スプラウツに通ってきてくれる生徒さんの中には、
よく似た共通点を持っている子が少なくありません。

それは、
カバンの中が整理されていない
プリントがぐしゃぐしゃになっている
自分の机の上に、何がどこにあるのか分からない
という状態です。

時には、
「このプリント、どこにある?」と聞いても
本人も首をかしげてしまうことがあります。

こうした様子を見ると、
大人はついこんな言葉をかけたくなってしまいます。

「ちゃんと整理しなさい」
「だらしないよ」
「勉強する前に、まず片づけでしょ」

ですが、
スプラウツの現場で子どもたちと関わり続けていると、
それは原因ではなく、結果である
ということが、はっきりと見えてきます。


散らかりは「怠け」ではありません

整理ができていない状態を見ると、
「性格の問題なのでは」
「やる気がないのでは」
と思われがちです。

しかし、実際にはその逆であることがとても多い。

心が疲れていると、人は整理ができなくなる
のです。

心に余裕がないとき、
人は

  • 目の前の情報を処理する力

  • 先を見通す力

  • 一つ一つを整えるエネルギー

を失っていきます。

片づけとは、
実はとても高度な行為です。

「これはどこに置くか」
「これは必要か不要か」
「今使うものか、後で使うものか」

こうした判断を、
心が疲れている状態で行うのは、
大人でも簡単なことではありません。


整理できないのは「能力」ではなく「状態」

スプラウツに通う生徒さんの多くは、
決して能力が低いわけではありません。

むしろ、
感受性が高かったり
周囲の刺激を強く受け取ってしまったり
とても繊細なアンテナを持っている子が多い。

そうした子どもたちは、
日常生活の中で
人一倍、心のエネルギーを消耗しています。

学校
人間関係
集団の空気
音や視線

それだけで、
心がいっぱいになってしまうこともある。

その状態で
「整理まで頑張ろう」と言われても、
それは酷な話なのです。


いきなり「自分の部屋を片づけよう」は難しい

ご家庭でよくあるやりとりがあります。

「まずは自分の部屋を片づけよう」
「自分のことなんだから、自分でやりなさい」

もちろん、
自立という意味では正しい方向です。

ですが、
心が疲れている子にとっては、
いきなりの“自室整理”はハードルが高すぎる

ことが多い。

なぜなら、
自分の部屋は

  • 一番物が多く

  • 一番感情が詰まっていて

  • 一番「できていない自分」を突きつけられる場所
    だからです。


順番を変えてみませんか

そこで、
スプラウツとしてよくお伝えしているのが、
順番を変える という考え方です。

最初に整えるのは、
子どもの部屋ではありません。

家の中の共有空間 です。

リビング
ダイニング
玄関
廊下

どこでも構いません。

「ここに来ると、なんだか落ち着く」
「探し物をしなくて済む」
「余計な刺激が少ない」

そんな場所を、
家の中にいくつか用意してあげてください。

環境は、言葉よりも先に心に届く

 

