私たちは普段、「私」という存在について、それほど深く考えることなく生きています。

鏡に映っている自分。

昨日から続いている自分。

名前を持ち、記憶を持ち、誰かを愛し、誰かに愛され、さまざまな経験を積み重ねてきた自分。

それを当然のように「私」だと思っています。

しかし、少し立ち止まって考えてみると、

「私とは、いったい何なのだろう」

という問いは、実はとても不思議な問いです。

私はこの身体なのでしょうか。

それとも脳なのでしょうか。

記憶でしょうか。

意識でしょうか。

あるいは、身体を構成する無数の物質が、一時的につくり上げている「生命という秩序」なのでしょうか。

今日は少し壮大なテーマになります。

量子力学の「量子もつれ」から始まり、生命、意識、人と人との関係、そして最後には「死」についてまで考えてみたいと思います。

ただし、最初に大切なことを書いておきます。

私は、「人間の心は量子もつれでつながっている」と主張したいわけではありません。

まして、量子力学によって魂や死後の世界が証明された、と言いたいわけでもありません。

科学で分かっていることと、まだ分かっていないこと。

そして、その先にある哲学的な問い。

その境界線を大切にしながら考えてみたいのです。

量子の世界は、私たちの常識とは少し違っている

量子力学には「量子もつれ」と呼ばれる非常に興味深い現象があります。

二つの量子的な系が、個々に完全に独立した状態としてではなく、全体として一つの状態を持つような関係です。

これは私たちの日常感覚からすると、非常に奇妙に感じられます。

机の上の二つのリンゴなら、それぞれ別々のリンゴとして考えることができます。

ところが量子の世界では、物事を単純に「これはこれ」「あれはあれ」と切り離して説明できない場合があります。

ここに私は、とても興味を惹かれます。

もちろん、だからといって、

「人間同士も量子もつれで心がつながっている」

と結論づけることはできません。

そこには科学的な飛躍があります。

けれども量子力学は、私たちに一つの大切なことを教えてくれます。

それは、

「人間の日常的な常識が、自然界のすべてを説明できるとは限らない」

ということです。

そして、この視点から改めて人間を見たとき、私は一つの疑問を持ちます。

そもそも「私」は、本当に私一人だけで完結している存在なのでしょうか。

私の中には、無数の「他者」がいる

考えてみれば、現在の私は、自分一人でつくられたわけではありません。

私は母から生まれました。

父がいました。

多くの人に育てられました。

誰かに言葉を教えられ、

誰かに褒められ、

誰かに叱られ、

誰かに傷つけられ、

そして誰かに救われながら生きてきました。

恩師から教えられた一言が、自分の考え方の一部になっていることもあります。

愛した人との経験が、その後の人生観を変えることもあります。

何十年も前に誰かから言われた言葉を、今でも覚えていることさえあります。

そう考えると、

「私」

という存在は、実は私だけでできているわけではありません。

私の中には、これまで出会ってきた無数の人々がいるのです。

そして逆に、私がこれまで関わった人の中にも、おそらく私の何かが残っています。

「想念」はどこへ行くのだろう

私は以前から、「想念」というものに興味があります。

誰かを強く思う。

会いたいと思う。

心配する。

愛する。

亡くなった人を思い出す。

すると、ときどき不思議なことがあります。

ある人のことを考えていたら、その人から突然連絡が来た。

そんな経験をしたことがある人もいるでしょう。

けれども、それを直ちにテレパシーや量子力学で説明してはいけないと思います。

偶然かもしれません。

人間の記憶の性質によるものかもしれません。

心理学的に説明できる現象なのかもしれません。

科学者として物事を見るならば、証拠のないものを「証明された事実」のように語るべきではありません。

しかし同時に、

「まだ証明されていない」

という理由だけで、考えることまでやめる必要もないと私は思っています。

なぜなら人の「思い」は、少なくとも言葉や行動を通して他者へ伝わっていくからです。

教師の一言が、生徒の人生を変える。

親の何気ない言葉が、子どもの心に何十年も残る。

誰かから受けた優しさが、その人をさらに別の人へ優しくさせる。

愛した人が亡くなった後も、その人の言葉が自分の人生を支え続ける。

これは量子テレポーテーションではありません。

しかし、

「人間の中にあったものが、別の人間へ伝わり、その人の中で生き続ける」

ということは、確かにあります。

私は教育という仕事を長く続けてきました。

これまで多くの子どもたちと出会い、さまざまな言葉を伝えてきました。

私自身は忘れてしまっていても、もしかすると、ある生徒は私が何十年も前に話した一言を覚えているかもしれません。

もし、その一言がその人の生き方に少しでも影響しているなら、私が発した「思い」の一部は、その人の中で今も生きていることになります。

人は、そのようにして互いの中に何かを残しながら生きているのではないでしょうか。

生命とは「物質」なのか

ここで、もう一度「私」に戻ります。

人間の身体は物質でできています。

炭素、酸素、水素、窒素。

さまざまな元素が組み合わされ、細胞をつくり、組織をつくり、身体をつくっています。

しかし、それらの物質をただ集めただけでは「私」にはなりません。

大切なのは、それらがどのような関係を持ち、どのように生命活動を維持しているかということです。

心臓が動く。

肺が呼吸する。

血液が流れる。

細胞が代謝する。

神経細胞が電気的・化学的な信号をやり取りする。

私たちは外から食物や酸素を取り入れ、エネルギーを使い、熱や老廃物を外へ出しながら生きています。

生命とは、外界と物質やエネルギーを交換しながら、高度な秩序を維持している存在です。

そして不思議なのは、身体をどれだけ細かく調べても、

「ここに『私』があります」

という小さな物体が見つかるわけではないことです。

脳にも「私」という粒はありません。

心臓にもありません。

DNAそのものが「私」なのでもありません。

それでも私は、

考え、

喜び、

