、自分から机に向かう子がいます。
分からないところがあれば質問し、間違えた問題を解き直し、次はできるようになりたいと考える子がいます。

一方で、勉強しなければならないことは分かっているのに、なかなか気持ちが向かない子もいます。
机の前には座っている。
教材も開いている。
けれども、問題に向かう気持ちが出てこない。
少し難しいと感じると、すぐに手が止まってしまう。
宿題も、テスト勉強も、やらなければならないことは分かっている。
それでも、なぜか身体が動かない。

この違いは、いったいどこから生まれるのでしょうか。

よく言われるのは、「やる気の問題」です。

「本人にやる気がない」
「もっと本気になればできる」
「目標を持てば変わる」
「危機感が足りない」
「やればできるのに、やらないだけだ」

このような言葉は、家庭でも、学校でも、塾でもよく聞かれます。

もちろん、学力を伸ばすためには、本人の意欲が必要です。
受験に向かうためには、一定の努力も必要です。
何かを達成するためには、継続する力も必要です。

けれども、私は長く子どもたちを見てきて、いつも思うことがあります。

それは、強い意志というものは、最初からその子の中に完成された形で存在しているわけではない、ということです。

意志は、持っている子と持っていない子に、単純に分けられるものではありません。
意志は育つものです。
環境によって弱くもなります。
経験によって強くもなります。
そして、意志の根っこには、その子自身の感情、記憶、自己肯定感、未来への想像、周囲との関係が深く関わっています。

だからこそ、今日は単なる「勉強のやる気の出し方」ではなく、もう少し深いところから考えてみたいと思います。

強い意志は、どこから生まれるのか。
勉強へのモチベーションは、何によって支えられているのか。
目的を達成しようとする力は、人間のどこから湧き上がってくるのか。
そして、まだその原点を持てない子に対して、私たち大人は何ができるのか。

このことを、教育の現場から考えてみます。


勉強へのモチベーションは、正論だけでは生まれにくい

子どもに勉強をしてほしいとき、大人はつい正論を言いたくなります。

「今、勉強しておかないと後で困るよ」
「将来のために必要なんだよ」
「受験で苦労するよ」
「自分のためなんだから、ちゃんとやりなさい」

どれも間違った言葉ではありません。
むしろ、大人になった私たちには、その意味がよく分かります。

勉強は、将来の選択肢を広げます。
基礎学力は、社会に出てからの理解力や判断力にも関わります。
受験においても、日々の積み重ねが大切です。
今やらなければ、後で苦労することもあります。

しかし、子どもの心は、正論だけではなかなか動きません。

なぜなら、正論は頭では理解できても、心の奥に火をつけるとは限らないからです。

これは大人でも同じです。

健康のために運動した方がいい。
食生活を整えた方がいい。
早く寝た方がいい。
仕事を先延ばしにしない方がいい。

分かっていても、できないことはたくさんあります。

つまり、人は正しいことを知っただけでは動けません。
心が動いたときに、初めて行動が生まれます。

子どもが勉強に向かわないとき、それは単に「将来のために必要だ」と理解していないからではありません。
むしろ、その正論が、その子自身の内側の感情とまだ結びついていないことが多いのです。

「勉強しなければならない」
でも、やりたくない。
「やった方がいい」
でも、身体が動かない。

この状態にある子に、さらに正論を重ねても、あまり効果はありません。
むしろ、正論が重なれば重なるほど、子どもは自分を責めるようになります。

「分かっているのにできない」
「また怒られる」
「どうせ自分はダメだ」
「勉強の話になると苦しくなる」

こうなると、勉強は単なる学習ではなく、自己否定と結びついてしまいます。

ここに、教育の難しさがあります。

勉強へのモチベーションは、外から正論を注ぎ込むだけでは生まれません。
その子の内側にある感情と結びついたとき、初めて動き出します。


モチベーションの最初の火種は、きれいな目標とは限らない

勉強へのモチベーションというと、私たちは立派な目標を想像しがちです。

「将来、医者になりたい」
「難関高校に合格したい」
「大学で専門的な研究をしたい」
「社会に役立つ仕事がしたい」
「自分の夢を叶えたい」

もちろん、このような目標を持てる子は強いです。
目的が明確であれば、努力の意味も見えやすくなります。

しかし、最初からそんなに整った目標を持っている子ばかりではありません。

むしろ、モチベーションの最初の火種は、もっと人間的で、もっと生々しいものです。

悔しい。
負けたくない。
馬鹿にされたくない。
認められたい。
親を安心させたい。
先生に褒められたい。
友だちに追いつきたい。
このままではまずいと思う。
自分にもできると思いたい。
もう一度、自信を取り戻したい。

こうした感情が、最初の火種になることがあります。

それは、必ずしも美しい感情ばかりではありません。
不安や焦りがきっかけになることもあります。
劣等感がきっかけになることもあります。
悔しさがきっかけになることもあります。

けれども、人間の意志とは、最初からきれいな理念だけで動くものではありません。

心が揺れる。
何かを感じる。
このままでは嫌だと思う。
変わりたいと思う。
少しでもできるようになりたいと思う。

その感情が、行動の最初の一歩になります。

だから、子どものモチベーションを考えるとき、私たちは「目標を持ちなさい」と言う前に、その子の心が何に動くのかを見なければなりません。

その子は何に悔しさを感じているのか。
何に不安を感じているのか。
何に憧れているのか。
何ができるようになったら嬉しいのか。
誰に認められたいのか。
どんな自分になれたら安心できるのか。

ここを見ないまま、「目標を決めよう」と言っても、目標は紙の上の言葉で終わってしまいます。

たとえば、「次のテストで80点を取る」という目標があったとします。

それだけなら、ただの数字です。
しかし、その数字の奥に、

「前回の悔しさを取り返したい」
「自分にもできると証明したい」
「お母さんを安心させたい」
「苦手な数学から逃げたくない」

という感情があるなら、その目標は生きた目標になります。

モチベーションとは、単なる計画表の上にあるものではありません。
感情と目的が結びついたときに生まれる、内側からの動きなのです。


強い意志とは、未来の自分との約束である

では、強い意志とは何でしょうか。

私は、強い意志とは、未来の自分との約束を守ろうとする力ではないかと思っています。

今の自分は、楽をしたい。
今の自分は、面倒なことを避けたい。
今の自分は、スマートフォンを見たい。
今の自分は、眠りたい。
今の自分は、難しい問題から逃げたい。

これは自然なことです。

人間は、今すぐ得られる楽さや快適さに引っ張られます。
今の気分は強い。
今の欲求も強い。
今の疲れも強い。

一方で、勉強によって得られる成果は、すぐには見えません。

今日、英単語を10個覚えたからといって、明日人生が変わるわけではありません。
今日、計算問題を解いたからといって、すぐに偏差値が大きく上がるわけでもありません。
今日、読解問題に取り組んだからといって、その日のうちに国語が得意になるわけではありません。

勉強の成果は、時間差で現れます。

だから、勉強には未来を信じる力が必要になります。

今日の努力は、未来の自分を助ける。
今日の我慢は、未来の選択肢を広げる。
今日の一問は、未来の自信につながる。
今日の復習は、明日の理解を楽にする。

そう思えるとき、人は今の自分を少しだけ制御できます。

つまり、強い意志とは、今の気分にただ勝つ力ではありません。
未来の自分を、今の自分よりも少し大切にできる力です。

この力がある子は、目の前の誘惑に完全に振り回されません。

もちろん、疲れることもあります。
嫌になることもあります。
遊びたい日もあります。
休みたい日もあります。

しかし、どこかで未来の自分の姿が見えている。
だから、また戻ってこられる。

「今日はやりたくない。でも、ここで止まると後で困る」
「今は面倒だけれど、入試の日の自分を助けるためにやっておこう」
「できる自分になりたいから、少しだけ続けよう」

このように、今の自分と未来の自分がつながっていると、意志は強くなります。

反対に、未来の自分が見えない子は、今の気分に流されやすくなります。

未来がぼんやりしている。
目標が遠すぎる。
努力した先に何があるのか分からない。
自分が変われると思えない。
どうせやっても無理だと思っている。

この状態では、意志は生まれにくいのです。

だから、子どもに必要なのは、単に「頑張れ」と言われることではありません。
必要なのは、未来の自分を想像できるようになることです。


目的を持てない子には、目的を持てない理由がある

教育の現場では、「目的を持つことが大切だ」とよく言われます。

これは確かにその通りです。

目的がある子は強い。
目的がある子は、多少の困難に耐えることができます。
目的がある子は、勉強の意味を見失いにくい。
目的がある子は、何のために今これをやっているのかを理解しやすい。