人は、
言葉よりも先に
空気 を感じ取っています。

整った空間
静かな配置
視界に余計なものが入らない状態

それだけで、
心は少しずつ緩んでいきます。

「ここでは、急がなくていい」
「ここでは、間違えてもいい」
「ここでは、安心していい」

環境は、
そうしたメッセージを
言葉を使わずに伝えてくれます。


快適さを“体感”すると、行動は自然に変わる

人は、
正論で動くのではありません。

「こうした方がいい」
「こうするべきだ」

そう言われて動けるのは、
心に余裕があるときだけです。

一方で、
快適さを体で知った人は、自然に真似をします。

整ったリビングで過ごす時間が増える

「探さなくていいって楽だな」

「この状態、いいな」

自分の机にも目が向き始める

こうした変化は、
注意や叱責では起きません。

体感からしか生まれない変化 です。


物を探す時間は、心を削る時間

「どこに置いたっけ」
「さっきあったはずなのに」

物を探す時間は、
思っている以上に
心とエネルギーを消耗させます。

特に、
不安を抱えやすい子どもにとっては、
探し物が見つからない時間そのものが
ストレスになります。

整理とは、
几帳面さの問題ではありません。

心を守るための工夫 なのです。


整理は「心を整える練習」

環境が整う

心が落ち着く

思考が静まる

勉強や活動に向かいやすくなる

この流れは、
多くの生徒さんで共通しています。

整理ができるようになると、
それは
「できるようになった」という成功体験
にもなります。

自分は
整えていい存在なんだ
安心していい存在なんだ

そんな感覚が、
少しずつ心に根づいていきます。


ご家族と一緒につくる「整った空気」

最後にお伝えしたいのは、
これは
子どもだけの課題ではない
ということです。

ご家族がつくる空気
ご家族が過ごす空間
その影響は、とても大きい。

「片づけなさい」と言う前に、
まずは
一緒に整った空気をつくる

それが、
最もやさしく、
最も効果的な支援になることがあります。


おわりに

心を元気にするために、
特別なことをしなくてもいい。

まずは、
探さなくていい場所
落ち着ける場所
を、家の中につくること。

その積み重ねが、
やがて
自分の空間
自分の持ち物
自分の心
を整える力へとつながっていきます。

環境を整えることは、
心を大切にすること。

スプラウツは、
そんな視点からも
子どもたちを支えていきたいと考えています。


🌱
by Dr.Kazushige.O
(一般社団法人 自在能力開発研究所 代表理事

 聡生館/Sprouts フリースクール代表)

はじめに|「続かない」ことに、親が疲れてしまう

「やるって言ったのに、また続かなかった」
「最初の二日だけはやったのに、三日目にはゼロ」
「もう声をかけるのもしんどい」

保護者の方から、この種の言葉を聞くたびに思うのです。
これは子どもの問題というより、むしろ家庭の中で、親子の“疲労”が蓄積しているサインなのだと。

勉強が続かない。
約束が守れない。
決めたことができない。

そのたびに親は悩みます。

「意志が弱いのでしょうか」
「やる気がないのでしょうか」
「甘やかしすぎたのでしょうか」

そして、本人もまた心のどこかで傷ついています。

「またできなかった」
「自分はダメなんだ」
「どうせ言っても信じてもらえない」

こうして、家庭の中に「続かない空気」が定着していく。
本当は、誰も悪くないのに。

今日は、ここを“脳科学の視点”から、できるだけ丁寧に解きほぐしてみます。

結論から言ってしまうと、
多くの場合「続かない」は、性格や根性ではなく、次のような要因で起きています。

・脳のエネルギー配分が崩れている
・行動の設計が大きすぎる
・不安や評価への恐れが行動を止めている
・「始める」と「続ける」が別スキルだと理解されていない
・環境の“摩擦”が大きすぎる
・報酬の仕組みが勉強に合っていない

そして重要なのは、
この仕組みを理解すれば、特性のある子ほど改善しやすいということです。


第1章|勉強は続かないのに、ゲームは続く。なぜ?

多くの家庭で、同じ光景が起きます。

勉強は三日と続かない。
でも、ゲームは何時間でも続けられる。

これは「甘え」ではありません。
むしろ、ここに答えがあります。

ゲームが続く理由は、ざっくり言うと次の通りです。

1)始めるハードルが低い
2)やることが明確で迷いが少ない
3)短い時間で達成感が得られる
4)結果がすぐに返ってくる(フィードバックが速い)
5)失敗しても“やり直し”が簡単
6)評価が他者ではなく、自分の中で完結しやすい

この条件が揃うと、脳は動きます。
逆に言うと、勉強が続かない子の多くは、勉強の側にこの条件が揃っていないのです。

勉強はどうしても、

・何をやればいいか曖昧
・どこまでやれば終わりか分からない
・成果がすぐ見えない
・間違えると自己否定が強くなる
・“評価される不安”が乗ってくる

こうなりやすい。

つまり、続かない子の問題ではなく、
勉強という活動が“続きにくい設計”になっている面が大きいのです。


第2章|「続ける力」は根性ではなく、“実行機能”の問題

脳科学の言葉で言うと、
「決めたことをやり遂げる力」は、主に“実行機能”という能力群に関わります。

実行機能には、例えば以下が含まれます。

・計画する
・優先順位をつける
・やるべきことを選び取る
・気が散るものを抑える
・途中で投げ出したくなる衝動を抑える
・終わりまで粘る
・失敗したときに立て直す