悲しみ、

人を愛し、

そして、

「私はここにいる」

と感じています。

だとしたら「私」とは、一つの物体というよりも、

物質とエネルギーと情報がつくり上げ、維持している一つの巨大な「秩序」

と考えることもできるのではないでしょうか。

私は「物」ではなく、「過程」なのかもしれない

川を考えてみると分かりやすいと思います。

多摩川を昨日流れていた水と、今日流れている水は違います。

水は絶えず入れ替わっています。

それでも私たちは、それを今日も「多摩川」と呼びます。

川とは、一つの固定された水の塊ではありません。

絶えず水が流れながら、それでも一つの形を保っている存在です。

人間も、どこか似ているのではないでしょうか。

身体では代謝が起こり続けています。

私たちは食べ、呼吸し、身体を構成する物質も変化していきます。

考え方も変化します。

経験も増えます。

それでも、

昨日の私。

十年前の私。

今日の私。

それらを私たちは一つにつなげて、

「私の人生」

と呼びます。

そう考えると、「私」は名詞というよりも、むしろ動詞に近い存在なのかもしれません。

私は完成した一つの「物」なのではなく、

今この瞬間も変わり続けている「過程」

なのです。

では「死」とは何なのだろう

この考えを進めていくと、どうしても「死」という問題にたどり着きます。

人間はいつか死にます。

生命活動は終わり、私たちが「私」と呼んできた生命の秩序も維持できなくなります。

しかし、身体を構成していた原子が、その瞬間にすべて消滅するわけではありません。

物質は形を変え、やがて自然界の循環へ戻っていきます。

以前の私は、

「死とは、生命を構成していた素粒子が解放されることではないか」

と考えたことがありました。

しかし、今はもう少し正確に、

「死とは、『私』という生命の秩序を維持していた関係が解かれていくこと」

と考えています。

一滴の水が海へ戻るように。

一本の木がやがて土へ還るように。

私を形づくっていた物質も、再び世界の循環へ戻っていく。

これは、死後も人間の意識が量子的に存在し続ける、という話ではありません。

現在の科学は、そのようなことを証明していません。

けれども少なくとも、物質的に考えれば、

「死=すべてが突然無になる」

というわけでもないのです。

そして人は、他者の中にも残っていく

さらに私は思います。

人間が残すものは、物質だけではありません。

母親からもらった優しさ。

父親から教えられた生き方。

恩師の言葉。

友人との思い出。

愛した人の笑顔。

一緒に歩いた道。

何気なく交わした会話。

それらは、その人がいなくなった後も、残された人の中に生き続けます。

「魂」と呼ばなくてもいい。

「量子もつれ」と説明しなくてもいい。

もっと単純な事実として、

人は、他者の中に自分の一部を残しながら生きている。

私はそう思うのです。

メメント・モリ――死を思うことは、今を生きること

そして、ここで私が最後にたどり着くのが、

「メメント・モリ(Memento mori)」

という言葉です。

「自分がいつか死ぬことを忘れるな」

という意味で知られる言葉です。

一見すると暗い言葉に見えます。

しかし私は、むしろこれは非常に前向きな言葉だと思っています。

なぜなら、

終わりがあることを知るからこそ、今が大切になる

からです。

もし私たちが永遠に生きるなら、

今日言えなかった「ありがとう」は、百年後でもいい。

今日伝えられなかった「愛している」は、千年後でもいい。

今日始められなかったことも、いつか始めればいい。

しかし、私たちには限られた時間しかありません。

しかも、その終わりがいつなのかを誰も知りません。

だからこそ、

会えるときに会う。

伝えられるときに伝える。

愛せるときに愛する。

学べるときに学ぶ。

誰かを助けられるときに手を差し伸べる。

それが大切なのだと思います。

「私」という奇跡的な秩序が存在している今

宇宙には、とてつもなく長い時間があります。

その中で私たち一人ひとりが生きている時間は、ほんの一瞬です。

けれども、その一瞬の中で、

私たちは出会い、

愛し、

学び、

傷つき、

迷い、

立ち上がり、

そして誰かに何かを残していきます。

私は物質です。

しかし、物質だけではありません。

私は生命という秩序です。

そして同時に、

記憶であり、

経験であり、

誰かから受け取った愛情であり、

誰かへ渡していく思いでもあります。

量子の世界には、不思議な「関係」があります。

生命には、無数の物質を一つの生命として維持する「秩序」があります。

そして人間には、人と人を結びつける「思い」があります。

この三つを科学的に同じものとして扱うことはできません。

しかし、そのすべてを眺めていると、私は一つのことを考えます。

この世界は、私たちが考えているほど単純に、

「私」と「あなた」

「ここ」と「そこ」

「生」と「死」

に切り分けられるものではないのかもしれない、と。

私たちは誰かから何かを受け取って「私」になり、

今度は自分の何かを誰かへ渡しながら生きています。

だから本当に大切なのは、

死んだ後に「私」がどこへ行くのかを考えることだけではありません。

むしろ、

「私」という生命がここに存在している、この限られた時間をどう生きるのか。

ということなのではないでしょうか。

誰を愛するのか。

誰に何を伝えるのか。

何を学ぶのか。

何を教えるのか。

そして、誰の心に何を残すのか。

桜が美しいのは、散るからなのかもしれません。

夕日が美しいのは、沈んでいくからなのかもしれません。

人生がこれほどかけがえのないものなのも、いつか終わりが来るからなのかもしれません。

今日会える人に、明日も必ず会えるとは限らない。

今日伝えられる言葉を、明日も伝えられるとは限らない。

だからこそ、人を愛する。

だからこそ、学ぶ。

だからこそ、誰かに何かを伝える。

そして、

だからこそ、今日を生きる。

メメント・モリ。

いつか終わることを忘れない。

それは死を恐れるための言葉ではありません。

今、この瞬間を大切に生きるための言葉なのだと、私は思います。

 

