以前に、「ブスはもう見たくない」という意味合いの記事を書いたことがあります。
だけどそれは、誰か他人に対しての、
「ブスなお前はさっさとわたしの目の前から消え失せろ」
という意味ではないのです。
そもそも論ですが、
「ブス」と言う言葉にどうしても強く反応してしまう方がいらっしゃいます。
そういう方の特徴と言うのは、
「今現在の自分」の光と闇を、
客観的に観る(観察する)ことが苦手です。
例えば、
「本当はわたしって、世間の平均よりブス気味かもしれない」
って本当は思って(気付いて)いたとしても、
「自分のことを卑下するなんてダメなこと。
せっかく産んでもらったこの顔を、そんな風に思うなんて親不孝だわ。」
などと、なんとか自我を保つことにエネルギーを注ぐ。
だけど例えばもう、
それがいわゆる「ブスのはじまり」です。
実際に、「ブス」とか「悪口」に過剰反応する人と言うのは、
実際の美人度も、人生の満足度も、
中途半端な感じの方(に見える)が多いのです。
本当はどんな自分になりたいのか?
自分では何とか「そこそこの美人」だと思うけれど、
世間の反応が「まぁまぁ普通の顔の人」扱いしてくることに、
果たして自分は満足しているのか?
現在はますます、
「性別」と言ってもひとくくりにはできない世の中です。
それでも、外見を少しでも良くしたいとか、
印象を良くしたいとか、
そういうところに素直になれない人を、
わたしは「ブス」と呼んでいます。
実際の顔の造形はともかく、
自分の理想に自分を近づける努力をしている人、
というのは、発するものが全然違います。
「別に、チヤホヤされることに興味なんてないし」
「別に、人から美人と思われなくたっていいし」
そういう方も実際にはいらっしゃるかもしれません。
だけど単純に、
「そういう人とは話が合わないからご縁がないんだろうなぁ」
と思ってしまうのです。
だって、「理想の自分像」は「きれいな人」。
そして、仮にわたしが「きれいな人」になれたとしたら、
「会うたびに憧れてしまうような素敵な人」に、
友人・知人として周りにいてほしいから。
性格が悪かろうが好かろうが、
大切なのは「一緒にいて楽しいかどうか」ですから、
やはりいろんな意味での価値観は似ていたほうが良いのです。
だけど、この世はすべて、
自分の内面の投影でできている。
つまり、現実的にはまだ「そう」なっていないのなら、
まだまだ自分が自分の理想になれていない、
と言うことを思い知るだけです。
人に言いたいことは、自分から自分へのメッセージ。
わたしはそういう常識、そういう世界観の中で生きています。
だからこそ、
「目の前の現実の理想的ではない部分」を、
しっかりと公明正大にして、
「じゃぁ、これからどうする?」
と方向性を決めるようにしています。
簡単に言うと、
「イケてる自分」のことはちゃんと「イケてない」と認める。
逆に、イケてるときもちゃんとイケてることを認める。
(これも結構勇気が要りますね!)
あ、今日のわたし、ブスだな、死にたい とか
あ、今日はイケてるかも❤ とか
普通に毎日自分をジャッジして、
理想の自分や理想の生活と、
「実際の今」がどうなっているかを観察しています。
その「差」を埋めていくことは、
エンドレスかもしれません。
だけど、
「この差を埋めたい!どうしたら埋まる??」
と試行錯誤することは、
「ご自愛」のひとつでもあります。
自分の伸びしろを誰よりも信じて、
誰よりもそこに実際に賭けてあげる。
それができるのは世界にたった一人、
自分だけなのです
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最愛の自分に、最高の運命を
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