染めと織の万葉慕情60   涙に濡れる袖の歌    1983/06/03 吉田たすく | foo-d 風土

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染めと織の万葉慕情60

  涙に濡れる袖の歌

   1983/06/03 吉田たすく

 

水に濡れる袖の歌に次いで、今回は涙に濡れる袖の歌をとりあげてみます。袖を振り、袖の別れで後の心のいたみに泣くさまを涙をぬぐう袖の様子で表わすのです。

 

 柿本人磨が国造として石見の国に居たころ、京へ参上のため妻の依羅娘子(よさみのをのめ)を石見に置いて旅立ちして行く時の歌です。

 

 石見の海の韓崎の礁に深海松(ふかみる) が生え、玉藻が生えているが

 

 玉藻なす 靡(なびき)寐(ね)し児を 深海松の 深めて思へど さ寝し夜は いくだもあらず  はう蔓の別れし来れば…

 

 海松(みる)や玉藻が海中でなびくように、互いになびき寝した妻(ひ

と)の事を深海松の言葉のように深く思っていたが、うま寝した夜はいく

らもなく別れて来た。

 

 ・・・・・・黄葉(もみじ)の 散りの乱(まが)ひに 妹(いも)が袖 さやにも見えず・・・・・・

 

 紅葉が散りみだれているので、妻の振る袖もはっきり見えもせず

 

 ・・・・・入日さしぬれ  大夫(ますらを)と 思へるわれも 敷栲(しきたへ)の 衣の袖は 通りて濡れぬ

 

 入日が差して来て暮れかかって来ると、男子と思っている私も敷栲の衣の袖は涙で濡れてしまうというのです。衣にかかる枕詞は普通「白の衣」とくるのですが、この歌では敷栲となっています。 しきたえは衣にもかかりますが、 おもに枕の枕詞に使われていますので、自分の袖を白栲と詠まないで敷栲と詠っているのは、妻と「さ寝」した夜の枕にした袖を表わしているのでしょう。 涙に濡れる袖に、思いの深さが読みとれるのです。

 

 次の歌は天武天皇が崩(かむあが)りました時に、大后(おおきさき、後の持統天皇)がお作りになった歌。

 

 わがが大君が、夕方には御覧になり、朝はお訪ねになるように、思われる神岳の山の紅葉を今日もおたずねになり、明日も御覧になることであろうか。その山を眺めやっては

 

・・・・・・その山を 振りさけ見つつ 夕されば あやに悲しび 明けく

れば うらさび暮し 荒栲(あらたへ)の 衣の袖は 乾(ふ)る時もなし

 

夕方になれば虫ように悲しみ、夜が明けると、心さびしく暮らし、喪服の袖は涙で濡れて乾く時もなく泣き続けている。

 その涙の袖の枕詞は白栲や敷栲でなく、荒栲 (あらたへ)になっています。当時の喪服には、藤衣といって藤かづらの皮の繊維を糸にして荒い織物を作って着たのです。 韓国の現代の喪服は麻衣だそうですが、衣服文化が半島から入って来た当時、普通に着る服よりも一段と粗末な繊維の服を着るならわしがあったのでしょう。

 

    (新匠工芸会会員、織物作家)

 

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敷栲

 寝所に敷く布

 

 

白栲(白妙)

梶の木の皮などの繊維で作った白い布

 

荒栲(あらたへ)

織り目の粗い布の総称
平安時代以降は麻織物のことが言われるようになった

 

栲(妙)たえとは

楮(こうぞ)、藤、栲(かじ)、などの樹皮をはぎ、内皮をとって細長く裂き、これを連結して撚り(より)をかけて糸にして、居座機(いざりばた)で織った、古代衣料のことである。布の触感や外観の差で、粗いもの、純白のもの、しなやかなもの、光沢のあるものなどの区別によって、荒妙(あらたえ)、白妙(しろたえ)、和妙(にぎたえ)、照多閉(てるたえ)、明多閉(あかるたえ)と呼ばれていた。妙の類は、一般用途として広く使われ、純白で清浄なため、神事にも利用されていた。平安時代以降になると、妙は、一般布帛(ふはく)をさすようになり、荒栲(妙)は麻布を、和栲(妙)は絹布をさすようになった。

 

 

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柿本 人麻呂(かきのもと の ひとまろ)

斉明天皇6年(660年)頃 -神亀元年(724年)3月18日

『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌9首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。

一番有名な歌は百人一首の

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

 

人麻呂は歌人として称えられるだけでなく、和歌の上達などに霊験がある存在として崇拝され柿本人麻呂を祀った神社が日本各地にありますが、恵那市明智町にも柿本人麻呂社があります。

 

柿本人麻呂社(恵那市明智町)概要: 柿本人麻呂社の創建は不詳ですが伝承によると明智光秀が柿本人麻呂(万葉歌人として有名な歌聖)の分霊を八王子神社の境内に勧請したのが始まりと伝えられています。現在の社殿は明智光秀が建立したと伝わる古建築物で一間社春日造、切妻、妻入、正面1向拝付、桁行約2.8m、梁間約1.5m、銅板葺、外壁は板張素地造、浜縁、高欄無し、脇障子無し、明智氏の家紋である桔梗が掲げられ、岐阜県指定文化財に指定されています。

伝承によれば、文武を志す光秀公が学問所には天神を、八王子神社には人麻呂を祀り、社前に紅葉(楓)を植えたと伝えられています。

この社殿には明智氏の家紋である桔梗紋が彫られ、大和絵風の歌聖柿本人麻呂の画像が祀られています。