これは、気持ちだけではどうにもならないことが多い。
「分かってるのにできない」状態は、まさに実行機能がうまく働いていないときに起きます。

ここで大切なのは、
実行機能は「年齢とともに自動で伸びるものではあるけれど、個人差が大きい」という事実です。

小学校中学年〜高学年になると、周りの子は自然にできるようになっていく。
でも、本人は追いつかない。

すると、親から見ればこう感じてしまう。

「なんでこんな簡単なことができないの?」
「周りはできているのに」

しかし本人の側からすると、
「できない」のではなく、
「できる形がまだ脳に組み込まれていない」だけかもしれません。


第3章|「始める」と「続ける」は、実は別物

もう一つ、とても大事な視点があります。

行動には、

・始める
・続ける
・終わらせる

という段階があります。

そして、勉強が続かない子は、
“続ける”以前に、そもそも“始める”段階で大量のエネルギーを消費していることが多いのです。

勉強を始めるまでに必要なことを思い出してみてください。

・机に行く
・椅子に座る
・筆箱を出す
・教材を出す
・どれからやるか決める
・ページを開く
・今日の目標を決める
・わからない不安を抑える

大人は当たり前に見えますが、
実行機能が弱い子にとっては、これだけで“山登り”です。

親が「勉強しなさい」と言った瞬間、
本人の頭の中では、すでに疲れていることがあります。

そして、始められない。
始められない自分が嫌になる。
嫌になるからますます避ける。

このループが起きると、
本人の行動は止まります。


第4章|「三日坊主」が起きる、典型的なパターン

三日坊主で終わるときのパターンには、いくつか典型があります。
ここを理解すると、親子のストレスが少し軽くなります。

パターンA:初日だけ“理想の自分”で走ってしまう

初日はやる。
2日目もなんとかやる。
3日目で崩れる。

これは「怠け」ではなく、
初日に“出力を上げすぎた”だけです。

脳は、急激な変化が苦手です。
急に生活を変えると、反動が来ます。

パターンB:成果が見えず、不安が勝つ

勉強は成果が遅れて出ます。
でも子どもは「今すぐの手応え」を欲しがります。

手応えがないと、脳は「意味がない」と判断しやすい。
すると続かない。

パターンC:間違えた瞬間に自己否定が爆発する

特性のある子に多いです。

間違える
→ 自分はダメだ
→ もうやりたくない
→ 逃げる

ここで必要なのは、根性ではなく、
失敗しても戻れる“設計”です。

パターンD:親の声かけが“監視”に見えてしまう

親は応援のつもり。
でも子どもには、評価・監視に聞こえる。

すると勉強は「自分の行為」ではなく「親の行為」になります。
主体性が失われると、続きません。


第5章|脳は「不安」に弱い。前頭前野は黙って止まる

ここで脳科学的に重要なポイントを。

勉強を支えるのは、前頭前野です。
しかし前頭前野は、

・不安
・緊張
・恐れ
・怒られる予測
・失敗の予測

が強いと、働きが落ちます。

これは本人の意志では止められないことがあります。

よくある場面です。

親が「今日は勉強したの?」と聞く
→ 本人は責められた気持ちになる
→ 反射的に言い訳する
→ その後、勉強がさらにできなくなる

このとき起きているのは、
“やる気がない”というより、
脳が防御モードに入っている状態です。

防御モードになると、
前頭前野よりも、感情系の反応が優位になります。
すると、

・逃げる
・怒る
・ふてくされる
・黙る

という反応が出やすい。

