今日 7月12日は「裸の大将」山下清の命日でした。
今も裸で天空の鉄道線路を歩きながら絵を描いていることでしょう。
私の子供の頃、実家の玄関の正面に、子供が作ったような、でも、大人が作ったような、でもすっごく細かく丁寧に作った上手な不思議な花火の貼り絵が貼ってありました。玄関ですから毎日見ていて、それも日常の一つでした。
それは「日本のゴッホ」とも言われた山下清の花火の絵です。
玄関正面で毎日見える 何故ここに飾られていたのかわからなかったのですが、山下清をとても身近に感じていました。
我が家に山下清の絵があるのは、民芸運動草創期のメンバーであった吉田翔也さんの影の力でした。
民芸運動草創期時からの主要メンバーは、柳宗悦・河井寛次郎・濱田庄司・バーナード リーチ・芹沢銈介・式場隆三郎・吉田翔也の7名ですが、
吉田璋也は、日本初のプロデューサとなり陶器や家具の新作民芸品の開発を行い、河井寛次郎から民芸の母と呼ばれています。 また、全国に民藝を広めるべく、民芸店の元祖となるたくみ工芸店を鳥取と東京西銀座に開き、鳥取民芸美術館とたくみ割烹店をひらきます。
式場隆三郎は、民芸の機関誌編集や数多くの文筆・出版を行います。
式場隆三郎と吉田璋也は新潟医専(今の新潟大学医学部)の同級生であり、その頃から二人とも早くから雑誌「ホトトギス」などを愛読し、文芸の世界に憧れ「白樺派」の作家たちや柳宗悦、バーナード・リーチと知り合い民芸運動を共にした推進者でした。
1956年8月、34歳の山下清は、清の才能を見出し指導し育てた式場隆三郎に連れられて、吉田璋也の招きで 鳥取の牛ノ戸焼きを訪問します。
そして8月22、23日には鳥取県倉吉市にある皆成学院(知的障害児施設)を訪問します。
二人はそんな間柄でしたから、吉田璋也は新民藝運動の最初の記念碑的作品の牛ノ戸焼を式場隆三郎に見せたかったのでしょう。
そのあと、昭和31年8月22日鳥取県倉吉市にある皆成学院(かいせいがくいん・知的障害児施設)への訪問を依頼され快諾し、 児童の作品展の見学をしますが、この訪問は「裸の大将」「日本のゴッホ」と大勢の人たちが大歓迎されたそうです。
皆成学院は児童の教育で陶芸に力を入れていて、一度におよそ700もの作品を焼くことのできる大きな登り窯を持ち、これを作り、陶芸指導などを手助けしたのが、中学の美術教諭をしていた染織家の吉田たすく(伊藤宝城の弟 私の父)でした。また、皆成学院の学校医は民芸運動推進者であり吉田璋也と懇意であった彫刻家の伊藤宝城(吉田たすくの兄で私の伯父)でした。
『民芸・医者・皆成学院』
この繋がりで考えると山下清の皆成学院行きの提案を吉田璋也にしたのは、伊藤宝城であり、そして、兄の伊藤宝城へこの相談を一緒にしたのは弟の吉田たすくではなかったかと思われます。
そして、山下清は倉吉で芸術家のサロンのようになっていた伊藤宝城宅を訪問しますが、そこで作品を作ります。
この写真の場所が、伊藤病院の外科入院患者の付き添いの方が泊まる部屋でした。
(山下清と一緒に写っているのが伊藤宝城です。)
この部屋は広い庭に面して広縁がある3部屋続きの明るい部屋で、私が子供の頃、誰もいない日の雨の日に時々遊んだ部屋でもあります。
私の実家の玄関に花火が飾られたのはその頃ですね。
私は、山下清作品は、美術展や、長野県茅野市の山下清放浪美術館(170点程陳列)などに行って観ていますが、色紙や新聞紙を切った理千切ったりして作る絵は微妙に立体となっていて、実物を見ると紙一枚一枚重なった厚さがこんなにも絵に影響を与え、その緻密な貼り絵はまさに彫刻のようにも感じます。
あの良さは、写真ではわかりません。
どうぞ皆様も是非本物を見て正面、斜め前、横からごらんになってみてください。
山下清(1922年3月10日ー1971年7月12日)
生きていれば103歳でした。 合掌






