私たちは普段、「私」という存在について、それほど深く考えることなく生きています。
鏡に映っている自分。
昨日から続いている自分。
名前を持ち、記憶を持ち、誰かを愛し、誰かに愛され、さまざまな経験を積み重ねてきた自分。
それを当然のように「私」だと思っています。
しかし、少し立ち止まって考えてみると、
「私とは、いったい何なのだろう」
という問いは、実はとても不思議な問いです。
私はこの身体なのでしょうか。
それとも脳なのでしょうか。
記憶でしょうか。
意識でしょうか。
あるいは、身体を構成する無数の物質が、一時的につくり上げている「生命という秩序」なのでしょうか。
今日は少し壮大なテーマになります。
量子力学の「量子もつれ」から始まり、生命、意識、人と人との関係、そして最後には「死」についてまで考えてみたいと思います。
ただし、最初に大切なことを書いておきます。
私は、「人間の心は量子もつれでつながっている」と主張したいわけではありません。
まして、量子力学によって魂や死後の世界が証明された、と言いたいわけでもありません。
科学で分かっていることと、まだ分かっていないこと。
そして、その先にある哲学的な問い。
その境界線を大切にしながら考えてみたいのです。
量子の世界は、私たちの常識とは少し違っている
量子力学には「量子もつれ」と呼ばれる非常に興味深い現象があります。
二つの量子的な系が、個々に完全に独立した状態としてではなく、全体として一つの状態を持つような関係です。
これは私たちの日常感覚からすると、非常に奇妙に感じられます。
机の上の二つのリンゴなら、それぞれ別々のリンゴとして考えることができます。
ところが量子の世界では、物事を単純に「これはこれ」「あれはあれ」と切り離して説明できない場合があります。
ここに私は、とても興味を惹かれます。
もちろん、だからといって、
「人間同士も量子もつれで心がつながっている」
と結論づけることはできません。
そこには科学的な飛躍があります。
けれども量子力学は、私たちに一つの大切なことを教えてくれます。
それは、
「人間の日常的な常識が、自然界のすべてを説明できるとは限らない」
ということです。
そして、この視点から改めて人間を見たとき、私は一つの疑問を持ちます。
そもそも「私」は、本当に私一人だけで完結している存在なのでしょうか。
私の中には、無数の「他者」がいる
考えてみれば、現在の私は、自分一人でつくられたわけではありません。
私は母から生まれました。
父がいました。
多くの人に育てられました。
誰かに言葉を教えられ、
誰かに褒められ、
誰かに叱られ、
誰かに傷つけられ、
そして誰かに救われながら生きてきました。
恩師から教えられた一言が、自分の考え方の一部になっていることもあります。
愛した人との経験が、その後の人生観を変えることもあります。
何十年も前に誰かから言われた言葉を、今でも覚えていることさえあります。
そう考えると、
「私」
という存在は、実は私だけでできているわけではありません。
私の中には、これまで出会ってきた無数の人々がいるのです。
そして逆に、私がこれまで関わった人の中にも、おそらく私の何かが残っています。
「想念」はどこへ行くのだろう
私は以前から、「想念」というものに興味があります。
誰かを強く思う。
会いたいと思う。
心配する。
愛する。
亡くなった人を思い出す。
すると、ときどき不思議なことがあります。
ある人のことを考えていたら、その人から突然連絡が来た。
そんな経験をしたことがある人もいるでしょう。
けれども、それを直ちにテレパシーや量子力学で説明してはいけないと思います。
偶然かもしれません。
人間の記憶の性質によるものかもしれません。
心理学的に説明できる現象なのかもしれません。
科学者として物事を見るならば、証拠のないものを「証明された事実」のように語るべきではありません。
しかし同時に、
「まだ証明されていない」
という理由だけで、考えることまでやめる必要もないと私は思っています。
なぜなら人の「思い」は、少なくとも言葉や行動を通して他者へ伝わっていくからです。
