最近はSNS上での炎上がよく見られるようになりました。発信者の意図とは裏腹に騒ぎ立てる人たちの存在が可視化されました。中には、炎上するべくして炎上している話題もありますが、そうでない場合の方がよく目につきます。
例えば、堀江貴文氏の「文字や行間が読めない人がほとんどだということがわかりました」といった発言も各所で小さな炎上を起こしているようですが、書籍や動画などを見る限り、悪意を感じることはありません。この真意は「多様性を認めよう、多様性を認められる社会を実現しよう」という内容のように感じます。
「文字の読解が苦手であれば、無理をする必要がない」「苦手なことを頑張るよりも、他の分野の得意が隠れているからそれを探したほうがいい」
という前提があるようです。これは何も文字だけでなく、計算が苦手だとか、外国語が苦手といったものも同様です。
つまり、個人が得意なことを生かせる社会を理想としているだけで、現在行われている授業や学校自体の活動を否定しているわけではないということです。
ただし、そういった理想を「実現できないのなら」既存の学校は不要なのではないか、と言っているに過ぎないのです。
だから仮に、学校の勉強を頑張って大学に入りたいと思うのであれば、日本の制度上は教科の勉強が必要になりますし、ある程度の苦手も努力する必要が出てきます。
勉強に限らず、得意なスポーツを生かして進学したり、就職して実業団で活躍したり、あるいはプロを目指したりすることも全く問題ありません。
もし、得意でないにしても、好きなのであれば問題ない。苦手だと思っていても、周囲から応援や支援を受けて、やってみたら案外好きになれた、得意になれたという経験もあると思います。
しかし、ここで気を付けなければならないのは、「いくらやっても好きになれない、できない人」の存在です。実際に学校で教えているとそういった生徒は一定数、存在します。
また、数年間の学校生活が、「苦手の克服」だけで終わってしまう生徒も多数存在しています。これについても全てを悪だとは感じません。
そういった人たちは無理をする必要がない。ただ、それだけです。しかし、現在の学校を基盤とした社会のシステム上、今のところ、無理をするしかありません。
そこで、ICTです。閉鎖的なつながりを仮想空間で実現するツールによって、この問題を解決する可能性が高いと考えています。
苦手なことに無理をする必要はない。させる必要もない。その代わりに、好きなことや得意なことを発信させる。発信によって評価される。
学校における評価が、授業やそれに伴う取り組みとペーパーテストによる一本建てである現状を、閉鎖的なSNSを使って「人格評価の可視化」を行う。要するに、評価に二面性を持たせるということです。
個性を生かせる基礎をつくり、学校で練習したうえで、社会に出ていく。
こういったことが実現可能になったのは、スマホの登場によって、低コストに学び直しができるようになったおかげだと思います。