しかし、ここで忘れてはいけないことがあります。

それは、すべての子が最初から目的を持てるわけではない、ということです。

「将来の夢は何ですか」
「志望校はどこですか」
「何のために勉強するのですか」

こう聞かれて、すぐに答えられる子もいます。
しかし、答えられない子もいます。

そのとき、大人はついこう思ってしまいます。

「この子は目的意識がない」
「まだ本気になっていない」
「将来のことを考えていない」
「危機感が足りない」

しかし、本当にそうでしょうか。

目的を持てない子の中には、将来を考えていない子だけでなく、将来を考えること自体が苦しい子もいます。

なぜなら、未来を考えるためには、ある程度、自分に対する信頼が必要だからです。

「自分は変われるかもしれない」
「自分には可能性があるかもしれない」
「努力すれば少しは前に進めるかもしれない」
「未来の自分は、今より良くなれるかもしれない」

こう思えるからこそ、人は未来を考えることができます。

反対に、失敗体験が多い子、叱られ続けてきた子、勉強で何度もつまずいてきた子、自分はできないと思い込んでいる子にとって、未来を考えることは簡単ではありません。

未来を考えようとすると、不安になる。
目標を立てようとすると、どうせ無理だと思う。
志望校を聞かれると、自分には関係ないと感じる。
夢を聞かれると、答えられない自分を責められているように感じる。

このような子に、いきなり「目的を持ちなさい」と言っても、それは重荷になることがあります。

目的とは、命令されて持つものではありません。
目的は、自分の中に少しずつ生まれてくるものです。

そして、そのためには、まず「自分にも少しはできるかもしれない」という感覚が必要です。

目的を持てる子と持てない子の違いは、単なる意識の高さの違いではありません。
その背景には、自己信頼の差があります。
成功体験の差があります。
未来を想像できるだけの心の余裕の差があります。

だから、目的を持てない子に必要なのは、説教ではありません。

まず必要なのは、安心です。
次に必要なのは、小さな成功体験です。
そして、その成功体験をもとに、自分の未来を少しだけ考えられるようにすることです。

目的は、その後に生まれてきます。


意志の原点を作るために必要な三つのこと

では、まだ強い意志の原点を持てない子に対して、私たちは何ができるのでしょうか。

私は、意志の原点を作るためには、少なくとも三つの段階が必要だと思っています。

一つ目は、安心して学べる状態を作ること。
二つ目は、小さな成功体験を積むこと。
三つ目は、その成功体験を未来の目標につなげることです。

まず、安心して学べる状態がなければ、子どもは勉強に向かえません。

勉強が苦手な子にとって、問題用紙はただの紙ではありません。
そこには、過去の失敗の記憶が貼りついています。

分からなかった記憶。
間違えて恥ずかしかった記憶。
怒られた記憶。
比べられた記憶。
自分だけできなかった記憶。
何度やっても覚えられなかった記憶。

そうした記憶がある子にとって、勉強は不安を呼び起こすものです。

だから、まず必要なのは、「ここでは間違えても大丈夫だ」という安心です。

間違いを責められない。
分からないことを馬鹿にされない。
質問しても嫌な顔をされない。
できないところから始めてもよい。
自分のペースで立て直せる。

この安心があると、子どもはようやく学習の入口に立つことができます。

次に必要なのは、小さな成功体験です。

ここで重要なのは、大きな成功ではありません。
いきなりテストで高得点を取る必要はありません。
いきなり偏差値を上げる必要もありません。

まずは、

「昨日できなかった問題が一問できた」
「前より計算ミスが減った」
「漢字を五個覚えられた」
「英文を一文読めた」
「授業中に一度質問できた」
「宿題を最後まで出せた」
「今日は逃げずに机に向かえた」

こうした小さな成功でよいのです。

大人から見ると、ほんの小さなことかもしれません。
しかし、自己否定感を持っている子にとっては、その一つが大きな意味を持ちます。

「自分にもできた」
「前より少し進んだ」
「完全にダメではなかった」
「もう一回やってみてもいいかもしれない」

この感覚が、意志の芽になります。

意志とは、ある日突然、燃え上がるものではありません。

小さな成功体験が積み重なり、自分に対する見方が少し変わり、未来への不安が少し減り、自分にもできるかもしれないと思えたとき、その子の中にようやく意志の原点が生まれます。

そして三つ目に、その成功体験を未来の目標につなげることが必要です。

ただ「できたね」で終わらせるのではなく、

「これが続けば、次のテストでここまで行けるかもしれない」
「この単元が分かると、次の学年の内容が楽になる」
「今の努力は、志望校に近づく一歩になる」
「このやり方なら、自分で勉強できるようになる」

このように、現在の小さな成功と未来の自分を結びつける。

すると、勉強は単なる作業ではなくなります。
その子自身の未来に関わる行動になります。

ここで初めて、意志は方向を持ちます。


「やる気がない」のではなく、やる気が生まれる条件が整っていない

子どもを見ていると、「やる気がない」と言われる子がいます。

しかし、私はいつも思います。

本当にその子には、やる気がないのでしょうか。
もしかすると、やる気がないのではなく、やる気が生まれる条件が整っていないだけではないでしょうか。

たとえば、何をすればよいのか分からない。
どこから分からなくなったのか分からない。
やってもできる気がしない。
頑張っても結果が出た経験がない。
勉強すると怒られる記憶ばかりがある。
自分に合った教材に出会っていない。
目標が遠すぎて現実感がない。
生活リズムが乱れていて、集中できる状態にない。

このような状態では、やる気は生まれにくい。

やる気とは、精神論だけで生まれるものではありません。
学習環境、教材の難易度、先生との関係、家庭での声かけ、本人の成功体験、生活リズム、身体の状態、心の状態。

そうしたものが複雑に絡み合って、初めて生まれます。

だから、「やる気がない」と決めつける前に、私たちは考えなければなりません。

この子は、何をすればよいか分かっているのか。
この子にとって、今の課題は難しすぎないか。
この子は、できた経験を持っているのか。
この子は、失敗しても大丈夫だと思えているのか。
この子は、自分の未来を少しでも肯定的に想像できているのか。
この子は、自分に合った学び方で学べているのか。

もし、これらの条件が整っていなければ、やる気が見えなくても当然です。

大人でも、できる見通しがまったくない仕事を、前向きに続けるのは難しいものです。
何をどうすればよいか分からない状況で、意欲を持つのは難しい。
失敗ばかりを責められる環境で、挑戦する気持ちを持つのは難しい。

子どもも同じです。

やる気は、叱って出させるものではありません。
やる気は、条件を整え、経験を積み、心が少しずつ動く中で生まれてくるものです。


強い意志を支えるのは「自分は変われる」という感覚

強い意志を持つために、最も大切なものは何でしょうか。

私は、「自分は変われる」という感覚だと思います。

これは、勉強において非常に大切です。

子どもが勉強をしないとき、その背景には「どうせやっても変わらない」という感覚があることがあります。

どうせ覚えられない。
どうせ点数は上がらない。
どうせまた間違える。
どうせ自分は数学が苦手だ。
どうせ英語は無理だ。
どうせ今さらやっても遅い。

この「どうせ」が強い子は、なかなか動けません。

なぜなら、努力の先に変化が見えないからです。

人間は、変化を信じられないことには努力できません。

努力とは、未来の変化に対する投資です。
今日の苦労が、明日の自分を変えると思えるから、人は努力できます。

しかし、「どうせ変わらない」と思っている子にとって、努力は無意味に感じられます。

だから、強い意志を育てるためには、まず「変われる」という感覚を取り戻す必要があります。

そのために必要なのが、具体的な変化の経験です。

前は解けなかった問題が解けるようになった。
前は読めなかった文章が読めるようになった。
前は覚えられなかった漢字が書けるようになった。
前はすぐ諦めていたけれど、今日は少し粘れた。
前は質問できなかったけれど、今日は聞けた。

こうした経験は、その子の中に小さな証拠を作ります。

「自分は変われるかもしれない」

この証拠が増えていくと、子どもは少しずつ努力を信じられるようになります。
努力を信じられるようになると、意志が生まれます。

つまり、意志とは、根性だけではありません。
意志の土台には、変化への信頼があります。

「やれば変わる」
「少しずつなら進める」
「前より良くなれる」
「自分は完全に止まっているわけではない」

この感覚があるから、子どもは次の一歩を踏み出せます。

教育とは、子どもにこの感覚を取り戻させる仕事でもあります。


大きすぎる目標は、かえって意志を弱くする

目標を持つことは大切です。

しかし、目標の立て方を間違えると、かえって意志を弱くしてしまうことがあります。

たとえば、今の学力から見てあまりにも遠い目標を、いきなり掲げた場合です。

もちろん、高い目標を持つこと自体は悪いことではありません。
夢や憧れは大切です。
大きな目標があるからこそ、人は成長することもあります。

しかし、その目標が現在の自分とまったくつながっていないとき、子どもは圧倒されます。

「無理だ」
「遠すぎる」
「何をしても届かない」
「どうせ自分には関係ない」

そう感じてしまうと、目標は励みではなく、重荷になります。

目標には、階段が必要です。

最終的な目標があるなら、その前に中間目標が必要です。
中間目標の前に、今週の目標が必要です。
今週の目標の前に、今日の一歩が必要です。

たとえば、志望校合格という大きな目標がある。
そのためには、次の模試で偏差値を少し上げる必要がある。
そのためには、苦手な単元を一つずつ潰す必要がある。
そのためには、今週はこの範囲を復習する必要がある。
そのためには、今日はこの問題を解く必要がある。