つまり、三日坊主の背後には、
「不安の蓄積」が隠れていることが多いのです。


第6章|「他力」は悪ではない。ただし“設計”が必要

ここで、ユーザーさんが書かれていた点がとても重要です。

他力を頼れば続く場合がある。
しかし小学校中学年以上になると、他力をいつも頼れない。

まさにその通りです。

ただ、ここで誤解してほしくないのは、
他力は“悪”ではありません。

むしろ脳の発達の観点から言えば、
他力を上手に使う子ほど、最終的に自力が育ちやすいこともあります。

ポイントは、他力を「監視」ではなく「環境の設計」として使うことです。

例えば、

・同じ時間に一緒に机に向かう(親も本を読む)
・タイマーだけ共有する(会話しない)
・最初の5分だけ隣にいる
・プリントを“出しておく”だけやってあげる

これは、依存させるためではなく、
“始める摩擦”を減らすための支援です。

始められるようになると、
続けられる確率が上がります。


第7章|「続けられる子」は、才能ではなく“仕組み”を持っている

続けられる子は、性格が強いのではありません。
続く仕組みを(意識的にせよ無意識にせよ)持っています。

例えば、

・終わりが見える
・やることが小さい
・次にやることが決まっている
・成果が可視化される
・失敗しても戻れる
・環境に余計な誘惑が少ない
・親との会話が評価ではない

これらが揃うと、
実行機能が弱い子でも驚くほど変わります。


第8章|特性のある子でも、続く可能性は十分ある

特性のあるお子さんは、
“気合”で乗り切ることが苦手な場合があります。

だからこそ、
仕組みが合えば伸びます。

特性のある子の強みは、
「ハマれば強い」ことです。

ゲームが続く。
工作が続く。
好きなテーマならいくらでも調べる。

この「ハマり」を、
勉強側にどう移植するか。

ここが支援の本質です。

例えば、

・好きな科目から始めて流れを作る
・1問だけ解く(ゼロ→1を作る)
・書く量を減らして口頭で確認する
・間違い直しを“作業化”する
・成果は点数ではなく「続いた日数」で褒める

このように「評価」を変えるだけでも、
行動は変わります。


第9章|親ができる「声かけ」のコツ(脳を止めない)

最後に、家庭でできることを整理します。
特性の有無に関係なく有効です。

1)「やった?」ではなく「どこまでやる?」

“やったかどうか”は評価になります。
“どこまでやるか”は設計になります。

2)目標は「30分」より「3問」

時間目標は苦手な子が多い。
行動目標の方が脳が動きやすいです。

3)「今日できなかった」を責めない

続ける力は、失敗から立て直す力でもあります。
大事なのは“戻る”経験です。

4)褒めるのは結果より「着席」

「点数」より「座れた」
「量」より「始めた」
ここを褒めると、行動が増えます。

5)“次にやること”を残して終える

全部終わらせると次が重くなる。
少しだけ残すと、翌日入りやすい。


おわりに|「三日坊主」は、可能性の裏返し

三日坊主で終わってしまう子は、
意志が弱いわけではありません。

脳が「続きにくい設計」の中に置かれているだけかもしれない。

そして、ゲームが続くなら、
続く条件を作れば勉強も続く可能性がある、ということです。

私たち大人ができることは、
子どもを責めることではありません。

脳が動きやすい形を一緒に探し、
続く仕組みを小さく作っていくこと。

それができたとき、
「続かない子」は、
いつの間にか「続けられる子」へ変わっていきます。

焦らず、でも諦めず。
一歩ずつ、仕組みを整えていきましょう。

 