Sunday Special Blog

by Dr.Kazushige.O

一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事

聡生館&スプラウツ 代表

― 同じ言葉を聞いても、なぜ私たちは違う世界を感じるのか ―

最近、人と話していて、ふと思うことがあります。

「同じ言葉を使って話しているのに、本当に同じことを理解しているのだろうか」

ということです。

私たちは毎日、本当にたくさんの言葉を使っています。

家族と話すとき。
友人と話すとき。
仕事をするとき。
子どもと話すとき。

そして今では、LINEやメール、SNSなど、相手の顔を見ないまま文字だけで気持ちを伝えることも、とても多くなりました。

だからこそ、以前よりも「言葉」の重要性は増しているように思います。

ところが、その一方で、とても不思議なことがあります。

同じ言葉を聞いているはずなのに、人によって受け取り方が驚くほど違うのです。

なぜなのでしょう。

最近の私は、

「人は、言葉そのものを理解しているのではなく、自分がこれまで生きてきた人生を通して、その言葉を理解しているのではないか」

と思うようになりました。

今日は、そんな「言葉」と「人生」について少し考えてみたいと思います。

「頑張って」という言葉も、人によって違う

たとえば、

「頑張って」

という、とても身近な言葉があります。

励ますつもりで、私たちは何気なく使います。

しかし、この「頑張って」という言葉を聞いたとき、すべての人が同じように感じるでしょうか。

ある人は、

「よし、もう少し頑張ってみよう」

と勇気づけられるかもしれません。

ところが別の人は、

「私は、まだ頑張りが足りないのだろうか」

と感じるかもしれない。

ずっと周囲の期待に応えようとして無理をしてきた人なら、

「これ以上、どうやって頑張ればいいの?」

と苦しくなることだってあるでしょう。

同じ「頑張って」という言葉です。

話している側は、まったく同じ意味で使っています。

それなのに、受け取った人の心の中には、まったく違う世界が広がっている。

私は、この違いはとても大切なことだと思っています。

言葉には、その人の人生が重なっている

私たちは言葉を辞書の意味だけで理解しているわけではありません。

言葉を聞いた瞬間、自分の中に蓄積されている記憶や経験、感情、価値観と結びつけて理解しています。

「学校」

という言葉を聞いて、楽しかった友人との時間を思い出す人もいるでしょう。

一方で、学校へ行くことが苦しかった記憶を持つ人もいます。

「家族」という言葉に温かさを感じる人もいれば、複雑な気持ちになる人もいる。

「努力」という言葉に希望を感じる人もいれば、苦しさを感じる人もいる。

「成功」

「失敗」

「信頼」

「孤独」

「幸せ」

「愛」

こうした言葉になればなるほど、その違いはもっと大きくなります。

辞書に書かれている意味は一つでも、その言葉から見える風景は、人によって違うのです。

「幸せ」と聞いて、何を思い浮かべますか

少し考えてみてください。

「あなたにとって、幸せとは何でしょうか」

若いころの私は、今の私とは違う答えをしたかもしれません。

仕事で成功すること。

目標を達成すること。

自分の能力を発揮すること。

そうしたものも、もちろん幸せです。

けれど、人生を長く歩いていると、幸せという言葉の意味も少しずつ変わっていきます。

健康であること。

大切な人が元気でいること。

好きな人と食事ができること。

誰かと笑えること。

必要としてくれる人がいること。

そして、朝になっていつもの一日が始まること。

若いころには当たり前だったものが、実は決して当たり前ではなかったことに気づくようになります。

「幸せ」という言葉は何も変わっていません。

変わったのは、自分自身なのです。

人生が、その言葉の意味を少しずつ書き換えてきたのでしょう。

20歳の自分と、今の自分

昔読んだ本を何十年か経ってから読み返して、

「こんなことが書いてあったのか」

と驚いたことはありませんか。

文章そのものは変わっていません。

ところが、以前は何とも思わず読み過ごした一文が、何十年後かには妙に心に残ることがあります。

なぜでしょう。

それは、読む側の自分が変わったからです。

その間に、

人を好きになった。

誰かを信じた。

失敗した。

夢を持った。

夢が思い通りにならなかった。