このように、大きな目標が今日の行動につながると、意志は働きやすくなります。

逆に、大きな目標だけが空に浮かんでいて、今日何をすればよいかが分からなければ、意志は続きません。

勉強が苦手な子ほど、目標を細かく分解する必要があります。

「頑張ろう」ではなく、何をするのか。
「本気を出そう」ではなく、今日どの問題に向かうのか。
「成績を上げよう」ではなく、どの単元をできるようにするのか。

具体化されていない目標は、子どもを動かしません。

意志は、抽象的なスローガンではなく、具体的な行動に宿ります。


勉強は、子どもの自由を広げるためにある

少し大きな話になりますが、勉強の本当の意味は、子どもの自由を広げることにあると思います。

子どもにとって、勉強は義務のように見えます。
学校に行き、授業を受け、宿題をし、テストを受ける。
そこには、どうしても「やらされている」という感覚が生まれやすい。

しかし、勉強の本当の意味は、子どもを縛ることではありません。

学力がつくと、選択肢が増えます。
読めるものが増える。
考えられることが増える。
表現できることが増える。
進める学校の幅が広がる。
将来選べる仕事の幅が広がる。
人の話を理解する力がつく。
社会の仕組みを見抜く力がつく。
自分の考えを言葉にする力がつく。

つまり、勉強は、本来、子どもの自由を広げるためのものです。

しかし、子どもはそのことをすぐには実感できません。

目の前にあるのは、計算問題であり、漢字練習であり、英文法であり、理科社会の暗記です。
そこから自由が広がるとは、なかなか感じられません。

だからこそ、大人は、勉強の意味を単なる義務としてではなく、未来の自由と結びつけて伝える必要があります。

「勉強しなさい」ではなく、
「勉強すると、あなたが選べるものが増える」
「分かることが増えると、世界が広がる」
「学力は、自分の人生を自分で選ぶための力になる」

このように伝えることが大切です。

意志は、押しつけられた義務からは生まれにくい。
しかし、自分の自由を広げるための行動だと感じられたとき、意志は生まれやすくなります。


強い意志は、才能ではなく構造でも支えられる

強い意志を持っている子を見ると、私たちはその子を特別だと思いがちです。

「あの子は意志が強い」
「あの子は努力できる」
「あの子は根性がある」
「あの子は自分で勉強できる」

確かに、性格的に粘り強い子はいます。
自己管理が得意な子もいます。
目標を持ちやすい子もいます。

しかし、意志の強さを才能だけで考えてしまうと、教育はそこで止まってしまいます。

「この子は意志が弱いから仕方ない」
「この子はやる気がないから無理だ」
「この子は自分で頑張れない」

そうなってしまいます。

でも、私はそうは思いません。

意志は、構造によって支えることができます。

学習する時間を決める。
やる教材を明確にする。
目標を小さくする。
進み具合を見える化する。
できたことを記録する。
質問できる環境を作る。
定期的に振り返る。
家庭と塾で情報を共有する。
生活リズムを整える。
集中しやすい場所を作る。

こうした構造があると、意志だけに頼らなくても学習を続けやすくなります。

これはとても大切です。

意志が弱い子に、「強い意志を持て」と言っても、簡単には変わりません。
しかし、意志が弱くても続けられる仕組みを作ることはできます。

そして、その仕組みの中で学習が続き、小さな成功体験が生まれると、結果的に意志も育っていきます。

つまり、意志を育てるためには、意志に頼りすぎないことも必要なのです。

最初から本人の根性だけに任せるのではなく、環境と仕組みで支える。
その中で、少しずつ本人の主体性を育てていく。

これが、現実的な教育だと思います。


家庭でできる、意志を育てる声かけ

家庭での声かけも、子どもの意志に大きな影響を与えます。

もちろん、保護者の方も大変です。

毎日忙しい中で、子どもの勉強を見守る。
宿題を確認する。
テストの結果を見る。
スマートフォンやゲームとの付き合い方を考える。
進路のことを心配する。

思うように勉強しない子どもを見ると、つい強い言葉が出てしまうこともあります。

「いつになったらやるの」
「何回言えば分かるの」
「このままで大丈夫なの」
「もっと本気になりなさい」
「どうしてできないの」

そう言いたくなる気持ちはよく分かります。
それは、子どもを心配しているからです。

しかし、子どもの意志を育てるという意味では、少し声かけの方向を変える必要があります。

まず大切なのは、結果だけでなく、行動を見ることです。

「何点だったの」だけではなく、
「どこが前よりできるようになった?」
「今回、頑張ったところはどこ?」
「次に直せそうなところはどこ?」
「塾で先生と何を確認した?」
「前より少し進んだところはある?」

このように聞くと、子どもは自分の学習を振り返りやすくなります。

次に大切なのは、できなかったことだけでなく、できたことを言語化することです。

「全部できていない」ではなく、
「ここまではできた」
「この問題は前より良くなった」
「計算の途中式は書けている」
「漢字はまだだけれど、読む力はついてきた」
「今回は準備が遅かったから、次は一週間前から始めよう」

このように、事実を整理して伝えることが大切です。

子どもは、できないところばかりを指摘されると、自分全体がダメだと感じてしまいます。
しかし、できているところと課題を分けて伝えると、次に向かいやすくなります。

また、目標を大きくしすぎないことも大切です。

「次は全部完璧にしよう」ではなく、
「次は数学の計算ミスを減らそう」
「英単語を毎日10個だけ確認しよう」
「学校のワークを一週間前に終わらせよう」
「まずは提出物をそろえよう」

このように、具体的で達成可能な目標にする。

家庭での声かけは、子どもを追い詰めるためではなく、次の一歩を見えるようにするためにあります。

意志は、責められて強くなるものではありません。
見通しが持てたときに、少しずつ強くなります。


聡生館が考える「学びの再生」と意志の教育

聡生館では、学力を伸ばすことを大切にしています。

学習塾である以上、成績を上げること、テストの点数を上げること、受験に向けた力をつけることは重要です。

しかし、私はそれだけでは十分ではないと思っています。

特に、学習につまずいている子、勉強への自信を失っている子、やる気が見えなくなっている子に対しては、単に問題を解かせるだけでは足りません。

必要なのは、学びの再生です。

学びの再生とは、もう一度、勉強に向かう力を取り戻すことです。

分からないところを整理する。
基礎に戻る。
自分に合った教材で学ぶ。
できるところから始める。
小さな成功体験を積む。
間違いを責めず、次につなげる。
学習の道筋を見えるようにする。
家庭と連携しながら、継続できる形を作る。

その中で、子どもは少しずつ変わっていきます。

最初は、勉強に後ろ向きだった子が、少しずつ問題に向かうようになる。
質問できなかった子が、分からないところを聞けるようになる。
すぐ諦めていた子が、もう一問だけやってみるようになる。
テストを避けていた子が、次は少し点を上げたいと言うようになる。

この変化は、単なる学力の変化ではありません。
意志の芽が出てきたということです。

私は、学習塾の役割は、知識を教えることだけではないと思っています。

もちろん、知識を教えることは大切です。
解き方を教えることも大切です。
入試情報を伝えることも大切です。

しかし、それ以上に大切なのは、子どもの中にある「自分は変われるかもしれない」という感覚を育てることです。

そこから、勉強へのモチベーションが生まれます。
そこから、目的を持つ力が生まれます。
そこから、強い意志が育っていきます。

聡生館が目指しているのは、ただ勉強を管理する場所ではありません。

子どもの中にある意志の原点を探し、それを育てる場所でありたい。
そう考えています。


強い意志の正体

最後に、もう一度、最初の問いに戻りたいと思います。

強い意志は、どこから生まれるのでしょうか。

それは、生まれつきの根性だけから生まれるのではありません。
単なる性格の強さだけでもありません。
叱られたから急に生まれるものでもありません。
正論を聞かされたから自動的に生まれるものでもありません。

強い意志は、いくつものものが重なって生まれます。

悔しさ。
憧れ。
不安。
安心。
成功体験。
自己信頼。
未来への想像。
他者からの承認。
学びの見通し。
自分は変われるという感覚。
自分の努力には意味があるという実感。

