総選挙だが、大勢はとっくに判明していて、どうやら政権交代するらしい。日本はどうなる?
正直、私はあまり民主党を信用していない。耳に心地良いことばかり言って、調子のいい軟派のニイチャンみたいな党だと思う。それに、政党というよりは大学のサークルみたいな感じ。「重み」が無いのだ。
ホントに政権担当能力あるのか?と思ってしまう。どこか胡散臭い。だからといって自民党の政治がいいとはいえないが・・・。それでも自民党、さすがに長年与党でいただけはあって、政権運営のノウハウはあると思う。長く担当し過ぎたから腐敗したのかも知れないが・・・。やはり、ここらで一度野に下り、心を入れ替えた方がいいのかも知れない。私には、断定できないが。
なんだか底知れぬ不安感、絶望感ばかり感じる選挙なのである。どう転んでもろくなことにならない気がするのだ。それでも一応投票には行った。
知人で、「投票したい人がいないから選挙へは行かない。投票しないことが私の意志表示」と言った人がいるが、大きな勘違いだと思う。棄権は抗議でも何でもない。単なる逃避、文字通りの「白紙委任」だ。
何故なら、棄権が多くても選挙自体が中止になるわけではない。投票率が下がるだけだ。そして組織票、というものが存在する。組合だとか支持団体だとかをバックに持っている候補者は、自動的に一定量の票が入る。得票数がある程度あれば当選はするのだから、投票率が低ければ低いほどそういった候補者は有利になる。例えば100人有権者がいた中での30票なら当選できないかも知れないが、50人の内の30票なら当選が可能だ。しかしこれは正しく民意を反映していると言えるだろうか。棄権が多いということは、そういう現象を生み出す要因にもなるのだということを、その知人は知らない。
だから投票には是非行くべきだ。特に投票したい候補者がいない場合でもだ。ちなみに「投票したい人がいない」は、選挙の争点、各党のマニフェスト、自分の地域の選挙区と候補者のプロフィールを一通り分かった上で言うべき言葉だろう。ある程度基本的な勉強をした上で、それでも特に投票したい人がいなかったら、泡沫候補に投票するのも一つの方法だろう。おそらく当選はしないだろうが、一票をムダにするよりは遥かにマシだ。
私は、言うべき時に言うべき言葉を言わなかった人間は、後から文句を言う資格は無いと思う。国民にとって唯一国政に物申せる機会が選挙である。その機会を逃したら、自分が立候補でもする以外方法は無いのだ。
ああ、それにしても、一体これからどうなるのだろう?あまりネガティブなことばかり言っても仕方がないのかも知れないが・・・。
要領のいい人も悪い人も、頭の良い人も悪い人も、ケチな人も気前がいい人も、独身も家族もちも、大人も子供も、金儲けのうまい人も下手な人も、男も女も人生の終わりには「いろいろあったけどまぁ悪くない人生だったな」と言って死ねるような世の中にならないものだろうか。甘い考えだということは十分承知しているが。
結婚15年経っても、未だに義両親とは打ち解けない。私たちに子供がいないのが主な理由だが、義両親の夫婦仲が最悪だということもある。話題がないので、会話が成立しないのだ。
昨日はたまたま終戦記念日だったため、義父の戦争体験などを聞いたりして、そこそこ間が持ったが、夫はほとんど喋らない、義父と義母の間に会話はない、何かの拍子にすぐ険悪な空気になる、私と義母が話している所へ義父が大声で割り込んで自分の話を始める、(私と義母は諦めて押し黙る)楽しくないことこの上なかった。
ここまでコミュニケーションがうまくいかない家族も珍しいのではなかろうか。夫は私といるとそうでもないのに、自分の親が加わると途端に口数が減り、マイペースぶりに拍車がかかるのはどうしてだろう。
来週は私の実家へ行くことになっている。実家の面々とは今も冷戦状態なので、少々憂鬱なのだが、こちらは仏壇があるので顔を出さないわけにはいかない。
ブログネタ:電車でケータイをいじってる時、何やってる?
参加中
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参加中独断と偏見で断言するが、最近、「幸せでない人」は肩身が狭いと思う。
女たちは「仕事も家庭も子供も」と躍起になっていて、運よく全てを手に入れた者は鼻高々で勝ち誇っているし、男たちは「正社員=勝ち組 非正社員=負け組」という図式に自らの人生をそっくり当てはめ、これまた運よく正社員になれた者はほっと胸を撫で下ろし、「負け組」たちを憐れみつつ、順風満帆な人生に乾杯をする。
「家族愛」がやたらクローズアップされ、「幸せな家族」のロールモデルがあちこちで喧伝され、「愛する家族を持つことが幸せ、家族が一番」という思想がプロパガンダされて、人々は知らず知らず洗脳されている。
いつの頃からか、メディアは「幸せ至上主義」となった。それも、欲しい物は何もかも手に入れるといった類の「物質的幸福」を全肯定するようになった。その「欲しいもの」の中には、パートナーや子供も含まれる。家庭や子供は、いつのまにか「幸せになるため」の必須アイテムとなった。これらを手に入れられなかったら、途端に「幸せ」では無くなってしまうのだ。だから人々は、なんとかして「幸福アイテム」を手に入れようと、必死になる。
しかし現実問題、全ての人がこれらのアイテムを手に入れられるとは限らない。手に入れたとしても、「その幸福」を維持できるとは限らない。当たり前の真理だと思うが、それよりもまず「アイテムを手に入れること」が第一目標であり、そのことが意味することや、将来のことにまで頭が回っていない人が大半ではないかと思う。
「幸せでない」ことが不安なのだ。この豊かな日本で、「物質的に恵まれていないこと」は直ちに軽侮の対象となる。いつのまにかそういう時代になってしまった。昔は違っただろうが・・・。だから、とりあえず「幸せになるために必要なアイテム」が全て揃っていなければ、という強迫観念に駆られるのかも知れない。
しかし、「自分が幸せであると過剰にアピールすること」は、限りなく下品な行為だと思う。そこには他者に対する視線は無い。自分と、自分の周り対する視線しかない。自分と違う者を受け入れがたくなり、自らの価値観と違うものは否定する。限りなく狭量で、無知で、傲慢だと思う。
自分だけのものさしで、「幸せでない人」を断罪したり、憐れんだりするものではないと思う。本来幸せの形は千差万別で、傍から見て不幸だと思えるような人生でも、本人にとってはかけがえのないものであることだって少なくないのだ。この事実は全くもって真理であり、人生を語る時の大前提であったはずだ。
だから、100%幸せな人もいなければ、100%不幸な人もいないはずなのだ、本当は。人生に勝ったも負けたも無い。そのことを知っている人なら、決して自らの幸せを自慢したりしないはずだ。それは、人としての品格を著しく貶め、無知と無教養を曝す行為と言えよう。
自らの人生を語る時、必ず幾分かの「含羞」が無ければならないと思う。自分はこんなに幸せだ、こんなに不幸だなんてことは、他人からすればどうでもいいことなのだから。