仕事に打ち込んだ。

病気を経験した。

人との別れを経験した。

誰かに助けてもらった。

そして、ときには自分自身の弱さを知った。

そうした経験を通して、若いころには「知識」としてしかわからなかった言葉が、いつしか「実感を伴った言葉」へと変わっていきます。

これも、年齢を重ねることの一つの意味なのかもしれません。

知っている言葉が増えることだけが成長ではありません。

同じ言葉の中に、以前には見えなかったものが見えるようになる。

そう考えると、

人生とは、一つひとつの言葉の意味を深く知っていく時間でもあるのかもしれません。

「どうしてわかってくれないの?」と思ったとき

人間関係で難しいのは、ここからです。

私たちはつい、

「そんなこと、言わなくてもわかるでしょう」

「どうして私の気持ちをわかってくれないのだろう」

と思ってしまいます。

けれど、本当に相手には同じ意味で聞こえているのでしょうか。

たとえば、親が子どもに、

「あなたのためを思って言っているのよ」

と言ったとします。

親にとっては、もちろん愛情です。

しかし子どもには、

「今の自分では駄目だと言われている」

と聞こえているかもしれません。

先生が生徒に、

「もっと頑張ればできるよ」

と言ったとします。

先生としては、

「君にはまだ力がある」

「君ならできる」

と励ましているつもりです。

ところが、今まで何度も努力して、何度も失敗してきた子どもには、

「これまでの努力は認めてもらえていない」

と聞こえてしまうことがあります。

どちらが正しい、間違っている、という問題ではありません。

言葉を受け止める「心の風景」が違うのです。

30年以上、子どもたちを見てきて思うこと

私は研究の世界から教育の世界へ進み、30年以上、さまざまな子どもたちと関わってきました。

そこで何度も感じてきたことがあります。

同じことを説明しても、子どもによって理解の仕方が違います。

当然、基礎学力や知識量の違いはあります。

しかし、それだけでは説明できません。

私は時々、

「この子は理解していないのではなく、この子なりの理解をしているのではないか」

と思うことがあります。

それまで、どんな経験をしてきたのか。

失敗したときに、どんな言葉をかけられてきたのか。

自分自身を「できる」と思っているのか。

それとも、

「どうせ自分には無理だ」

と思っているのか。

そんな一つひとつの経験が、新しい言葉を受け取るときの土台になります。

だから私は、教育で大切なのは、

「私はきちんと説明した」

で終わることではないと思っています。

その先の、

「この子には、どのように伝わったのだろう」

まで考える。

ここが、とても大切なのではないでしょうか。

そしてこれは、教育だけの話ではありません。

親子でも、夫婦でも、恋人でも、友人でも同じだと思います。

「愛」という言葉の意味も、人によって違う

そのことが最もよく表れるのは、

「愛」

という言葉かもしれません。

愛するとは、何でしょう。

そばにいることなのでしょうか。

相手を守ることなのでしょうか。

信じることでしょうか。

何かをしてあげることでしょうか。

それとも相手の自由を尊重することでしょうか。

時には何も言わず、ただ見守ることでしょうか。

おそらく、その答えも人によって違います。

どのように愛されてきたのか。

どのように人を愛してきたのか。

どんな出会いを経験したのか。

どんな別れを経験したのか。

そのすべてが「愛」という一つの言葉の中に重なっているからです。

だからこそ、

「愛している」

という短い言葉の後ろには、その人が生きてきた何十年もの時間があるのかもしれません。

人を理解するとは、その人の人生を想像すること

では、人と人は本当にわかり合えるのでしょうか。

私は、相手を100%理解することは、おそらくできないと思っています。

どれほど大切な人でも、その人の人生を代わりに生きることはできません。

しかし、理解しようと近づくことはできます。

そのために大切なのが、

「なぜ、この人にはこう聞こえたのだろう」

と考えてみることではないでしょうか。

自分の正しさを主張する前に、

「この言葉を、この人はどんな人生経験を通して聞いているのだろう」

と、一度立ち止まってみる。

すると、それまで見えなかったものが見えてくるかもしれません。

強く反発する人には、過去に傷ついた経験があるのかもしれない。