教師の一言が、生徒の人生を変える。
親の何気ない言葉が、子どもの心に何十年も残る。
誰かから受けた優しさが、その人をさらに別の人へ優しくさせる。
愛した人が亡くなった後も、その人の言葉が自分の人生を支え続ける。
これは量子テレポーテーションではありません。
しかし、
「人間の中にあったものが、別の人間へ伝わり、その人の中で生き続ける」
ということは、確かにあります。
私は教育という仕事を長く続けてきました。
これまで多くの子どもたちと出会い、さまざまな言葉を伝えてきました。
私自身は忘れてしまっていても、もしかすると、ある生徒は私が何十年も前に話した一言を覚えているかもしれません。
もし、その一言がその人の生き方に少しでも影響しているなら、私が発した「思い」の一部は、その人の中で今も生きていることになります。
人は、そのようにして互いの中に何かを残しながら生きているのではないでしょうか。
生命とは「物質」なのか
ここで、もう一度「私」に戻ります。
人間の身体は物質でできています。
炭素、酸素、水素、窒素。
さまざまな元素が組み合わされ、細胞をつくり、組織をつくり、身体をつくっています。
しかし、それらの物質をただ集めただけでは「私」にはなりません。
大切なのは、それらがどのような関係を持ち、どのように生命活動を維持しているかということです。
心臓が動く。
肺が呼吸する。
血液が流れる。
細胞が代謝する。
神経細胞が電気的・化学的な信号をやり取りする。
私たちは外から食物や酸素を取り入れ、エネルギーを使い、熱や老廃物を外へ出しながら生きています。
生命とは、外界と物質やエネルギーを交換しながら、高度な秩序を維持している存在です。
そして不思議なのは、身体をどれだけ細かく調べても、
「ここに『私』があります」
という小さな物体が見つかるわけではないことです。
脳にも「私」という粒はありません。
心臓にもありません。
DNAそのものが「私」なのでもありません。
それでも私は、
考え、
喜び、
悲しみ、
人を愛し、
そして、
「私はここにいる」
と感じています。
だとしたら「私」とは、一つの物体というよりも、
物質とエネルギーと情報がつくり上げ、維持している一つの巨大な「秩序」
と考えることもできるのではないでしょうか。
私は「物」ではなく、「過程」なのかもしれない
川を考えてみると分かりやすいと思います。
多摩川を昨日流れていた水と、今日流れている水は違います。
水は絶えず入れ替わっています。
それでも私たちは、それを今日も「多摩川」と呼びます。
川とは、一つの固定された水の塊ではありません。
絶えず水が流れながら、それでも一つの形を保っている存在です。
人間も、どこか似ているのではないでしょうか。
身体では代謝が起こり続けています。
私たちは食べ、呼吸し、身体を構成する物質も変化していきます。
考え方も変化します。
経験も増えます。
それでも、
昨日の私。
十年前の私。
今日の私。
それらを私たちは一つにつなげて、
「私の人生」
と呼びます。
そう考えると、「私」は名詞というよりも、むしろ動詞に近い存在なのかもしれません。
私は完成した一つの「物」なのではなく、
今この瞬間も変わり続けている「過程」
なのです。
では「死」とは何なのだろう
この考えを進めていくと、どうしても「死」という問題にたどり着きます。
人間はいつか死にます。
生命活動は終わり、私たちが「私」と呼んできた生命の秩序も維持できなくなります。
しかし、身体を構成していた原子が、その瞬間にすべて消滅するわけではありません。
物質は形を変え、やがて自然界の循環へ戻っていきます。
以前の私は、
「死とは、生命を構成していた素粒子が解放されることではないか」
と考えたことがありました。
しかし、今はもう少し正確に、
「死とは、『私』という生命の秩序を維持していた関係が解かれていくこと」
と考えています。
一滴の水が海へ戻るように。
一本の木がやがて土へ還るように。
私を形づくっていた物質も、再び世界の循環へ戻っていく。
これは、死後も人間の意識が量子的に存在し続ける、という話ではありません。
現在の科学は、そのようなことを証明していません。
