不登校傾向にある生徒や、人間関係に悩むほとんどの生徒にとって、通信制学校は非常に魅力を感じる場所になりつつあります。
 現に、生徒の家庭環境を聞くと兄弟姉妹に通信制学校やそれに類する教育機関(インターネット高校と呼ばれるもの)に所属している生徒が全体の5%ほど存在しています。
 体や心が落ち込んでいるときに真っ先に選択肢に入ってくる通信制の学校に、どういった魅力を感じているのでしょう。全日制の学校に魅力を感じなくなって、相対的に通信制が優位になっているのかもしれません。そのあたりについて、少し考えてみたいと思います。

 こういった状況に置かれた生徒に直接尋ねてみると、口裏を合わせたかのように「環境を変えれば、自分が変われるかもしれない」といったニュアンスのことを話します。
 さて、根底にあるのはどういった思考なのか。

 「FM FESTIVAL 2012 未来授業」で養老孟司氏は次のように述べています。
 ”環境問題、自然環境など様々な場面で使われる「環境」という言葉。多くの人はその意味を理解できてない。それは教育にも責任の一端があるが、我々はその意味をもう一度見直す必要が出てきた。
「自分とはなにか」という問いが騒がれる昨今、「自分」と「環境」の違いを掴むことが答えに近づくアプローチになるのではないだろうか。
 それは「自分=環境」である場合もあるし「環境=世界」という場合もある。田を見て将来の自分だと思えますか”

 つまり、環境の一部として、自分が存在するということです。自分の外の世界のことを「環境」と定義してしまうのは、それまでの経験と受けてきた教育によるものです。学校や家庭での生活全般あらゆる出来事において、自分自身が外の世界に変化を起こす影響力がないと錯覚してしまった場合、「自分には何も変えられない」といった無力感を持ってしまいます。

 たしかに、何か変化を起こさなければ生き残れない状況で、自分に変化を起こすような影響力がないとしたら、外の世界を取り替えて、生き残る可能性に賭けるという判断は正しいといえます。また命に関わるようなケースではある程度のリスクも覚悟する必要がでてきます。

 しかし、当事者が気が付いていないこと、当事者には見えない部分が存在することも確かです。こういった状況では、ほとんどの場合、教室に入れなくなったり、学校に来なくなったり、自室に引きこもったりします。
 こうなると、自分がいなくなった教室内の変化や友達の気持ち、雰囲気の変化などは全く見えなくなります。
 実際担任をしてみるとわかりますが、生徒が一人休むだけで教室全体の雰囲気は「ガラッ」と変わります。普段は明るい表情を絶やさない生徒が急に体調不良を訴えたり、逆に普段は全く発言しないようなおとなしい生徒が急に明るくなったりと様々です。

 話を戻しますが、通信制への転学により自分の内側・外側の連動を感じる機会が減ってしまうことがあれば、それは自分の考えと周囲の考えを調整する力やそういった力を身につける機会を失う恐れがあります。つまり、ここで重要なことは、自分を環境に含めて話を進めること。
 これからの社会において、他者と関わる機会を減らすことは、大きなリスク(予測可能な危険)、デンジャー(わざわざとる必要のない危険)となりえるということです。選択のときにこのような部分に潜むリスクについて周囲や本人が改めて認識することで判断が大きく変わることがあるかもしれません。