慰霊の日 6月23日 | foo-d 風土

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 ななとせも

  待てどかへらぬ

   いとしごの

  女神のつばさ

   つけてくだれる

 

今日6月23日は1945年沖縄戦の終了した日。

 

 

 沖縄戦で、日本軍により動員された沖縄県の10代から20代の女子学徒隊のうち、看護要員として「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」の生徒で構成されたひめゆり学徒隊は、戦禍の中、米軍の爆撃、機銃掃射や自決を迫られ240名のうち136名が死亡しました。

 1945年太平洋戦争の敗戦。最大の被災地沖縄は戦争の傷跡が沢山残っていました。

 

 終戦直後の物資難な時代、アメリカ軍統治下であった事情もあり、ひめゆり学徒隊の終焉の地も1946年の「ひめゆりの塔」と刻んだ高さ数十センチメートルの、小さな碑が一つあるだけで他には何もない寂しいものした。

  自らも従軍医師として南洋に行っていた戦後初期の前衛彫刻家の伊藤宝城(伊藤博)は、この悲惨な状況を知り、彼女たちの翼となれ、と1948年にひめゆりの女神像の制作に取り掛かり4年がかりで製作し、1952年に沖縄へ寄贈しました。 

1952年、太平洋戦争終結7年後、この像はひめゆり学徒隊の慰霊碑の前に一体化して設置され、沖縄県主体で知事や市長などと盛大な落成式が行われました。

 

 

  その時に読まれたのがこの短歌で、落成記念に販売された写真ハガキにも一緒に書かれています。

 現在は新しい慰霊碑に変わり、その後は、この女神像は慰霊碑の5mほど後ろに移設されています。

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ひめゆりの塔は、沖縄戦末期に糸満市の沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。

外科壕跡を挟んでひめゆりの塔の奥側にはひめゆり学徒隊の慰霊碑(納骨堂)が建てられ、現代ではさらに外科壕跡の左手には、ひめゆり学徒隊に関する資料を保管・展示した『ひめゆり平和祈念資料館』が1989年に建てられています。『ひめゆりの塔』は、沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも参拝する人が絶えません。

 ひめゆり平和祈念資料館では、戦争体験者が年々少なくなっていく今、沖縄戦がどんなものであったのか、元ひめゆり学徒たちの体験を通して、若い世代に戦争の実態を伝えています。後世に戦争の悲惨さと命の尊さを伝える意味でも、子どもと一緒に平和学習のために一度は訪れてほしい場所です。

現代の世界も日本も、戦争を知らない世代ばかりとなりつつあり

その為か、日本政府も少しづつ着実に戦争に近づいている感じもあります。

米軍の攻撃により20万人の犠牲者を出した沖縄の方々の大きな犠牲のおかげで本土の人間は、空襲以外では何十万人以上の犠牲も少なくなったことでしょう。

日本人全てが後々まで知っておかねばならない大切な日です。

 観光等で沖縄へ行かれる方々も数時間で結構です、もう一度こちらへ出向き、戦争の悲惨さを感じていただきたいと思います。

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 親子の写真は女神像を沖縄へ送る直前、父の実家である鳥取県倉吉市広瀬町の伊藤病院の前での記念撮影です。

向かって右から私の母(佐久子) 兄(創之介)  父の兄(伊藤博)の妻信子(ばあちゃん) 前に抱かれているのが私です。

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伊藤博  鳥取県倉吉市広瀬町 

   (父 吉田たすくの長兄)

 号を「伊藤宝城」という

戦後日本の抽象彫刻の先駆者 伊藤宝城

ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤宝城

 

慰霊の日 六月二十三日

  いつも思いだす像です。

 

沖縄戦

県外出身者死者・行方不明者 65,908人

沖縄県民死者・行方不明者122,228人

(この内民間人死者 94,000人)

アメリカ軍死者・行方不明者 14,006人

イギリス軍死者82名

アメリカ軍戦傷者 72,012人

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 ひめゆりの塔 ひめゆり平和祈念資料館資料より

01.沖縄戦とひめゆり学徒隊 

太平洋戦争末期の1945年3月から3か月余り、日米両軍は沖縄で住民を巻き込んだ地上戦を繰り広げました。米軍は、日本本土攻略の拠点として沖縄を確保するため、圧倒的な物量で攻撃しました。日本軍は、沖縄を本土防衛の防波堤と位置づけ、米軍の本土上陸を1日でも遅らせるために、壕に潜んで長期戦にもちこむ持久作戦をとりました。この作戦が沖縄戦を長引かせ、日米の戦死者は20万人以上にのぼりました。その6割に当たる12万人は沖縄県民でした。

日本軍は兵力不足を補うため、沖縄県民を「根こそぎ動員」し、中等学校や師範学校などの10代の生徒まで戦場に動員しました。那覇市安里にあった「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」からも、生徒・教師240名が看護要員として動員され、そのうち136名が死亡しました。2校の愛称が「ひめゆり」であったことから、戦後、彼女たちは「ひめゆり学徒隊」と呼ばれるようになりました。