これらが少しずつ重なったとき、子どもの中に意志の原点が生まれます。

そして、その意志は、最初から大きくなくてよいのです。

今日は一問だけやってみよう。
少しだけ復習してみよう。
分からないところを聞いてみよう。
前より少し良くなりたい。
もう一度、やり直してみたい。
このままでは終わりたくない。

その小さな意志を、大人が見逃さず、つぶさず、育てていく。

それが教育の仕事です。

強い意志とは、子どもを叱って無理やり作るものではありません。
子どもの中にある小さな願いを見つけ、それを未来につなげ、成功体験によって育てていくものです。

勉強へのモチベーションも同じです。

外から押しつけるものではありません。
内側から生まれるものです。
しかし、その内側の火が灯るように、外側から支えることはできます。

聡生館は、そのための場所でありたいと思っています。

勉強を教える場所であると同時に、学び直しの場所であり、自信を取り戻す場所であり、目的を見つける場所であり、子どもの中にある意志の原点を育てる場所でありたい。

子どもが、自分の未来を少しでも信じられるようになること。
自分の努力には意味があると思えるようになること。
自分は変われると感じられるようになること。

そこから、勉強へのモチベーションは生まれます。
そこから、目的を達成する力は育ちます。
そこから、強い意志は静かに立ち上がってきます。

強い意志とは、特別な子だけが持つ才能ではありません。

それは、心の奥にある小さな願いが、未来への道筋を得たときに生まれる力です。

そして教育とは、その小さな願いを見つけ、守り、育て、未来へつなげていく営みなのだと思います。

聡生館は、これからも一人ひとりの子どもの中にある小さな意志の芽を大切にしながら、学びの再生を支えていきたいと思います。

 

 Dr.Kazushige.O

 一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事

 聡生館&スプラウツ 代表

Sunday Special Blog

 

私たちは、毎日、何かを整えながら生きています。

朝起きて、布団を直す。
机の上に散らばった書類を重ねる。
洗濯物をたたむ。
今日やることを頭の中で並べ直す。
子どもの予定を確認する。
仕事の段取りを考える。
少し乱れた気持ちを落ち着かせて、一日を始めようとする。

そう考えてみると、人間が生きているということは、ほとんどが「乱れていくものを、もう一度整え直すこと」なのかもしれません。

部屋は、放っておけば散らかります。
机の上も、放っておけば書類や本でいっぱいになります。
庭も、手を入れなければ雑草が伸びていきます。
身体も、何もしなければ少しずつ衰えていきます。
人間関係も、言葉を交わさなければ少しずつ距離ができます。
心も、放っておけば不安や怒りや諦めに傾いていきます。
学びも、放っておけば忘れ、抜け落ち、習慣が崩れていきます。

世界は、こちらが何もしなくても自然に美しく整っていくわけではありません。

むしろ逆です。

世界は、放っておくと散らばっていきます。
整っていたものは崩れ、意味は薄れ、関係はゆるみ、努力の跡も少しずつ風化していきます。

物理学には、エントロピー増大の法則という考え方があります。

少し難しく聞こえるかもしれません。
けれども、日常の感覚に引き寄せれば、とても分かりやすいものです。

たとえば、コップを床に落とせば割れます。
しかし、割れたコップの破片が自然に集まって、元のコップに戻ることはありません。

熱いコーヒーは、置いておけば冷めます。
しかし、冷めたコーヒーが自然に熱々に戻ることはありません。

きれいに片づけた部屋も、生活していれば散らかります。
しかし、散らかった部屋が自然に片づくことはありません。

つまり、整った状態を保つには、必ずエネルギーが必要なのです。

私は、このエントロピー増大の法則を、単なる物理の話としてだけではなく、人間の生き方や教育、そして想像力の問題として考えてみたいのです。

なぜなら、人間とは、この「散らばっていく世界」の中で、それでも何かを整えようとする存在だからです。

そして、そのときに最も大切になる力こそが、私は想像力ではないかと思います。

想像力とは、ただ夢を見る力ではありません。
空想するだけの力でもありません。
現実から逃げるための力でもありません。

想像力とは、まだ目の前には存在していない未来を思い描く力です。

崩れているものの中に、もう一度立ち上がる可能性を見る力です。
散らばっているものの中に、つながりを見つける力です。
今の姿だけで人を判断せず、その人の奥に眠っている可能性を信じる力です。

つまり、想像力とは、世界が散らばっていくことへの抵抗なのです。

世界は、放っておくと乱れていく

私たちは、どこかで「よい状態は、そのまま続く」と思いたくなります。

一度できた習慣は、そのまま続く。
一度築いた関係は、そのまま保たれる。
一度身につけた学力は、そのまま残る。
一度整えた生活は、そのまま続く。

けれども、実際にはそうではありません。

習慣は、少し油断すると崩れます。
関係は、言葉を交わさなければ遠ざかります。
学力は、使わなければ抜け落ちます。
生活は、放っておけば乱れます。

これは、子どもの学びを見ていても、とてもよく分かります。

子どもが一度「勉強しよう」と思ったからといって、その気持ちがずっと続くわけではありません。
一度テストで良い点を取ったからといって、その後も自動的に伸び続けるわけではありません。
一度机に向かえたからといって、それだけで学習習慣が完成するわけでもありません。

子どもの学びは、とても壊れやすいものです。

少し難しい問題でつまずく。
先生の説明が分からない。
友達と比べられる。
親に叱られる。
テストで悪い点を取る。
「どうせ自分はできない」と思う。
学校へ行くこと自体が重くなる。

こうして、学びの秩序は少しずつ崩れていきます。

最初から大きく崩れるわけではありません。
小さなつまずきが積み重なります。
小さな不安が積み重なります。
小さな失敗体験が積み重なります。
そして、ある時点で子どもは、学びから身を引いてしまうことがあります。

大人から見ると、それは「やる気がない」と見えるかもしれません。
「怠けている」と見えるかもしれません。
「甘えている」と見えるかもしれません。

しかし、その内側で起きているのは、もっと複雑なことです。

その子の中で、学びの秩序が崩れている。
自信の秩序が崩れている。
生活の秩序が崩れている。
自己理解の秩序が崩れている。

そのような状態の子どもに、ただ「頑張りなさい」と言っても、なかなか届きません。

散らかった部屋に向かって「きれいになれ」と言っても、部屋は片づきません。
どこから片づけるのかを考え、手を動かし、順番に整えていく必要があります。

学びも同じです。

どこでつまずいたのか。
何が不安なのか。
どのレベルなら取り組めるのか。
どの課題なら成功体験を作れるのか。
どの言葉なら本人に届くのか。

それを考える必要があります。

そこに必要なのが、想像力です。

想像力とは、まだ見えていない可能性を見る力

想像力という言葉は、時に軽く扱われます。

「想像力が豊かですね」
「夢がありますね」
「空想が好きですね」

もちろん、それも想像力の一部です。

しかし、私は想像力を、もっと深い人間の力として考えたいのです。

想像力とは、まだ目の前には存在していないものを、心の中で先に見る力です。

建築家は、何もない土地に建物を見ます。
作家は、白紙の上に物語を見ます。
音楽家は、沈黙の中に音楽を聞きます。
教師は、今つまずいている子どもの中に、未来の成長を見ます。
親は、未熟な子どもの中に、まだ表れていない可能性を見ます。

これらはすべて、想像力の働きです。

この想像力がなければ、人間は今見えている現実に縛られます。

今できない子は、できない子のまま。
今学校へ行けない子は、学校へ行けない子のまま。
今荒れている生活は、荒れた生活のまま。
今壊れている関係は、壊れた関係のまま。

想像力がないところでは、現実は固定されます。

しかし、想像力があるところでは、現実はまだ途中になります。

「今はこうだけれど、これから変わるかもしれない」
「今は苦しいけれど、別の道があるかもしれない」
「今は失敗しているけれど、この経験が次につながるかもしれない」

そう考えることができます。

想像力は、現実逃避ではありません。
むしろ、現実を深く見る力です。

表面に見えている状態だけで判断せず、その奥にある可能性を見る。
今起きている混乱だけを見ず、その先にあり得る秩序を見る。
壊れているものを見て、「もう終わりだ」と言わず、「どうすればもう一度形になるか」を考える。

これが想像力です。

想像力のない社会は、人を今の姿だけで判断する

想像力が失われると、社会はとても冷たくなります。

なぜなら、想像力のない社会では、人は「今見えている姿」だけで判断されるからです。

成績が低い子は、勉強ができない子。
学校へ行けない子は、問題のある子。
仕事でミスをする人は、能力の低い人。
感情をうまく表現できない人は、扱いにくい人。
生活が乱れている人は、だらしない人。