何気ない一言で涙を流した人には、誰にも話していない大切な記憶があるのかもしれない。

一歩を踏み出せない子どもには、私たちの知らない失敗体験があるのかもしれない。

人を理解するということは、

その人の言葉の背後にある人生を想像すること。

私はそう思っています。

AI時代だからこそ、大切になるもの

これからAIは、ますます私たちの日常に入ってきます。

文章を作ること。

情報を整理すること。

難しい内容をわかりやすく説明すること。

こうしたことをAIは驚くほど上手にできるようになりました。

だからこそ、これからの人間にとって、より大切になるものがあるのではないでしょうか。

それは、

「その言葉が、その人にとって何を意味しているのか」

を想像する力です。

単に言葉の意味を理解するだけではありません。

その言葉に重なっている記憶や感情、経験まで想像する。

私は、そこに人と人とのコミュニケーションの本質があるように思います。

言葉の向こう側には、一人の人生がある

人はみんな、違う人生を歩いています。

育った家庭も違います。

出会った人も違います。

成功した経験も違います。

失敗した経験も違います。

愛した人も違います。

失ったものも違います。

だから、

同じ言葉を聞いても、同じようには感じません。

けれど、それは人間同士がわかり合えないということではないと思います。

むしろ、

「違って聞こえているかもしれない」

と気づくところから、本当のコミュニケーションは始まるのではないでしょうか。

「どうして、わかってくれないの?」

ではなく、

「あなたには、どう聞こえましたか?」

「私はこういう意味で言った」

だけではなく、

「あなたは、どう感じましたか?」

と尋ねてみる。

ほんの小さな違いです。

でも、その小さな違いが、人と人との距離を大きく変えることがあります。

そして、自分自身についても同じです。

昔はわからなかった言葉が、今になってわかる。

昔は何気なく使っていた言葉を、今では簡単には使えなくなる。

それは、私たちが年齢を重ね、臆病になったからではないでしょう。

むしろ、その言葉の向こう側にあるものを、人生を通して知ってきたからなのだと思います。

「幸せ」

「努力」

「家族」

「信頼」

「孤独」

「別れ」

「愛」

そして、

「生きる」。

こうした言葉の本当の意味を、私たちはいつ知るのでしょう。

もしかすると、一生をかけても完全な答えは出ないのかもしれません。

それでも私たちは、生きながら、

人と出会い、

喜び、

傷つき、

失い、

誰かを愛し、

誰かに愛されながら、

一つひとつの言葉に、自分だけの意味を与えていきます。

だからこそ、人と話すときには、その人が口にした言葉だけを見るのではなく、

「その言葉の向こう側」

を少し想像してみたいと思います。

そこには、その人にしか歩いてこられなかった人生があります。

そして、私の言葉を受け取っている相手にもまた、私とは違う人生があります。

そのことを忘れないこと。

それが「人を理解する」ということの、本当の始まりなのかもしれません。

最後に、もう一度。

人は、言葉を理解しているのではない。
自分の人生を通して、言葉を理解している。

だから、人と人とが本当にわかり合おうとするときに大切なのは、

同じ言葉を使うことだけではありません。

その言葉の向こう側にある、相手の人生を想像しようとすること。

そんな小さな想像力を、私はこれからも大切にしていきたいと思います。

 

 Dr.Kazushige.O

 一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事

 聡生館&スプラウツ 代表

 

私たちは日常の中で、「分かった」という言葉を何気なく使っています。

授業で先生の説明を聞いたとき、本を読んだとき、誰かに教えてもらったとき。「なるほど、分かった」と感じる瞬間があります。

しかし、その「分かる」とは、一体どのような状態なのでしょうか。

教育の現場に長く携わっていると、不思議な光景を何度も目にします。

同じ教室で、同じ先生が、同じ内容を説明しているにもかかわらず、すぐに理解できる生徒もいれば、何度説明しても理解できない生徒もいます。

そしてさらに不思議なことに、当時はまったく理解できなかった内容を、一年後や二年後になると、「先生、やっと分かりました。」と笑顔で話してくれる生徒が少なくありません。