02.男女学徒隊の戦場動員 

 沖縄戦では、県内にあった21の全ての中等学校・師範学校から生徒が戦場に動員されました。女子は主に看護活動、男子は砲爆撃の中、部隊の物資運びや伝令(命令の伝達)、橋の補修、電話線の修復などを行いました。米軍戦車への自爆攻撃を命じられた生徒もいました。

生徒の戦場動員は、軍の要請によって、軍と県との話し合いで決まり、学校が従いました。女子生徒の戦場動員に法的な根拠はなく、男子生徒の戦場動員に必要な法的手続きはとられませんでした。

学徒隊として学校から動員された生徒のほかに、兵隊として入隊した生徒、自宅近くの部隊に動員された生徒、家族と避難中に命を落とした生徒もいます。あわせて約2000人以上の生徒が沖縄戦で亡くなりました。

03.南風原の沖縄陸軍病院

1945年3月23日夜、ひめゆりの生徒は引率教師とともに学校を出発し、南風原にある沖縄陸軍病院に向かいました。沖縄陸軍病院は兵隊のための病院で、小高い丘に40近い壕が掘られ、その中に粗末な二段ベッドが並んでいました。

生徒たちの多くは、看護婦と一緒に患者の世話を行いました。尿や便の片付け、水や食事の世話、包帯交換の手伝いなどに走り回り、休む間もありませんでした。特に、飯上げや水くみ、死体埋葬は、壕の外に出て行く命がけの仕事でした。動員された生徒は222名、教師は18名にのぼりました。

04.過酷な勤務 

 患者の食事は、初めのうちは、テニスボールぐらいのおにぎりが1個、朝夕2回ありましたが、だんだん小さくなって、ピンポン玉くらいのおにぎりが1日1個になりました。生徒の食事も同じでした。

米軍との戦闘が激しくなると、壕は重傷の患者でいっぱいになりました。生徒が横になる場所はなく、壁にもたれて仮眠を取りましたが、すぐに患者に呼ばれて起こされました。患者は、「水をくれ」「おしっこがしたい」「痛い、痛い、何とかしてくれ」と呼び続けていました。

食べ物も飲み水も少ないせいか、生徒たちには生理も排便もほとんどなくなり、汚れた衣服や頭にはシラミがわきました。青白くやせ細っていき、高熱におそわれ倒れる者も出てきました。

05.南部への撤退

 5月22日、首里の第32軍司令部に米軍が迫り、日本軍は南部への撤退を決定します。5月25日、沖縄陸軍病院に撤退命令が出され、生徒たちは患者に手を貸し、傷ついた学友を担架に乗せ、砲弾の中を南部へと急ぎました。

沖縄陸軍病院の関係者や教師と生徒は、糸満の伊原一帯に到着後、6つの壕に分かれました。医療器具や薬品、負傷兵を収容する場所もない状況で、病院はその機能を失います。

6月中旬には、米軍が南部へと迫り、陸軍病院の壕も次々と攻撃されていきました。

06.解散命令と死の彷徨 

6月18日夜、陸軍病院では学徒隊に「解散命令」が言いわたされました。壕を出た生徒たちは、茂みや岩陰に身を隠し、海岸へと追い詰められていきました。砲弾の飛び交う中、傷ついた体をひきずって逃げる者、負傷した学友を助けて歩いていく者、重傷で動けずその場に倒れる者、砲弾に吹き飛ばされる者、ガス弾 (黄リン弾)攻撃を受ける者、手榴弾を爆発させる者、海岸で大波にのまれる者など、行き場を失い、父母を呼びながら死んでいく生徒が続出しました。

生徒の多くは、6月20日から28日の間に米軍に捕まり、各地の収容所に送られましたが、なかには日本の降伏も知らずに8月22日にまで壕に隠れていた生徒もいました。

07.ひめゆり学徒の動員・死亡状況

沖縄陸軍病院に動員された生徒・教師240人のうち136人が死亡しました。死亡者の86%にあたる117人が6月18日の解散命令後に死亡、または行方不明になりました。「解散命令」は、結果的に米軍の包囲網の中に生徒たちを放り出すことになり、その後の犠牲を飛躍的に増やしたのです。

沖縄陸軍病院に動員された人以外にも、91人の生徒と教師が沖縄戦で亡くなっています。

08.ひめゆり学徒隊の戦跡「伊原第三外科壕」

 現在、ひめゆりの塔が建っているガマ(鍾乳洞)は、沖縄陸軍病院の第三外科が南部撤退後に入っていた壕で、「伊原第三外科壕」と呼ばれています。「伊原」はガマがある場所の地名です。ひめゆり学徒を含む陸軍病院の看護婦や兵隊、住民などおよそ100名が隠れていました。19日早朝、米軍の攻撃を受け、80名あまりが亡くなりました。