染めと織の万葉慕情45   憶良の貧窮問答歌(1) | foo-d 風土

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染めと織の万葉慕情45

  憶良の貧窮問答歌(1)

   1983/02/18 吉田たすく

 朝の散歩は歩かないで、自転車で行くことにしています。家から一時間で歩いて帰る半径にくらべて、自転車で走ればかな遠方まで足をのばすことができるのです。いろいろと風景の違った所へ行ってこられるのが楽しみです。

この間の雪の次の日に、自転車で伯耆国分寺跡(ほうきこくふあと)(注1)へ出かけました。日向の道は雪がとけ、日陰や林の中にはまだ雪の白さが目立っていました。鼻から出る息は白く見え、ハンドルをにぎる手先は、切れるように冷たい

朝でした。

 国分寺跡を通り、国庁跡(こくちょうあと)に来ました。雪をかむった農家の屋根、屋根の向こうに打吹山(うつぶきやま)(注2)が黒く見えていました。 この国庁で、かつて昔、山上憶良が伯耆の国政をとっていたことが思われて来たのです。 憶良のような国造(くにのみやっこ、こくぞう)は、このあたりのどんな館に住んでいたのでしょうか。また、そのころの庶民はどんな家に住んで

いたのでしょう。竪穴の住居か、ほっ立柱の草屋根だったのだろうか。 床があっただろうか、 土間の上にごろ寝だったのだろうか、などと考えているうち、憶良の貧窮問答歌が頭にうかんで来たのです。

 この歌は貧者窮者が問答の形で詠い、実に写実的な表現で当時の貧しい人の生活を書き残しています。伯耆の国で詠んだとは記されていませんが、この歌を読んでいると、ちょうど今立っているこの地、伯耆国庁のまわりの貧しい住居・生活そのものを詠んだもののように思われてならないのです。

 草屋根のすき間から大山(だいせん)おろしの雪まじりの風が住居内に音を立てて吹きすさぶ生活が見えるようです。

  万葉の染織に関係する歌はどの歌も恋歌や愛の歌につかわれていて、はなやかで、なまめかしい歌ですが、まったく正反対にこの憶良の歌は染織の言葉でいかに貧しいかを表現しているのです。

 

 「寒くしあれば 麻 (あさぶすま)引き被(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有りのことごと服襲(きそ)へども 寒き夜すらを」

と、おんぼろ生活の形容につかっています。

麻のドンゴロスのようなぼろの夜具を引きかぶって、袖なしの麻のチャンチャンコを有りったけ着こんでも、まだまだ寒くと詠うのです。

 今は新築の家の並ぶ道を自転車で走りながら、万葉のころの貧しい人たちの生活を思いうかべたことでした。

来週は山上憶良の貧窮問答歌の全文をお送りしましょう。

                 (新匠工芸会会員、織物作家)

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 (注1) 伯耆国分寺跡(ほうきこくふあと) 鳥取県倉吉市国府、国分寺 天平13年(741年)聖武天皇の発願により全国の国ごとに造営された国立の寺院跡です。 国府川左岸の丘陵上に立地する奈良時代創建の伯耆国の国分僧寺跡。寺域は東西約182m、南北約160mで、溝と土塁(南側は溝と築地塀)で画される。南門、金堂、講堂の伽藍中軸線があり、塔は東南隅に位置する。

 天暦2年(948)焼失。出土遺物は、多量の瓦のほか、風鐸、杖頭などで、創建時の軒丸・軒平瓦は伯耆国分寺特有の文様をもつほか、塔跡付近出土の風鐸はほぼ完形の稀な例である。

 

 (注2) 打吹山(うつぶきやま)は、鳥取県倉吉市にある山で市を象徴する山、天女伝説のある山で、残された天女の子どもが、この山の頂で太鼓や笛を吹いて天に帰った母親を思い偲んだと伝えられている。この打吹山を中心に倉吉の街が開かれた。山頂には打吹城が戦国時代まであり、豊臣秀吉により滅ぼされた。標高204m。

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