 Dr.Kazushige.O

一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事

聡生館&スプラウツ 代表

「学校に行けていないけれど、
このままで大丈夫なのだろうか」

これは、多くの保護者の方が
一度は胸の奥でつぶやいたことのある言葉だと思います。

勉強が遅れてしまうのではないか。
将来の選択肢が狭まるのではないか。
この状態が、いつまで続くのか分からない不安。

頭では
「今は休む時期かもしれない」
「無理をさせたくない」
そう分かっていても、
心が追いつかない夜もあります。


■「学び」が止まってしまったように見えるとき

不登校や行き渋りの状態にあるお子さんを見ていると、
「学びが止まってしまった」
そう感じてしまうことがあります。

でも実際には、
止まっているのは“学校”であって、
その子の中の成長そのものではない

というケースがほとんどです。

ただ、その成長は
テストや成績といった分かりやすい形では
見えにくいだけなのです。


■ 集団が合わない、というだけのこともある

私たちが日々関わっている中で感じるのは、
「学ぶ力がない子」よりも
「集団という環境が合わない子」の方が
圧倒的に多い、という事実です。

  • 人の視線が気になりすぎる

  • 失敗する姿を見られるのが怖い

  • 先生の言葉が頭に入らない

  • 周囲のペースについていけない

こうした状態が続けば、
誰でも自信を失ってしまいます。

それは、本人の努力不足ではありません。


■ オンラインという“距離”が、安心になることもある

「自宅で一人で学ぶ」と聞くと、
孤独なのではないかと心配される方もいます。

けれど実際には、
距離があるからこそ、安心して話せる子
画面越しの方が、落ち着いて考えられる子
も少なくありません。

大切なのは
「どこで学ぶか」ではなく
「どんな関係性の中で学ぶか」。

その視点から生まれたのが
バーチャル学びキャンパスです。


■ まずは“考えられる状態”を取り戻す

私たちが最初に大切にしているのは、
すぐに勉強を進めることではありません。

  • 落ち着いて話せる

  • 自分の言葉で考えを伝えられる

  • 分からないと言える

こうした
**「考えられる状態」**を取り戻すこと。

そこから、少しずつ
学びは自然に動き始めます。


■ 親御さんにお伝えしたいこと

「今は学校に行けていない」
それだけで、
未来が決まってしまうことはありません。

学び方は、一つではありません。
回り道に見える道が、
その子にとっては一番無理のない道
ということもあります。

選択肢を知っておくこと。
それだけで、
気持ちが少し軽くなることもあります。


■ もし、気になったら

バーチャル学びキャンパスは、
すぐに何かを決めていただく場所ではありません。

「こういう学び方もあるんだ」
そう知っていただくだけで十分です。

詳細については、
一般社団法人自在能力開発研究所
のホームページでもご紹介しています。


🌱
by Dr.Kazushige.O
(一般社団法人 自在能力開発研究所 代表理事/
聡生館&Sprouts フリースクール代表)

 

 

 

スプラウツを利用している生徒たちを見ていると、
ある共通点に気づかされることが少なくありません。

それは、心の安定性を欠いている生徒の割合が、決して低くないということです。

もちろん、これは優劣の話ではありません。
能力の問題でもありません。
むしろ、学力や知的能力とは別の次元で、
「心の扱い方」が非常に難しい状態にある生徒が多い、
という意味です。