そうやって、目に見える現象だけで人を分類してしまいます。

しかし、人間はそれほど単純ではありません。

成績が低い子の中には、そもそも学び方が合っていなかった子がいます。
学校へ行けない子の中には、環境の中で傷ついてきた子がいます。
仕事でミスをする人の中には、不安が強すぎて力を出せない人がいます。
生活が乱れている人の中には、心身のエネルギーが尽きている人がいます。

表面に現れている行動だけを見ても、その人の全体は分かりません。

そこで必要になるのが想像力です。

「なぜ、この子は勉強から逃げるのだろう」
「なぜ、この人は同じ失敗を繰り返すのだろう」
「なぜ、この子は教室に入るだけで疲れてしまうのだろう」
「なぜ、この家庭はここまで苦しくなったのだろう」

そう考える力です。

これは甘やかしではありません。
単なる同情でもありません。
現実をきちんと見るための知性です。

想像力とは、相手の事情を勝手に決めつけることではありません。
相手の内面を完全に分かったつもりになることでもありません。

むしろ、
「自分にはまだ見えていない事情があるかもしれない」
と考える謙虚さです。

この謙虚さを失ったとき、人間は人間を簡単に裁きます。

「努力不足だ」
「甘えている」
「本人の問題だ」
「もう無理だ」

そう言ってしまえば、考える必要はなくなります。
支える必要もなくなります。
環境を変える必要もなくなります。

けれども、それは教育ではありません。

教育とは、今の姿だけで子どもを決めつけないことです。

今できない子の中に、できるようになる道を探すこと。
今自信を失っている子の中に、もう一度立ち上がる力を見ること。
今乱れている生活の中に、整え直す手がかりを見つけること。

教育とは、想像力の実践なのです。

子どもの「できない」は、終点ではない

教育の現場にいると、「できない」という言葉に何度も出会います。

計算ができない。
文章が読めない。
漢字が覚えられない。
集中できない。
学校へ行けない。
気持ちを言葉にできない。
机に向かえない。

しかし、この「できない」をどう見るかで、教育は大きく変わります。

「できない」を、その子の限界として見るのか。
それとも、まだ形になっていない力として見るのか。

ここが大きな分かれ目です。

たとえば、文章が読めない子がいます。
一見すると、読解力がないように見えるかもしれません。

しかし、よく見ると、語彙が足りないのかもしれません。
文の構造を追う力が弱いのかもしれません。
音読すると意味が取れるのに、黙読になると飛ばしてしまうのかもしれません。
文章の背景を想像する経験が不足しているのかもしれません。

つまり、「読めない」という現象の中には、いくつもの原因が隠れています。

計算ができない場合も同じです。

九九が不安定なのか。
繰り上がりでつまずいているのか。
筆算の手順が整理されていないのか。
文章題になると数量関係がつかめないのか。
そもそも問題を読む前に「無理」と思ってしまうのか。

「できない」は、単純な結論ではありません。
そこから教育が始まる入口です。

しかし、想像力がないと、「できない」はそのままラベルになります。

この子は算数が苦手。
この子は国語が弱い。
この子は集中力がない。
この子はやる気がない。

もちろん、現状を把握する言葉は必要です。
けれども、その言葉が子どもの未来を閉じてしまうなら、とても危険です。

大切なのは、「できない」の中に、まだ形になっていない力を見ることです。

今は整理されていない。
今はつながっていない。
今は表に出ていない。

けれども、適切な順序で、適切な環境で、適切な言葉をかければ、少しずつ形になるかもしれない。

この「かもしれない」を持てるかどうか。

そこに、教育者の想像力が問われます。

人生もまた、放っておくと散らばっていく

エントロピー増大の法則を、人生に重ねて考えると、少し身につまされるものがあります。

若い頃には、未来がまっすぐ前に伸びているように感じます。
努力すれば何かが積み上がり、学べば世界が広がり、人と出会えば人生が豊かになる。
時間は、自分の味方のように感じることもあります。

しかし、年齢を重ねると、時間の感じ方は変わってきます。

体力は少しずつ落ちます。
記憶も以前ほど確かではなくなります。
人間関係も変わります。
仕事の役割も変わります。
家族の形も変わります。
かつて当たり前だったものが、当たり前ではなくなっていきます。

人生もまた、放っておけば散らばっていきます。

若い頃に持っていた夢。
大切にしていた価値観。
人とのつながり。
仕事への情熱。
自分らしさ。
学び続ける意欲。

それらは、何もしなければ少しずつぼやけていきます。

忙しさに流される。
疲れに負ける。
失望を重ねる。
現実的な妥協を覚える。
「もうこの程度でいい」と思うようになる。

そうして、人は自分の中にあったものを、少しずつ手放していきます。

もちろん、手放すことが必要なものもあります。
若い頃の理想をそのまま持ち続けることが、いつも正しいわけではありません。
年齢とともに、執着を手放すことも大切です。

けれども、手放してはいけないものもあります。

それは、
まだ未来を想像する力
ではないでしょうか。

何歳になっても、人はまだ変わることができます。
何歳になっても、新しいことを学ぶことができます。
何歳になっても、誰かの役に立つことができます。
何歳になっても、自分の人生を少し整え直すことができます。

この感覚を失ったとき、人は急速に内側から老いていくように思います。

老いとは、単に身体が衰えることではありません。
未来を想像しなくなることでもあります。

「どうせもう無理だ」
「今さら変わらない」
「この年齢では遅い」
「もう十分だ」

そう言った瞬間に、人間の内側で、未来への道が閉じ始めます。

だからこそ、想像力は老いへの抵抗でもあるのです。

未来を想像する人は、まだ生きています。
明日を少しでも良くしようとする人は、まだ世界に働きかけています。
誰かのために何かを考える人は、まだ自分の中に秩序を作り続けています。

言葉は、散らばった心を整える

人間が世界の散らばりに抵抗するために持っている大きな道具の一つが、言葉です。

私たちは、言葉によって経験を整理します。

嫌だったこと。
悲しかったこと。
分からなかったこと。
悔しかったこと。
嬉しかったこと。
大切にしたいこと。

それらは、言葉にされることで形を持ちます。

逆に、言葉にならない経験は、心の中で散らばり続けます。

何が苦しいのか分からない。
なぜ不安なのか分からない。
何に傷ついたのか分からない。
何を望んでいるのか分からない。

そのような状態では、人は自分自身を整えることができません。

言葉とは、心の中に散らばったものを拾い集める働きを持っています。

「私は悔しかったのだ」
「本当は不安だったのだ」
「認めてほしかったのだ」
「分かってほしかったのだ」
「もう一度やり直したかったのだ」

こうして言葉になることで、経験は少しずつ意味を持ちます。

教育においても、言葉はとても大切です。

子どもが自分のつまずきを言葉にできるようになること。
「分からない」と言えること。
「ここまでは分かる」と言えること。
「何が不安なのか」を少しずつ言えること。

それは、学びの秩序を取り戻す大きな一歩です。

ただし、子どもは最初からうまく言葉にできるわけではありません。

だから、大人が言葉を補う必要があります。

「この問題が嫌なのではなくて、どこから始めればいいか分からないのかもしれないね」
「全部が分からないのではなくて、ここで引っかかっているのかもしれないね」
「勉強が嫌いというより、また失敗するのが怖いのかもしれないね」

こうした言葉は、子どもの心を整理します。

もちろん、大人が決めつけてはいけません。
しかし、適切な言葉を差し出すことで、子どもは自分の状態を少しずつ理解できるようになります。

言葉は、想像力と結びついています。

相手の中で何が起きているのかを想像する。
そのうえで、相手が自分を理解するための言葉を差し出す。

これもまた、世界が散らばっていくことへの抵抗です。

物語は、人生の散らばりをつなぎ直す

人間は、出来事をただ出来事として生きているわけではありません。

私たちは、自分の人生をどこかで物語として理解しようとしています。

あの失敗には意味があったのか。
あの出会いは何だったのか。
あの苦しみは、自分に何を教えたのか。
なぜ自分はこの道に進んだのか。
これから自分はどこへ向かうのか。

こうした問いは、人生を物語として捉えようとする働きです。

人生には、思い通りにならないことがたくさんあります。
努力が報われないこともあります。
大切なものを失うこともあります。
自分で選んだはずの道が、途中で崩れることもあります。

そのままでは、人生は断片になってしまいます。

あれもあった。
これもあった。
苦しかった。
失敗した。
仕方がなかった。

それだけでは、人はなかなか前に進めません。

そこで人間は、物語を作ります。

「あの経験があったから、今の自分がある」
「あの失敗が、自分を別の道へ導いた」
「あの苦しみを通して、人の痛みが少し分かるようになった」
「あの時期は、決して無駄ではなかった」