もし理解とは単なる「頭の良さ」だけで決まるのであれば、このようなことは起こらないはずです。

私は長年、この疑問を考え続けてきました。

そして近年の脳科学や認知心理学の研究を学ぶ中で、「理解」というものの本質が少しずつ見えてきたように思います。

実は、「理解する」とは、新しい知識を増やすことではありません。

自分の中にある知識と、新しい知識が結び付くことなのです。

例えば、小学生の頃には難しく感じた歴史や数学も、中学生、高校生になると自然に理解できることがあります。

それは脳の能力が突然高くなったからではなく、それまでに学んできた知識や経験が積み重なり、新しい知識を受け入れる土台ができたからです。

つまり、理解とは「点」が増えることではなく、「点」と「点」が線でつながることなのです。

この考え方は、現在の認知心理学でも広く支持されています。

脳は、新しい情報を何もない場所へ保存しているわけではありません。

すでに持っている知識や経験との関連を探し、それらを結び付けながら記憶を整理しています。

だからこそ、基礎がしっかりしている子ほど、新しいことを早く理解できるのです。

一方で、基礎が十分でない状態では、新しい説明を聞いても、つながる場所がありません。

その結果、「分からない」という状態になってしまうのです。

ここで誤解してはいけないことがあります。

「分からない子」は、能力が低い子ではありません。

まだ知識を結び付けるための土台が完成していないだけなのです。

この視点に立つと、教師の役割も大きく変わってきます。

教師は知識を一方的に教える人ではなく、生徒一人ひとりの中にある知識を見つけ、それらを結び付ける手助けをする存在なのです。

では、なぜ同じ授業でも理解できる子とできない子が生まれるのでしょうか。

その違いを説明するために、近年の脳科学では「ワーキングメモリ」という働きが注目されています。

ワーキングメモリとは、一時的に情報を保持しながら考えるための脳の作業机のようなものです。

先生の説明を聞き、黒板を見て、ノートを書きながら考えるという一連の学習は、すべてこのワーキングメモリを使っています。

しかし、その容量には個人差があります。

さらに、その日の体調や睡眠不足、緊張や不安によっても働きは大きく変化します。

つまり、「今日は理解できない」という日があるのは決して珍しいことではありません。

また、一度に多くの情報を詰め込み過ぎると、脳は情報を整理しきれず混乱してしまいます。

これを認知心理学では「認知負荷」と呼びます。

教師が一方的に説明を続けるだけでは、生徒の脳は処理能力を超えてしまい、理解どころか記憶にも残らなくなってしまうのです。

だからこそ、本当に良い授業とは、「たくさん教える授業」ではありません。

生徒が考える時間をつくり、知識同士を結び付けられる授業なのです。

 