自分の行動と結果を結びつけられないという現実

スプラウツで日々関わっていて、
もう一つ強く感じることがあります。

それは、
自分の行動と、その結果を結びつけて考えることが極めて難しい生徒が多い
という現実です。

・なぜこの結果になったのか
・自分のどの選択が影響したのか
・次はどうすればよいのか

こうした問いに対して、
論理的に考えることができない、
あるいは考えようとしない、
もしくは感情が先に立ってしまい、思考そのものが止まってしまう。

それは「怠け」でも「甘え」でもありません。
多くの場合、思考の回路がそこまで届いていないのです。


理解して寄り添うことは大前提だが、それだけでは足りない

支援の現場では、
「まずは理解し、受け止め、共感することが大切だ」
とよく言われます。

これは間違っていません。
スプラウツでも、その姿勢は大前提です。

しかし、現場に立ち続けていると、
どうしても思ってしまうことがあります。

理解して寄り添うだけでは、何も変わらない場面が確かに存在する。

特に、年齢が上がれば上がるほど、
生徒自身の考え方は固まり、
思考や行動のパターンは固定化していきます。

そこに、いわゆる「可塑性」は、
思っているほど残っていない場合も多いのです。


認知行動療法は万能なのか

支援の文脈では、
認知行動療法という言葉がよく登場します。

もちろん、その理論や技法を否定するつもりはありません。
一定の効果がある場面も、確かにあります。

しかし、正直に言えば、
どこまで効果があるのか分からない
と感じてしまうケースも少なくありません。

・本人に内省する余力がない
・言語化が極端に苦手
・「考え方を変える」という行為そのものが負荷になる

こうした状態にある生徒に対して、
「認知を修正しよう」「考え方を変えよう」と働きかけても、
かえって混乱や反発を生むことさえあります。


決断と行動によって、明らかな損失を被っている場面

これまで、
多くの生徒の選択と行動を見てきました。

その中には、
明らかに避けられたはずの損失
を被っているケースも少なくありません。

・感情に任せた一言で、人間関係が壊れる
・衝動的な行動で、居場所を失う
・考えずに選んだ進路で、後戻りできなくなる

それを周囲が指摘しても、
本人は納得できない。
あるいは、理解したように見えても、
行動は何一つ変わらない。

そのたびに、
支援する側は無力感を覚えます。


「変えられない」という現実に直面する

教育や支援に携わっていると、
「人は変われる」という前提を持ちたくなります。

けれど、現実には、
どうしても変えられない部分がある
という事実に直面する瞬間があります。

特性を持つ子どもたちの考え方や行動は、
残念ながら、
必ずしも社会の中でプラスに働くとは限りません。

むしろ、マイナスに作用してしまう場面も多々あります。

それをプラスへ転じようとしても、
振り子は反対方向へ大きく振れるばかりで、
こちらの意図が介在する余地は、ほとんどない。

そう感じてしまう瞬間が、確かにあるのです。


IQではなく、「心」にハンデを抱えているということ

ここで強調しておきたいのは、
これはIQの問題ではない、ということです。

知的能力が高くても、
心の安定性を欠いていれば、
人生は非常に生きづらくなります。

逆に、
学力が高くなくても、
心が比較的安定していれば、
周囲と折り合いをつけながら生きていくことは可能です。

スプラウツで向き合っているのは、
知能ではなく、心にハンデを抱えた生徒たち
なのだと思います。


本当は「長く一緒に過ごす」以外に道はないのではないか

では、どう関わればよいのか。

理想論を言えば、
一緒に過ごす時間を圧倒的に長くすること
しか、本当の意味での変化は起きないのではないか、
と思うことがあります。

短時間の支援
週に数回の関わり
断片的なアドバイス

それだけで、
長年積み上げてきた思考や行動の癖が変わるとは、
正直、考えにくい。

滞在型フリースクールのような形態が必要なのではないか、
と思うこともあります。


それでも、万人に受け入れられるわけではない

もちろん、
それが万人に受け入れられるとは思っていません。

本人の意向がなければ成立しませんし、
家庭の事情、経済的な問題、
さまざまな制約があります。

「正しいから」「効果がありそうだから」
という理由だけで、
押し付けることはできません。

それでも、
選択肢として存在すること
そのものに意味があるのではないかと思っています。


今年、仕組みづくりを考えたい理由

だからこそ、
今年はこのあたりの「仕組みづくり」を、
本気で考えたいと思っています。

今すぐ完成形を作ることはできなくても、
・どんな関わり方が現実的なのか
・どこまで踏み込むべきなのか
・何を「変えようとしない」と決めるのか

これらを、
一つずつ整理していく年にしたい。


スプラウツは「変える場所」ではなく「支える場所」でありたい

最後に、
スプラウツとして大切にしたい姿勢を書いておきます。

スプラウツは、
無理に人を変える場所ではありません。

誰かの人生を、
短期間で好転させる魔法の場所でもありません。

それでも、
壊れないように支えること
これ以上傷つかないように関わること
孤立しない居場所であり続けること

それだけは、
これからも大切にしていきたいと思っています。

無力感を感じながらでも、
悩み続けながらでも、
それでも、関わり続ける。

それが、
フリースクール・スプラウツの現場なのだと思っています。

 

Dr.Kazushige.O

一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事

聡生館&スプラウツ 代表

序章

初詣という行為を、少しだけ立ち止まって考えてみる

元日という日は、どこか特別な空気をまとっています。
昨日までと同じ一日であるはずなのに、人はそこに「区切り」を感じ、自然と立ち止まります。初詣という行為も、その延長線上にあるのだと思います。

