纒向型前方後円墳である神門古墳群続きです。
↑神門5号墳
真ん中奥が「後円」部、写真右下に向けて低い「前方」部。
↑解説板
墳長42.6メートル、後円部の直径約32メートル、高さ約5メートル、前方部の長さは12メートル、3世紀前半築造の纒向(まきむく)型前方後円墳。ちなみに邪馬台国の卑弥呼、魏に使節を送ったのが西暦だと239年。まさに3世紀前半です。(あっ、個人的には邪馬台国や卑弥呼の存在自体、否定的に思っていますけどね)
ちなみに、古墳の築造年代って、出土品(土器、埴輪など)や古墳の形状などから推定されます。
神門(ごうど)古墳群が3世紀前半と推定される理由は、やはり古墳の形状が纒向型前方後円墳であることと、出土した土師器が庄内式であることからです
↑豊中市のホームページがから拝借。
右から弥生土器、真ん中が土師器(庄内式)、左が古墳時代の典型的な土師器。実際に使われていたので、ススが付いて黒ずんでいます。
大阪府豊中市の庄内遺跡から出土した土師器、模様の付いた木片で叩いて土器の表面を仕上げ、形を整えるために土器内側を削るという加工技術が使われていました。時代としては2世紀後半、日本全体で流行した製造技法の土器(土師器)です。
↑神門古墳群
まさに纒向型前方後円墳から前方後円墳と変化していく様相がよくわかります。古い順から5号墳→4号墳→3号墳。「前方」が徐々に大きくなっていきます。
ちなみに、神門4号墳と神門3号墳、今は住宅地です
沼津市の高尾山古墳は卑弥呼より古いかもしれない!とかで住民運動も盛んになって保存されることになったそうですが、ここ市原市は、そんな動きがなかったのでしょうか?それこそ卑弥呼より古いかもしれませんよ。なにせ庄内式の土師器が出ているので、2世紀後半~3世紀初頃の可能性も否定はできないはずです。
完全に消滅してしまった2基、今となっては、これ以上調べることはできません
現在の奈良県で主流となっていた墳丘の形状、現在の大阪府で主流となっていた土器の形状、東海地方が主流の土器まで見つかっています・・それが、遠く離れた現在の千葉県市原市で見つかる・・当時の人・文化の流れ、全国的な統一国家の形成過程とか、色んな想像ができてワクワクしてきます。古代史って本当に面白い
↑神門5号墳の「後円」部
↑神門5号墳、左手が小さな「前方」部、右手が「後円」部
↑「後円」から「前方」を臨む、葉が付いている木の方向が「前方」部。左手奥の高まりは近世の塚。
古墳の形状を見たい!という場合はイマイチかもしれませんが、古墳の歴史を考えたい!という方にはオススメです