しかし、理解とは単に授業を受けるだけで生まれるものではありません。

近年の教育心理学では、「人は、自分の力で思い出そうとしたときに最も学ぶ」ということが分かってきました。

授業を聞いて満足するのではなく、自分の頭で考え、思い出し、説明しようとする過程こそが、本当の理解を育てます。

例えば、「今日習ったことを家族に説明してみる」「問題集を解きながら理由を言葉にしてみる」といった学習は、脳の中に新しい知識のネットワークを作り上げていきます。

また、「なぜ間違えたのか」を自分で振り返ることも非常に大切です。

このように、自分の考え方を客観的に見つめ直す力を「メタ認知」といいます。

成績が伸びる生徒には、この力が備わっていることが少なくありません。

できる子は、特別な才能を持っているからできるのではありません。

「どこでつまずいたのか」「次はどうすれば理解できるのか」を考えながら学習しているのです。

そして、もう一つ忘れてはならないことがあります。

それは「睡眠」です。

学んだことは、その日の睡眠中に脳の中で整理され、長期記憶へと定着していきます。

夜遅くまで無理をして勉強するよりも、集中して学び、十分な睡眠を取る方が、結果として理解は深まります。

私はこれまで数多くの子どもたちを指導してきました。

最初は「私は頭が悪いから無理です」と話していた子が、数か月後には笑顔で問題を解いている姿を何度も見てきました。

その変化を見ていると、「理解できない子」という子はいないのではないかと思うのです。

いるのは、「まだ理解できる方法に出会っていない子」だけなのです。

教師の仕事は、知識を詰め込むことではありません。

一人ひとりの中に眠っている可能性を信じ、その子に合った「理解への入り口」を一緒に探すことです。

その入り口は、ある子には図かもしれませんし、別の子には会話や体験、あるいは失敗の経験かもしれません。

だから教育には、マニュアルだけでは語れない奥深さがあります。

私自身、若い頃は東京大学で高分子化学の研究をしていました。

研究では、複雑な現象を理解するために、何度も仮説を立て、実験を繰り返します。

一度で答えが見つかることはほとんどありません。

しかし、ある日、それまでバラバラだったデータが一本の線で結ばれ、「そういうことだったのか」と理解できる瞬間があります。

教育もまったく同じだと感じています。

子どもたちの頭の中でも、知識や経験が少しずつ積み重なり、ある瞬間にすべてがつながります。

その瞬間に見せてくれる「先生、分かった!」という笑顔こそ、教育者にとって何よりの喜びです。

だから私は、子どもたちを急がせることよりも、一人ひとりの理解のペースを大切にしたいと思っています。

理解には個人差があります。

花が咲く季節が違うように、理解にもその子だけのタイミングがあります。

教育とは、その時を信じて待ち、支え続ける営みなのだと思います。

理解とは、知識が増えることではありません。

理解とは、自分の中に新しい世界の見え方が生まれることです。

そして教師とは、その世界へ続く扉を、子どもたちと一緒に探し続ける伴走者なのです。

 

Dr.Kazushige.O

一般社団法人自在能力開発研究所

聡生館&スプラウツ 代表 

 

 

前編では、「勉強には相性がある」という私の考えをお話ししました。

そして、偏差値や成績だけでは、その子の価値は決まらないということもお伝えしました。

では、本当に人生を支えるものとは何なのでしょうか。

私は、その答えは「どう生きるか」という姿勢にあると思っています。


実は、この考えは私自身の人生経験から生まれたものです。

若い頃の私は、研究者として大学や企業で研究に携わっていました。

新しい技術を生み出すことに喜びを感じ、研究成果を積み重ねることが、自分の人生そのものだと思っていました。

ところが、人生は思い描いた通りには進みません。

体調を崩し、研究の第一線を離れざるを得なくなったのです。

当時は、本当に悔しい思いをしました。

「これまで積み重ねてきたものは何だったのだろう。」

そんな気持ちになったこともあります。

しかし、今振り返ると、その出来事が私の人生を大きく変えてくれました。

教育の世界に入り、子どもたちと向き合うようになってから、私は研究室では決して学べなかったことを数え切れないほど教えてもらいました。

勉強が苦手でも、人を思いやることのできる子。

学校には行けなくても、驚くほど豊かな感性を持っている子。

失敗を繰り返しながらも、少しずつ前へ進もうと努力する子。

そんな子どもたちと出会うたびに、「人の価値とは何か」という問いを何度も考えるようになりました。

そして、今でははっきりと言えることがあります。

人生で本当に大切なのは、「何を持っているか」ではなく、「どのように生きるか」だということです。


私は、生徒たちに「勉強を頑張りなさい」と言います。

しかし、それ以上に伝えたいことがあります。

それは、「昨日の自分より少しでも成長しよう」ということです。

他人と比べる必要はありません。

比べる相手は、昨日までの自分です。

今日は昨日より少しだけ長く机に向かえた。

苦手だった問題が一問解けた。

挨拶がきちんとできた。

人の話を最後まで聞くことができた。

そうした小さな積み重ねが、やがて大きな自信になっていきます。

成長とは、誰かに勝つことではありません。

昨日の自分を少しずつ超えていくことなのです。


私は最近、「メメント・モリ」という言葉をよく考えます。

ラテン語で「死を忘れるな」という意味ですが、決して暗い言葉ではありません。

人は誰でも限られた時間の中で生きています。

だからこそ、一日一日を大切にしようという教えです。

もし人生が永遠に続くのであれば、「また明日頑張ればいい」と思ってしまうかもしれません。

しかし、人生には限りがあります。

だから今日という日は、とても貴重なのです。

子どもたちにも、保護者の皆様にも、そして私自身にも、この言葉を忘れないようにしたいと思っています。

今日という一日は、二度と戻ってきません。

だからこそ、今日できることを精一杯やる。

それが、人生を豊かにしていく一番の方法なのではないでしょうか。


教育とは、偏差値を上げることだけではありません。

志望校に合格することだけでもありません。

もちろん、それらは大切な目標です。

私も塾の先生として、生徒一人ひとりの目標達成に全力を尽くしています。

しかし、その先にある人生まで考えたとき、本当に育てたいものがあります。

それは、自分を信じる力です。

困難があっても立ち上がる力です。

人を思いやる優しさです。

そして、自分の人生を、自分らしく歩んでいく力です。

私は、それこそが教育の本当の目的だと思っています。


保護者の皆様へ。

もし、お子様の成績が思うように伸びず、不安になることがあったとしても、どうか忘れないでください。

その子の価値は、テストの点数だけでは決まりません。

偏差値だけでも決まりません。

子どもたちは、それぞれ違う花を咲かせます。

咲く時期も違えば、花の色も違います。

早く咲く花もあれば、ゆっくり時間をかけて大きく育つ花もあります。

大切なのは、ほかの花と比べることではなく、その子らしい花を咲かせることです。

私はこれからも、一人ひとりの可能性を信じ、その子に合った学び方を一緒に探し続けていきたいと思います。

人生に偏差値はありません。

だからこそ、自分だけの人生を、自分らしく歩んでほしい。

いつの日か、生徒たちが大人になったとき、

「自分の人生で本当によかった。」

そう胸を張って言えるような人生を歩んでくれることが、教育者としての私の何よりの願いです。

 

