『どもる体』 伊藤 亜紗・著

 

 「コントロールされた領域」のすぐそばには、「コントロールされていない領域」が横たわっています

なにしろ生命の根幹である心臓の拍動すら、「勝手に」動いているのであって、私たちが自分でコントロールしているわけではありません。

消化だって勝手に行われているのであって、痛みでもない限りその働きが意識されることはありません。

 では「歩く」や「食べる」のような運動はどうか。

こうした運動はいわゆる「随意運動」ですから、内臓の動きとは違って、意識的にコントロールされているように見えます。

 しかし随意運動とて、事情は変わりません。

たしかに、歩く速度を上げたり、食べる量をセーブしたり、といった調節を行うことはできます。

大枠は「随意」です。

けれども、関節を曲げる角度や口の開き具合、あるいは体重のかけ方について、私たちは体の細部にわたって逐一命令を出しているわけではありません。

その多くは、体の物理的な構造と習慣の産物による自動化した動きであって、意識的にコントロールされたものではないのです。

そうした「体が勝手にやってくれていること」にかなりの部分を依存して、私たちは生活しています

 

この本では、言葉を上手く喋れなくなる「吃音」をテーマに書かれている。

 

「話す」と言う普通にしている行動が、どのように行われているか知れて勉強になった。

 

身体は、当たり前のように凄いことをしてくれているんだなぁびっくり

 

 

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『癒える力』 竹内 敏晴・著

 

 人のからだとは不思議なもので、「ふれる」ことは同時に「ふれられる」ことだ。

この二重性について繰り返し驚きつつ考えていった人の一人が哲学者メルロ・ポンティで、 かれの「からだ」についての考察の精妙さは多くの部分をこの驚きに拠っている。

 

 だが人間の厄介なところは、一所懸命「ふれる」ことに意識を向けると「ふれられている」感じが押しのけられてしまって、やり方(技法)のよしあしへの気遣いばかりに自分を閉じこめてしまうことだ。

つまり、相手がいなくなってしまうのだ。

 

 「自分が」「自分のてのひらを」そこに「あてる」のではなく、「相手の」「からだ」の、 あたたかさや柔らかさを、てのひらいっぱいに受け取ってみよう。

意識がくるりと転換して、静かな集中が生まれ始める。

はじめて、なまなましい「人のからだ」が現われてくる。

 

(略)

 

 肘をゆるめて一見親しげに肩に手をかけるのは、わたしたちがふだんのくらしで一番なにげなくやる振舞いで、ここにほとんどのふれ方のヴァリエーションが詰まっている。

おずおず、そっと、義理で、不承不承、やさしく、断固としてなどなど。

相手との距離を取りながら人と人との間柄を操作するさまざまなテクニックだ。

冗談めかして言えば、〈突き合い〉からぴったりと〈着き合う〉ことへ、次第に人と人とが近づいてゆく過程がここに見られる。

これを人が「人間」になってゆく過程だと言ってもよいだろう。

 

最後に人と人との「間」がふっと消えるとき、ふれるという行為が完成する

この時、 ふれることはそのまま「ふれられる」ことである。

 

「からだとことばのレッスン」を主宰して来られた筆者が、身体の持つ力について書かれている。

 

見る、話す、触れる、・・・自分の在り方で、人との関わり方も変わる。

 

自分の現状を見直すヒントが、色々とあった照れ

 

 

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息を吸う、吐く、どちらか一方に向かっている時、急に切り替えるのは難しい。

肚の空間を保ったまま、空気が自由に行き来できるように開放しておくことで、

吸うのも吐くのも出来る状態になる。

空気の出入りが小さくても、呼吸の働きが内部で循環する。

そうした呼吸が出来るからこそ、相手の身体がどのように動いても付いていけるびっくり

 

術者が呼吸を意識するかどうかで、手の使い方が変わってくる。

形のまま触れにいくと、お互いの間に境界が出来て、表層しか動かない。

手の平の周りの空間から近付けて、息を吐いて弛めながら沿わせると馴染む。

お互いの呼吸が同調しやすくなって、深部まで届く。

手を使った施術も、触れる前から始まっているびっくり

 

呼吸は、自分の中と外を橋渡しする働きでもある。

息を吸うと、外から体内に空気が入ってくる。

皮膚の表面から外に意識が向かい、空気の層に広がっていく。

息を吐くと、体内の空気は出ていき、意識は外から内に向かって、中心に戻ってくる。

身体は、周りと交流し続けることで保たれているニコニコ