もちろん、すべての苦しみに簡単に意味を与えることはできません。
安易に「すべてに意味がある」と言ってしまうのは、時に人を傷つけます。

けれども、人間はいつか、自分の経験をつなぎ直さなければ生きていけません。

そのつなぎ直しの力が、物語です。

物語とは、人生のエントロピーに抗う形式なのかもしれません。

散らばった経験を、一本の線につなぎ直す。
失敗と挫折を、未来への材料に変える。
断片的な出来事に、意味の流れを与える。

ここにも、想像力があります。

今見えている苦しみだけではなく、その苦しみがいつか別の意味を持つ可能性を想像する。
過去を固定されたものとしてではなく、未来からもう一度読み直せるものとして考える。

人間は、過去を変えることはできません。

しかし、過去の意味を変えることはできます。

それもまた、想像力の力です。

教育とは、子どもの未来を閉じないこと

教育とは、知識を教えることだけではありません。

もちろん、知識は大切です。
計算ができること。
文章が読めること。
漢字が書けること。
英単語を覚えること。
社会や理科の知識を身につけること。

それらは、子どもが世界を理解するために必要な力です。

しかし、教育の本質は、それだけではありません。

教育とは、子どもが自分の未来を想像できるようにすることです。

「自分は変われるかもしれない」
「やれば少しできるようになるかもしれない」
「今の自分だけがすべてではない」
「失敗しても、そこから学べる」
「自分にも進める道がある」

そう思えるように支えることです。

成績が低い子に必要なのは、ただ点数を上げることだけではありません。
その子が「自分は学ぶことができる」と思えるようになることが必要です。

学校へ行けない子に必要なのは、ただ登校させることだけではありません。
その子が「自分にも居場所がある」と感じられることが必要です。

発達に特性のある子に必要なのは、ただ周囲に合わせることだけではありません。
その子が「自分の特性を持ちながら生きていける」と思えることが必要です。

教育とは、子どもの人生の物語を閉じないことです。

「あなたはもう無理だ」
「あなたはできない子だ」
「あなたは普通ではない」
「あなたには向いていない」

こうした言葉は、子どもの物語を閉じてしまいます。

一方で、

「ここから始めよう」
「このやり方ならできるかもしれない」
「今は途中だ」
「あなたの中には、まだ出ていない力がある」

こうした言葉は、子どもの物語を開きます。

教育者は、子どもの未来を勝手に決める存在ではありません。
しかし、子どもが自分の未来を想像できるように、そばで灯りをともす存在ではあります。

その灯りがあるかないかで、子どもは大きく変わります。

子どもには、未来を想像してくれる大人が必要である

子どもは、自分の未来をまだうまく想像できません。

特に、失敗体験が多い子どもほどそうです。

勉強でつまずいてきた子は、「自分はできるようになる」という未来を想像しにくい。
学校で傷ついた子は、「安心して通える場所がある」という未来を想像しにくい。
人間関係で苦しんだ子は、「誰かと関わることは怖くない」という未来を想像しにくい。

子どもは、過去の経験から未来を予測します。

何度も失敗してきた子は、次も失敗すると思います。
何度も叱られてきた子は、また叱られると思います。
何度も分からなかった子は、どうせまた分からないと思います。

その子にとっては、それが現実なのです。

だからこそ、子どもには、自分の代わりに未来を想像してくれる大人が必要です。

「大丈夫、できるよ」と軽く言うことではありません。
根拠のない励ましをすることでもありません。

そうではなく、

「今のあなたの状態なら、ここから始めればいい」
「このやり方なら、少しずつ進める」
「前よりここができるようになっている」
「失敗しても、次の方法を考えればいい」
「あなたはまだ途中にいる」

そう言って、未来への道筋を一緒に作る大人です。

子どもは、大人の想像力を借りて、自分の未来を少しずつ信じるようになります。

最初は自分では信じられない。
でも、大人が信じている。
大人が道筋を作ってくれる。
大人が小さな変化を見つけてくれる。

その積み重ねの中で、子どもはやがて自分でも思い始めます。

「もしかしたら、自分にもできるかもしれない」

この瞬間が、教育においてとても大切です。

これは、学力が上がる前に起きる変化です。
成績表にはまだ表れないかもしれません。
偏差値にはまだ反映されないかもしれません。

しかし、この内側の変化がなければ、本当の学びは始まりません。

教育とは、子どもの中に「未来を想像する力」を取り戻す仕事でもあるのです。

想像力は、現実逃避ではない

想像力という言葉には、どこか現実離れした印象があります。

夢を見る。
空想する。
理想を語る。
まだないものを思い描く。

そのため、想像力は時に「現実逃避」のように見られることがあります。

しかし、本当の想像力は、現実から逃げる力ではありません。

むしろ、現実に深く向き合うための力です。

なぜなら、現実を本当に変えようとするなら、まず「今とは違う状態」を思い描かなければならないからです。

散らかった部屋を片づけるには、片づいた状態を想像する必要があります。
病気を治療するには、回復した状態を想像する必要があります。
学び直しを始めるには、分かるようになった自分を想像する必要があります。
新しい教育を作るには、今とは違う学びの場を想像する必要があります。

想像できないものは、作れません。

もちろん、想像しただけでは現実は変わりません。
行動が必要です。
努力が必要です。
方法が必要です。
継続が必要です。

しかし、行動の前には必ず想像があります。

「こうなったらいい」
「このままではいけない」
「別のやり方があるはずだ」

そう思うから、人は動き始めます。

想像力のない現実主義は、ただ現状を追認するだけになりがちです。

「現実はこうだから仕方がない」
「制度上、無理だ」
「前例がない」
「この子はこういう子だから」
「今さら変わらない」

それは一見、現実的に聞こえます。
けれども、本当に現実を見ているのでしょうか。

現実とは、固定されたものではありません。
現実とは、常に変化している途中のものです。

想像力は、その変化の可能性を見る力です。

だから、想像力こそ、最も深い意味で現実的な力なのだと思います。

AI時代にこそ、想像力が必要になる

今は、AIの時代です。

知識を検索することは、以前よりもはるかに簡単になりました。
文章を作ることも、画像を作ることも、計算することも、情報を整理することも、AIが短時間で行えるようになってきました。

この流れは、これからさらに進んでいくでしょう。

では、その時代に人間に必要な力は何でしょうか。

私は、その中心に想像力があると思います。

もちろん、知識は不要になるわけではありません。
基礎学力も必要です。
読む力、書く力、考える力、判断する力は、むしろますます重要になります。

しかし、AIが情報処理を担う時代には、人間はより強く問われます。

何を問いとするのか。
何を大切にするのか。
誰のために使うのか。
どんな未来を作りたいのか。
どこに痛みがあるのか。
どこにまだ見えていない可能性があるのか。

これらは、単なる処理能力では答えられません。

ここには、人間の想像力が必要です。

AIは、大量の情報を整理することができます。
しかし、目の前の子どもの沈黙の意味を感じ取るには、人間の想像力が必要です。

AIは、文章を作ることができます。
しかし、その言葉が相手の心にどう届くかを考えるには、人間の想像力が必要です。

AIは、過去のデータから予測を出すことができます。
しかし、データからこぼれ落ちた一人の未来を信じるには、人間の想像力が必要です。

これからの教育に必要なのは、AIを使うことだけではありません。
AIを使いながら、人間の想像力をより深く育てることです。

情報を得るだけでは足りません。
知識を並べるだけでは足りません。
正解を出すだけでも足りません。

その知識を使って、どのように世界を整えるのか。
その情報を使って、誰を支えるのか。
その技術を使って、どんな未来を作るのか。

そこが問われています。

AI時代だからこそ、人間には想像力が必要なのです。

想像力とは、希望を作る力である

希望という言葉は、少し曖昧に聞こえるかもしれません。

しかし、希望は単なる気分ではありません。

希望とは、
「未来にはまだ別の可能性がある」
と感じられることです。

その意味で、希望は想像力によって作られます。

未来をまったく想像できないとき、人は希望を失います。
どこへ進めばよいか分からない。
何をしても変わらない気がする。
自分には可能性がないように感じる。

そのとき、人間の心の中では、未来が閉じています。

逆に、どれほど苦しい状況でも、ほんの少し未来が見えると、人は動けます。

明日、これだけやってみよう。
まず、この一問だけ解いてみよう。
この人に相談してみよう。
この場所へ行ってみよう。
この生活を少し整えてみよう。

希望とは、大きな夢だけではありません。

小さな次の一歩が見えること。
それも希望です。

そして、その一歩を見つけるためには、想像力が必要です。

今の状況から、どこへ進めるのか。
何ならできるのか。
どの道なら負担が少ないのか。
誰となら歩けるのか。
どこから始めればよいのか。

これを考えることが、希望を作ります。

希望は、ただ待っていて降ってくるものではありません。
希望は、想像力によって少しずつ組み立てるものです。

だから、想像力とは、希望を作る力でもあります。

世界が散らばっていく。
生活が乱れる。
心が折れる。
学びが崩れる。
関係が遠ざかる。

その中で、人間は問いかけます。

「それでも、何ができるだろうか」

この問いが、希望の始まりです。

今日、何を整えるのか

大きな話をしてきましたが、最後にもう一度、日常へ戻りたいと思います。

世界は、放っておけば散らばっていきます。

部屋も、机も、身体も、心も、学びも、関係も、社会も、人生も。

だからこそ、今日、何を整えるのかが大切になります。

大きなことをしなくてもよいのです。

机の上を少し片づける。
子どもに一言、安心できる言葉をかける。
途中で止まっていた本を開く。
ずっと気になっていた人に連絡する。
今日の予定を紙に書く。
一問だけ復習する。
一杯のコーヒーを丁寧に飲む。
荒れていた言葉を、少し柔らかく言い直す。
自分の心の中にある不安を、ノートに書いてみる。