神社へ向かう道の冷たい空気。
整えられた境内。
静かに並ぶ人の列。

そこに身を置いていると、心が少し整うのを感じます。
一方で、私は毎年、胸の奥に小さな違和感のようなものも覚えてきました。

──私たちは、いったい何をしにここへ来ているのだろうか。

合格祈願、家内安全、健康祈願、商売繁盛。
願いの言葉は整然と並び、絵馬に書かれ、鈴の音とともに空へと放たれていきます。
けれど、その行為が終わった瞬間、私たちはまた、いつもの日常の速度へと戻っていきます。

もし祈りが、
「その場で完結する行為」
「一年に一度、気持ちを整えるための行事」
で終わってしまうとしたら、そこには何か大切なものが、こぼれ落ちてはいないでしょうか。

私は、初詣そのものを否定したいわけではありません。
むしろ、初詣という行為が本来持っている問いが、少し軽く扱われているように感じているのです。

祈りとは、本当に「場所」に依存するものなのでしょうか。
神社に足を運ばなければ、私たちは祈れないのでしょうか。

そうではないはずだ、と私は思っています。
祈りとは、もっと日常に近く、もっと静かで、そしてもっと続いていくものではなかったか。

元日だからこそ、私はあえて、初詣という行為を少し立ち止まって考えてみたいと思いました。
それは否定のためではなく、取り戻すために、です。


第1章

終わらない戦争を、年の始まりに思うということ

昨日、私はウクライナとロシアの、いまだ終結していない戦争について文章を書きました。
年末年始という時期に、このテーマを取り上げることに、迷いがなかったわけではありません。

「お正月くらい、明るい話題でいいのではないか」
「戦争の話は、少し重すぎる」

そう感じる方がいることも、よく分かります。

それでも私は、年の始まりだからこそ、あの戦争のことを思い出す必要があると感じました。

世界のどこかでは、新しい年が祝われています。
同時に、別の場所では、爆音と恐怖の中で新年を迎えている人たちがいます。
同じ元日でありながら、まったく異なる現実が、同時に存在している。

私たちは、その事実をどこまで自分の問題として引き受けているでしょうか。

ニュースで知っていることと、
心のどこかで引き受けていることのあいだには、思っている以上に深い隔たりがあります。

祈りが「願い事」だけになってしまうとき、戦争は急速に遠い出来事になります。
「早く終わりますように」という言葉自体は、決して間違いではありません。
けれど、その言葉が自分の日常の考え方や行動と結びついていないとき、祈りは通り過ぎてしまいます。

年の始まりに戦争を考えることは、祝福の空気に水を差すことではないと、私は思います。
むしろ、祝福が祝福であり続けるために必要な、想像力なのではないでしょうか。

平和は、最初から用意されている背景ではありません。
それは、誰かが考え続けている状態によって、かろうじて保たれているものなのだと思います。


第2章

祈りとは、行為ではなく「続いていく姿勢」なのかもしれない

初詣に行かなくても、祈ることはできます。
あまりにも当たり前のことですが、私たちは時々、その当たり前を忘れてしまいます。

歩いているとき。
電車に揺られているとき。
ニュースを見て胸が詰まったとき。
誰かの言葉に、ふと心が引っかかったとき。

そうした瞬間に、私たちはすでに、祈りの入り口に立っているのではないでしょうか。

祈りとは、言葉を発することだけではありません。
ましてや、願いを投げることだけでもありません。

他者の痛みに、少し想像力を向けてみること。
判断を急がず、もう一度考えてみようとすること。
自分の立ち位置を、ときどき問い直してみること。

そうした内的な姿勢が、静かに続いていくこと。
それ自体が、祈りと呼べるものなのかもしれません。

私たちはよく、「自分にできることは何もない」と感じます。
確かに、戦争を止める力はありません。
貧困を一気に解消することもできません。
病が思うように回復しないこともあります。