Dr.Kazushige.O

一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事

聡生館&スプラウツ 代表

 

一般社団法人自在能力開発研究所

「先生、うちの子は勉強に向いていないのでしょうか。」

教育の仕事をしていると、この質問を本当によくいただきます。

保護者の皆様にとって、お子様の将来は何よりも大切です。だからこそ、成績が伸び悩んだり、勉強を嫌がったりすると、不安になるのは当然のことだと思います。

そんな時、私はいつも一つの言葉をお伝えしています。

「勉強には、相性があります。」

少し変わった言い方かもしれません。しかし、三十年以上子どもたちと向き合ってきた私が、最も実感していることでもあります。

同じ先生に教わっても、同じ教材を使っても、同じ時間だけ勉強しても、ぐんぐん伸びる子がいます。一方で、努力を重ねてもなかなか結果が出ず、勉強そのものを苦痛に感じてしまう子もいます。

私は、それを「努力が足りない」とは考えていません。

人にはそれぞれ得意なこと、苦手なことがあります。

スポーツが好きな子もいれば、音楽に夢中になる子もいます。絵を描くことが好きな子、機械を触ることが好きな子、人と話すことが得意な子もいます。

勉強も、その一つなのです。

もちろん、「勉強が苦手だから勉強しなくていい」と言いたいわけではありません。

社会で生きていくためには、読み書きや計算、考える力は必要です。だから私は塾で、一人ひとりに合わせて真剣に勉強を教えています。

しかし、それ以上に大切だと思っていることがあります。

それは、勉強が苦手だからといって、その子の価値まで否定してはいけないということです。


私は個別指導塾を運営しています。

ですから、「偏差値を上げること」「志望校に合格すること」は、とても大切な目標です。

生徒たちには、一点でも多く点数を取ってほしいと思っていますし、第一志望に合格したときには、自分のことのようにうれしく感じます。

しかし、長年教育に携わる中で、私はあることに気付きました。

偏差値が高いことと、幸せな人生を送ることは、決して同じではないということです。

学生時代は成績優秀だった人が、社会に出て悩み続けることもあります。

反対に、勉強では苦労した人が、多くの人から信頼され、充実した人生を歩んでいることもあります。

社会では、テストの点数よりも大切にされるものがたくさんあります。

約束を守ること。

誠実であること。

人の話をしっかり聞けること。

困っている人に手を差し伸べられること。

最後まで責任を持って仕事をやり遂げること。

そうした姿勢が、人から信頼される人をつくっていきます。

私は卒業生から、

「先生、会社では偏差値よりも、人柄の方が大切でした。」

という話を何度も聞いてきました。

そのたびに、「やはりそうなのだ」と感じます。


私は、教育とは「人を育てること」だと思っています。

決して、「点数だけを育てること」ではありません。

もちろん、成績は大切です。

受験も大切です。

進学も大切です。

しかし、それらは人生という長い道のりの中の一つの通過点に過ぎません。

本当の人生は、その先もずっと続いていきます。

だから私は、生徒たちにもよくこう話します。

「受験は人生の一部だけれど、人生そのものではないよ。」

この言葉を伝えるのは、勉強を軽く考えているからではありません。

勉強に一生懸命取り組むからこそ、その先にあるもっと大切なものを忘れてほしくないのです。


私はこれまで、発達特性のあるお子さんや、不登校で悩む子どもたちとも数多く接してきました。

教室では落ち着いて座っていられない子が、ロボット製作では何時間でも集中する。

学校では自信を失っていた子が、自分の好きな分野に出会った瞬間、目を輝かせる。

そんな姿を何度も見てきました。

そのたびに思うのです。

人には、それぞれ輝く場所がある。

教育とは、その場所を見つけるお手伝いをすることなのではないか、と。

勉強は人生を豊かにする大切な道具です。

しかし、人生そのものではありません。

では、本当に人生を支えるものとは何なのでしょうか。

私は、その答えを長い年月をかけて考え続けてきました。

その中でたどり着いた一つの考えがあります。

それは、「どう生きるか」という姿勢こそが、人の人生を決めるのではないかということです。

そのことについて、後編で、もう少しお話ししたいと思います。

 

by  Dr.Kazushige.O 

一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事

聡生館&スプラウツ 代表