それらは小さなことかもしれません。

しかし、その小さな行為は、世界が散らばっていくことへの確かな抵抗です。

人間は、宇宙全体のエントロピーを止めることはできません。

時間の流れを止めることもできません。
老いを完全に止めることもできません。
すべての喪失を避けることもできません。
社会の混乱を一人で解決することもできません。

しかし、目の前の一部を整えることはできます。

今日の部屋を整える。
今日の言葉を整える。
今日の学びを整える。
今日の関係を整える。
今日の自分の心を少し整える。

その積み重ねが、人生になるのだと思います。

そして、その行為の根底には、必ず想像力があります。

「こうありたい」
「こうなったらよい」
「このままでは終わらせたくない」
「まだできることがある」

その思いがあるから、人は手を動かします。
言葉を選びます。
学び直します。
誰かを支えます。
もう一度始めます。

エントロピー増大の法則は、私たちに厳しい現実を教えてくれます。

秩序は自然には保たれない。
整ったものは、放っておけば崩れていく。
形あるものは、いつか壊れる。
熱は冷める。
記憶は薄れる。
努力の痕跡も、時間とともに風化していく。

しかし、その事実は、人間の営みを無意味にするものではありません。

むしろ、その事実があるからこそ、人間の営みには意味があります。

散らばるから、集める。
崩れるから、支える。
失われるから、残す。
忘れるから、書く。
すれ違うから、語り合う。
つまずくから、教える。
傷つくから、寄り添う。
不安になるから、未来を描く。

人間は、世界が乱れていくことを知りながら、それでも秩序を作ろうとする存在です。

その秩序は、巨大でなくてもよい。
完璧でなくてもよい。
永遠でなくてもよい。

今日一日を少し整えること。
目の前の一人を少し支えること。
失われかけた学びを少し取り戻すこと。
閉じかけた未来を少し開くこと。

それで十分に、人間的な営みです。

想像力とは、世界が散らばっていくことへの抵抗である。

それは、現実逃避ではありません。
夢物語でもありません。
甘い理想論でもありません。

むしろ、世界が放っておけば崩れていくことを知ったうえで、それでもなお「別の形」を思い描く力です。

壊れたものを前にして、もう一度つなぎ直す方法を考える力。
失敗した人を前にして、その人の未来を閉じない力。
つまずいた子どもを前にして、まだ伸びる道を探す力。
自分自身の人生を前にして、まだ終わっていない物語として受け止める力。

その力がある限り、人間はただ流されるだけの存在ではありません。

世界は散らばっていく。
時間は過ぎていく。
秩序は崩れていく。

それでも、人間は想像します。

まだ見えない未来を。
まだ形になっていない可能性を。
まだ言葉になっていない希望を。

そして、その想像をもとに、今日も小さく世界を整える。

それが、人間が生きるということなのだと思います。

 

Sunday Special Blog

 by Dr.Kazushige.O

 

   一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事

   聡生館&スプラウツ 代表

第三部 人生は橋を探す旅ではない

こんにちは。

第一部では、「橋を失うことから始まる人生」について書きました。

私自身が研究者としての道を歩みながら、体調不良によってその橋を失い、人生の方向を見失った経験についてお話ししました。

そして第二部では、教育という新しい橋と出会い、子どもたちから「小さな橋の大切さ」を教えてもらったことについて書きました。

人生は、大きな飛躍だけでできているわけではありません。

今日という一日を積み重ねること。

小さな一歩を重ねること。

それが未来へ続く橋になっていくのだと思います。

今回の第三部では、

  • 音楽が教えてくれた「架け橋」
  • メメント・モリという考え方
  • 人間力とは何か
  • 人生は橋を探す旅ではなく、橋を作る旅である

というテーマについて考えてみたいと思います。


音楽が教えてくれた「架け橋」

人生には、言葉だけでは伝えきれないものがあります。

理屈では説明できない感情。

胸の奥に残り続ける記憶。

そして、苦しい時にそっと寄り添ってくれるもの。

その一つが、音楽なのだと思います。

「架け橋」という言葉を考えていた時、私の心に浮かんだ二つの楽曲がありました。

ゆずの『栄光の架橋』。

そして、Simon & Garfunkel の『明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)』です。

