新瑞の
年の初めに
豆打てば
福は内 福は内 福は内
鬼は外
鬼は外
これは鳥取県倉吉市の私の実家で江戸時代から続いている節分の口上(こうじょう)です。
これを謡(うたい)の様に抑揚をつけて 歌います。
あらたまの〜としのはじめにまめうてば〜 (ここまでゆっくり語り)
ふくわうち ふくわうち ふくわうち! (ここは早く語り)
(ここで構えて升から豆を手で握り)
おには〜そと〜(といってここで豆をまく)
おには〜そと〜(といってここで豆をまく)
節分の日は、柊鰯(やいかがし、ひいらぎいわし(柊と鰯の頭を串に刺したもの))を家の表門と裏門に挿してから部屋の入り口に小さなものを刺して飾るところから始まります。
子供の頃
台所で大豆を煎り 四角い五合升に入れます。
四人兄弟の内その年の年男(としおとこ)の男の子は(年男がいない場合でも)羽織袴(はおりはかま)に着替え、足袋を履き正装をして、腰にはズッシリと重い本物の脇差しを差します。
この脇差は、大江山の「酒呑童子」(しゅてんどうじ)を切り、特に名刀中の名刀と言われた国宝「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)の流れを汲む伯耆国(ほうきのくに)倉吉鍛治が打った刀。 子供ながら勇ましくカッコいいと思っていました。
羽織袴など一年間でこの時ぐらいしか着ませんから、子供ながら凄く緊張しています。
さらに口上を一言も間違えないように言おうと より緊張する時間です。
玄関からお風呂、トイレまですべての部屋でこの口上を言ってから撒きます。全部の部屋13とお風呂、トイレ、庭にも向かって撒くので20回近くもこの口上を言いながら家中を撒いてまわりますから一時間ほど掛かってしまいます。
羽織袴で五合枡の大豆を持ち、家中を豆をまいてまわります。
兄弟四人と申しましたが年が離れていて、私と直ぐ下の弟は5つ、一番下の弟はひと回り12歳も違いますから、次男坊の私が一番多く行っていました。
子供で 羽織袴で腰には刀を差して格好良いし、最初は緊張して張り切っているのですが、刀は鉄の塊なので重いし、部屋数が多すぎて、10部屋もまわった頃にはもくたびれている。 でも子供ながら大切なことだからと我慢。
普段着たこともない羽織袴は格好良いが風通しがよくて大寒には寒い。
どうにかすべての部屋などに巻き終わって終わったころにはもう
へとへと。
小さい頃は途中で嫌になり泣き出したこともあったそうです。
それが終わってからようやく皆で晩ご飯になり、家族全員がその年齢の数だけ豆を食べます。
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この豆をまく時の口上(こうじょう)ですが、鳥取藩の武士の家の方の中には同じ様なものが伝わっているかもしれませんが、近所の方や遠方の方、他県の方に尋ねても、誰に聞いても知らないと言われます。長い歴史の中 どこからきたものなのでしょう?
皆さんの家では どうですか
少し かわった口上のある方は教えてくださいませんか
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柊鰯は「やいかがし」とも言いますが、鰯を焼くと臭いが更にでることから、『焼き嗅がし』が転じて『やいかがし』となったとも言われます。
ところで、ことわざの『鰯の頭も信心から』もこの柊鰯から始まりました。
信仰心の不思議さを皮肉っぽく述べたものですが、いわしの頭のようなあまり役に立たないものでも、それを信じる人には何よりも大切なものであるということで、それほど信じる力は大きいということを示しています。また、何でもなさそうなものを信じる人を揶揄するときにも使われますね。
このことわざは、江戸時代刊行の俳諧の基本文献『毛吹草(けふきぐさ)』(1645年)に「いわしのかしらもしんじんから」と出てきているそうで、このことわざも古くから使われていたのですね。
さて、この柊鰯(ひいらぎいわし)の風習はいつ頃から始まったのか確かな資料はまだ出ていなくて判らないそうですが、「柊」だけなら、奈良時代初期編纂の『古事記(711年)』に、ヤマトタケルの東征に『比比羅木之八尋矛(ひひらぎのやほこのほこ)』柊の木で作った八尋の矛(ほこ)というのが出てきます。しかし、矛(ほこ)とは両刃の剣のことですから木で作った剣など武器にはなりません。これは鋭い棘の葉を持っている柊の霊を矛に托してヒイラギで出来た矛を持っている人物は霊力を授けられるとしたのでしょう。