けれども少なくとも、物質的に考えれば、
「死=すべてが突然無になる」
というわけでもないのです。
そして人は、他者の中にも残っていく
さらに私は思います。
人間が残すものは、物質だけではありません。
母親からもらった優しさ。
父親から教えられた生き方。
恩師の言葉。
友人との思い出。
愛した人の笑顔。
一緒に歩いた道。
何気なく交わした会話。
それらは、その人がいなくなった後も、残された人の中に生き続けます。
「魂」と呼ばなくてもいい。
「量子もつれ」と説明しなくてもいい。
もっと単純な事実として、
人は、他者の中に自分の一部を残しながら生きている。
私はそう思うのです。
メメント・モリ――死を思うことは、今を生きること
そして、ここで私が最後にたどり着くのが、
「メメント・モリ(Memento mori)」
という言葉です。
「自分がいつか死ぬことを忘れるな」
という意味で知られる言葉です。
一見すると暗い言葉に見えます。
しかし私は、むしろこれは非常に前向きな言葉だと思っています。
なぜなら、
終わりがあることを知るからこそ、今が大切になる
からです。
もし私たちが永遠に生きるなら、
今日言えなかった「ありがとう」は、百年後でもいい。
今日伝えられなかった「愛している」は、千年後でもいい。
今日始められなかったことも、いつか始めればいい。
しかし、私たちには限られた時間しかありません。
しかも、その終わりがいつなのかを誰も知りません。
だからこそ、
会えるときに会う。
伝えられるときに伝える。
愛せるときに愛する。
学べるときに学ぶ。
誰かを助けられるときに手を差し伸べる。
それが大切なのだと思います。
「私」という奇跡的な秩序が存在している今
宇宙には、とてつもなく長い時間があります。
その中で私たち一人ひとりが生きている時間は、ほんの一瞬です。
けれども、その一瞬の中で、
私たちは出会い、
愛し、
学び、
傷つき、
迷い、
立ち上がり、
そして誰かに何かを残していきます。
私は物質です。
しかし、物質だけではありません。
私は生命という秩序です。
そして同時に、
記憶であり、
経験であり、
誰かから受け取った愛情であり、
誰かへ渡していく思いでもあります。
量子の世界には、不思議な「関係」があります。
生命には、無数の物質を一つの生命として維持する「秩序」があります。
そして人間には、人と人を結びつける「思い」があります。
この三つを科学的に同じものとして扱うことはできません。
しかし、そのすべてを眺めていると、私は一つのことを考えます。
この世界は、私たちが考えているほど単純に、
「私」と「あなた」
「ここ」と「そこ」
「生」と「死」
に切り分けられるものではないのかもしれない、と。
私たちは誰かから何かを受け取って「私」になり、
今度は自分の何かを誰かへ渡しながら生きています。
だから本当に大切なのは、
死んだ後に「私」がどこへ行くのかを考えることだけではありません。
むしろ、
「私」という生命がここに存在している、この限られた時間をどう生きるのか。
ということなのではないでしょうか。
誰を愛するのか。
誰に何を伝えるのか。
何を学ぶのか。
何を教えるのか。
そして、誰の心に何を残すのか。
桜が美しいのは、散るからなのかもしれません。
夕日が美しいのは、沈んでいくからなのかもしれません。
人生がこれほどかけがえのないものなのも、いつか終わりが来るからなのかもしれません。
今日会える人に、明日も必ず会えるとは限らない。
今日伝えられる言葉を、明日も伝えられるとは限らない。
だからこそ、人を愛する。
だからこそ、学ぶ。
だからこそ、誰かに何かを伝える。
そして、
だからこそ、今日を生きる。
メメント・モリ。
いつか終わることを忘れない。
それは死を恐れるための言葉ではありません。
今、この瞬間を大切に生きるための言葉なのだと、私は思います。
Sunday Special Blog
by Dr.Kazushige.O
一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事
聡生館&スプラウツ 代表