この二つの曲は、それぞれ異なる形で「橋」を歌っています。

しかし、そのどちらもが人生において非常に大切な意味を持っているように思います。


『栄光の架橋』が教えてくれたこと

『栄光の架橋』は、多くの人の人生の節目に寄り添ってきた曲です。

受験。

卒業。

スポーツの大会。

新しい挑戦。

様々な場面でこの曲が流れます。

そして、多くの人が涙を流します。

なぜでしょうか。

それは、この曲が単なる「成功の歌」ではないからだと思います。

この曲が描いているのは、

苦しみながらも前へ進む人の姿

です。

誰もが苦しい。

誰もが迷う。

誰もが、「もう無理かもしれない」と思う瞬間があります。

しかし、それでも歩みを止めない。

なぜなら、その先に橋があると信じているからです。

人生も同じです。

最初から完成された橋が見えているわけではありません。

歩き続ける中で、少しずつ橋が形になっていく。

そして振り返った時、

「あの時の苦労も、自分にとって必要な橋だった。」

と思えるのかもしれません。


『明日に架ける橋』という生き方

一方で、『明日に架ける橋』は、別の橋を歌っています。

それは、

「誰かのための橋」

です。

苦しんでいる人。

孤独の中にいる人。

希望を失っている人。

そんな人に向かって、

「私があなたの橋になろう。」

と歌っています。

若い頃の私は、自分自身が橋を渡ることばかり考えていました。

進学。

研究。

仕事。

自分の人生を切り拓くこと。

それが大切だと思っていました。

しかし、年齢を重ねるにつれて思うのです。

人生には、

誰かのために橋を架ける生き方

もあるのだと。

子どもたちのために。

家族のために。

地域社会のために。

困っている誰かのために。

それは決して目立つことではありません。

でも、とても尊いことなのだと思います。


メメント・モリと人生

私は以前から、「メメント・モリ」という言葉に惹かれてきました。

ラテン語で、

「死を想え」

という意味です。

初めてこの言葉を知った時は、どこか暗い印象を受けました。

しかし今では、

「より良く生きるための言葉」

だと思っています。

私たちは、いつか必ず人生の終わりを迎えます。

どれほど成功しても。

どれほど才能があっても。

どれほど豊かな人生を送っても。

それは誰にも平等に訪れます。

だからこそ、

今という時間は尊い。

もし人生が永遠なら、

「また今度でいい。」

「いつかやればいい。」

と思ってしまうかもしれません。

しかし、限りがあるからこそ、

今を大切にできる。

人を大切にできる。

そして、

未来へ橋を架けようと思えるのではないでしょうか。

人生には終わりがあります。

だからこそ、

誰と出会うのか。

何を学ぶのか。

どんな生き方をするのか。

そして、

誰のために橋を架けるのか。

が大切になるのだと思います。


人間力とは橋を架ける力である

私は長年、教育の現場に立つ中で、

「本当に大切なものは何だろう。」

と考えてきました。

もちろん、学力は大切です。

知識も必要です。

しかし、それだけでは人生を支えきれません。

困難に直面しても立ち上がる力。

他者を思いやる力。

自分を信じる力。

努力し続ける力。

そして、

誰かのために橋を架けようとする力。

私は、これこそが

「人間力」

なのだと思います。

聡生館では、「偏差値の先にある人生」を大切にしています。

受験はゴールではありません。

その先の人生を支える力を育てることが大切です。

また、Sproutsでは、

「ここにいていい。」

という安心感を大切にしています。

安心できる場所がある。

受け入れてくれる人がいる。

失敗しても大丈夫だと思える。

その土台があって初めて、人は前に進むことができます。

そして、その過程そのものが、

人生への橋を作っていくこと

なのだと思います。


人生は橋を探す旅ではない

ここまで、「架け橋」というテーマについて考えてきました。

そして、私は一つの結論にたどり着きました。

それは、

人生とは、橋を探す旅ではない。

橋を作る旅なのだ。

ということです。

若い頃の私は、どこかに正解があると思っていました。

この学校へ行けば安心。

この仕事に就けば幸せ。

この道を選べば大丈夫。

でも、人生に完成された橋は存在しません。

橋は、自分で作っていくものなのです。

迷いながら。

失敗しながら。

立ち止まりながら。

時には遠回りをしながら。

少しずつ、自分だけの橋を作っていく。

だからこそ、人の人生はそれぞれ違うのだと思います。

そして、橋を失うことは人生の終わりではありません。

新しい橋は、必ずどこかに存在しています。

今は見えなくても、その橋はきっと見つかります。

だから、どうか諦めないでください。

そして、小さな一歩を大切にしてください。

その一歩が、次の橋へとつながっていきます。


最後に

人生には、数え切れないほどの橋があります。

希望へ向かう橋。

再出発の橋。

人と人をつなぐ橋。

未来へ続く橋。

私たちは、その橋を渡りながら生きています。

そして時には、自ら橋を作り、誰かのために橋を架ける。

それこそが、人として生きるということなのかもしれません。

私はこれからも、教育という場所で、多くの子どもたちと共に橋を作り続けていきたいと思います。

一人ひとりが、自分らしい未来へ向かって歩いていけるように。

そして、いつか誰かのために橋を架けられる人へと成長していけるように。

そんな願いを込めながら。

架け橋。

人は希望によって未来へ渡る。

そして人生とは、

橋を探す旅ではない。

橋を作り続ける旅なのである。


あなたが今、渡ろうとしている「橋」は何ですか。

そして、誰のために、どんな橋を架けたいと思いますか。

その問いへの答えを探しながら、今日という一日を大切に生きていきたい。

それが、限りある人生を生きる私たちにできる、最も人間らしい営みなのかもしれません。


🌱

by Dr. Kazushige.O
(一般社団法人 自在能力開発研究所 代表理事

 聡生館/Sprouts フリースクール 代表)

第二部 教育という新しい橋

こんにちは。

前回の第一部では、「人はなぜ橋を必要とするのか」、そして私自身が研究者として歩んでいた人生の中で、大切な橋を失った経験について書きました。

それまで当然のように存在していた未来への道筋が突然見えなくなる。

それは、とても苦しい経験でした。

しかし今振り返ると、その経験があったからこそ、新しい橋と出会うことができたのだと思います。

今回は、その「新しい橋」である教育について、そして子どもたちから教えてもらったことについて書いてみたいと思います。


教育者になるとは思っていなかった

正直に言えば、若い頃の私は教育者になるとは思っていませんでした。

研究者としての道を歩み続けることが、自分の人生なのだと考えていました。

しかし、人生は時として、自分の想像とは違う方向へ進んでいきます。

体調を崩し、研究者としての道を続けることが難しくなった時、私は改めて考えました。

「自分には何ができるのだろう。」

「これから、どのように社会と関わっていけばよいのだろう。」

その問いに向き合い続ける中で、少しずつ見えてきたものがありました。

それが、

「人の成長を支えること」

でした。

研究は、人類全体の未来へ橋を架ける仕事です。

教育は、目の前の一人の人生へ橋を架ける仕事です。

その対象は違っても、本質は同じなのかもしれません。

どちらも、

「未来を支える仕事」

だからです。


子どもたちとの出会い

教育の現場に立つようになって、私は本当に多くの子どもたちと出会いました。

勉強が得意な子。

勉強に苦手意識を持っている子。

学校生活を楽しんでいる子。

そして、学校へ行くこと自体が難しくなってしまった子どもたち。

一人として同じ子はいませんでした。

しかし、共通して感じたことがあります。

それは、

「本当は前に進みたいと思っている」

ということです。

「どうせ自分なんて。」

「頑張っても無理。」

「やっても意味がない。」

そう話す子どもたちもいます。

でも、その言葉の奥には、

「本当は変わりたい。」

「本当は認められたい。」

「本当は頑張ってみたい。」

そんな気持ちが隠れていることが少なくありません。

私は、そのことを子どもたちから教えてもらいました。


不登校の子どもたちが抱えるもの

フリースクールで多くの子どもたちと関わる中で、私はあることに気づきました。

不登校の子どもたちが苦しんでいるのは、

「学校へ行けないこと」

そのものではないことが多いのです。

本当に苦しんでいるのは、

「この先、自分はどうなるのだろう。」

という未来への不安です。

同級生は学校へ行っている。

勉強も進んでいる。

部活動もしている。

友達とも過ごしている。

その一方で、自分だけが取り残されているような感覚。

「もう普通の人生には戻れないのではないか。」

「高校へ行けないかもしれない。」

「将来、働けないかもしれない。」

そんな不安を抱えている子どもたちは少なくありません。

つまり、

未来への橋が見えなくなってしまっている

のです。

そして、人は橋が見えなくなると動けなくなる。

これは子どもも、大人も同じなのだと思います。


「明日、一時間だけ来てみよう」

しかし、教育の現場で私が学んだことがあります。

それは、

橋は大きくなくていい

ということです。

ある子どもは、長い間家から出ることができませんでした。

保護者の方はとても心配されていました。

「このままで大丈夫でしょうか。」

「将来、自立できるでしょうか。」

当然の不安だったと思います。

しかし、私はこう考えていました。

「まずは、明日一時間だけ来られたら十分だ。」

一週間後のことではない。

一年後のことでもない。

まずは、明日。

一時間だけ。

それで十分なのです。

そして実際に、その子は来ることができました。

最初は緊張していました。

ほとんど話もできませんでした。

でも、一時間を過ごすことができた。

それだけで、大きな前進でした。

なぜなら、その一歩が次の橋につながるからです。


小さな成功体験が橋になる

私たち大人は、つい大きな結果を求めてしまいます。

テストで高得点を取ること。

毎日学校へ通えるようになること。

志望校に合格すること。

もちろん、それらは大切な目標です。

しかし、本当に大切なのは、

「できた」

という感覚なのではないでしょうか。

問題が一問解けた。

宿題を提出できた。

自分から挨拶ができた。

先生と話せた。

教室に入れた。

一時間座っていられた。

そうした小さな成功体験の積み重ねが、

「自分にもできるかもしれない。」

という感覚を育てていきます。

そして、その感覚こそが、

次の橋を作っていく

のです。


教育とは橋を一緒に作ること

私は、教育とは何かと問われたら、こう答えるかもしれません。

教育とは、橋を一緒に作ること。

教師が一方的に教えることではありません。

知識を詰め込むことでもありません。

「どこへ向かいたいのか。」

「どんな未来を描きたいのか。」

を一緒に考えること。

そして、そのための橋を一緒に作っていくこと。

その橋を渡る時に、

「大丈夫、一緒に考えていこう。」

と寄り添うこと。

それが教育なのだと思います。

聡生館では、

「偏差値の先にある人生」

を大切にしています。

受験はゴールではありません。

その先の人生を支える力を育てることが大切です。

また、Sproutsでは、

「ここにいていい。」

という安心感を大切にしています。

安心できる場所がある。

受け入れてくれる人がいる。

失敗しても大丈夫だと思える。

その土台があって初めて、人は前に進むことができるのです。


子どもたちは、本当は前に進みたい

長年、多くの子どもたちと関わってきて、私は確信しています。

子どもたちは、本当は前に進みたいと思っています。

変わりたい。

成長したい。

認められたい。

その気持ちは、誰もが持っています。

だからこそ、私たち大人にできることは、

無理やり引っ張ることではありません。

答えを押し付けることでもありません。

「もう一度、橋を渡ってみようかな。」

そう思えるような関わりをすることなのだと思います。

そして、子どもたちと一緒に橋を作っていく中で、実は私自身もまた、多くのことを教えられているのです。

人生は、大きな飛躍の連続ではありません。

今日という一日を積み重ねること。

小さな橋を一つひとつ渡ること。

その積み重ねが、やがて大きな未来へとつながっていく。

子どもたちは、そのことを私に教えてくれました。

次回の第三部では、

音楽が教えてくれた「架け橋」、メメント・モリ、人間力、そして、

「人生は橋を探す旅ではない」

というテーマについて考えてみたいと思います。

(第三部「人生は橋を探す旅ではない」へ続く)


🌱

by  Dr. Kazushige.O
(一般社団法人 自在能力開発研究所 代表理事

 聡生館/Sprouts フリースクール 代表)