それでも、
何もできないことと、
何も考えないことは、同じではないと思うのです。

ささやかな思いは、
ささやかな行動へと、ゆっくりつながっていきます。

人間を人間たらしめているものは、
力や効率ではなく、
思いを持ち続けようとする、その姿勢なのではないでしょうか。


第3章

内村鑑三という存在が立ち現れるとき

初詣を、場所に依存しない祈りという視点から考え直すとき、
私の思考は、必ず一人の日本人のもとへと戻っていきます。

内村鑑三です。

彼は、信仰を制度や形式に閉じ込めることを、徹底して拒みました。
無教会主義と呼ばれるその姿勢は、宗教を否定するためのものではありません。
それは、人間の内面に対する、極端なまでの誠実さだったように思います。

祈りは、建物の中で完結するものではない。
信仰は、儀式によって保証されるものではない。
それは、日々の判断や沈黙の中に、否応なく表れてしまう。

祈ったその場ではなく、
祈りを終えたその後にこそ、
人間の姿勢が問われる。

内村鑑三の思想は、初詣という日本的な慣習を否定するものではありません。
むしろ、「その行為のあと、あなたはどう生きるのか」という問いを、静かに差し出してくるのです。


第4章

祈りは思考となり、思考は人を形づくる

ここで私は、ジェームズ・アレンの言葉を思い出します。
「人は、考えた通りの人間になる」。

この言葉は、ときに自己啓発的に受け取られます。
けれど、彼が言う「思考」とは、前向きな言葉を唱えることではありません。

日常の中で、無自覚に抱き続けている心の姿勢。
価値判断の癖。
他者を見るときの視線。

それらすべてが、少しずつ人を形づくっていきます。

内村鑑三が「祈り」と呼んだものと、
ジェームズ・アレンが「思考」と呼んだものは、
実は同じ場所を指しているのではないかと、私は感じています。

祈りとは、思考を澄ませる行為であり、
思考とは、祈りが日常の中で続いていく形なのかもしれません。


第5章

「考える葦」は、なぜ遠くなったのか

パスカルは、人間を「考える葦」と呼びました。
弱く、折れやすい存在でありながら、それでも考えることができる。
そこに人間の尊厳がある、と。

けれど現代社会では、
立ち止まって考えることは、次第に後景へ退いているように感じます。

即断、効率、正解。
それらが優先される社会の中で、
迷いながら考え続ける姿勢は、居場所を失いつつあります。

「考える葦」は、言葉としてではなく、
生き方として、遠くなってしまったのかもしれません。


第6章

哲学が弱くなったのではない

哲学が役に立たなくなったのではなく、
人間が、あまりにも急ぎすぎているだけなのではないでしょうか。

アルゴリズムが関心を先回りし、
AIが思考の下書きを用意し、
感情の出口がすぐに与えられる。

その便利さの中で、
考え続けるための余白は、少しずつ削られています。


第7章

世界平和を考えられない人たちの現実

世界平和を語る余裕のない人がいます。
明日の生活を無事に終えることだけで精一杯の人もいます。
病の改善を祈り続けている人もいます。

それらの祈りは、決して小さくも、劣ったものでもありません。
むしろ、その切実さこそが、祈りの原点なのだと思います。


終章

初詣で終わらせないために

――2026年へ

初詣は、終点ではありません。
それは、確認にすぎません。

祈りは、神社の中だけにあるものではなく、
日々の選択の中で、静かに表れていくものです。

考えることを、すぐに手放さないこと。
他者の痛みに、想像力を向け続けること。
自分の内面に、誠実であろうとすること。

それらは小さく、目立たない営みかもしれません。
それでも、人間を人間たらしめるのは、そうした営みなのだと思います。

2026年、
人間は、社会は、世界は、どこへ向かって歩き出そうとしているのでしょうか。

その問いを、初詣で終わらせないこと。
それが、私にとっての祈りであり、思想であり、新しい年の始まりです。


1/1   2026 Special Blog by Dr.Kazushige.O
(一般社団法人自在能力開発研究所 代表理事 / 聡生館・フリースクールスプラウツ 代表)