サンドウィッチマンの富澤たけしさんは尿路結石を度々ネタにしている。「地球人富澤」では「隕石より怖い石」と言っている。
滅多に経験できない事だから何とか伝えたいと、ラジオ番組ではワイングラスを持ち込み音を伝えた。ラジオでは音しか伝えられないので、たくさんのグラスで試したうえで、一番良い音のグラスをスタジオに持ってきたのだ。石がカラカラとよい音がした。
何かを伝え、表現することとは、日常生活でもみんなやっている。芸術家はいろんな方法を試みている。
昔の音楽コンサートで、大きな話題になった出来事がある。
ジョン・ケージはステージ上でピアノを開いても何にも弾き始めない。それが「4分33秒」の曲だった。そこにあるメッセージは何だったのか?音のないピアノコンサート。
音楽とは何か、耳を澄ませば音がたくさん溢れているが、そんな雑音を全部なくしても何か聞こえるものがあるのではないか?それが音楽の始まりなのではないか?何かあるもの、たくさんあるもの、そんなあるものだけが、あるわけではない。「ないということ」にも意味があるのではないかと思う。
そんなことを提示したジョン・ケージだったのだろうか。
音楽だけでなく、文学で筒井康隆が行おうとした、白紙のページは何だったのか?筒井康隆「只野教授」が意識を失った事を数ページの白紙で表したというものだ。
劇作家ベケットの「壺の中の人」で表したそうとしたことは何だったのか?壺の中で暮らす主人公はほぼ手足の機能を失い、人間関係や社会性も失っている。かろうじてわずかな言葉だけが残っている。昼も夜も壺の中にいて、誰とも交流しない。日常生活は全く失っている。それでは彼は人間ではないと言えるだろうか。どこが人間と言えなくなる境界なのだろうか。
何と何を失ったら人間ではなくなるのだろうか。そんなことをベケットは問うているのかもしれない。
Boris Vianが「北京の秋」で表した、崩れ落ちてゆく都市は何だったのか?人間が一生懸命地下鉄を作る営々とした行為が、一瞬で砂に飲まれていく。せっかく作った人間から見れば不条理だろう。しかしなぜ砂漠に地下鉄を作る必要があるのか。そちらの方が不条理だろうと作者は言っているのかもしれない。
表現者が「ある」ことを表現したり、「無い」ことを表現することで意味の境界を探ろうとしているのではないか。
私たちが日々営々と行っている行為、例えば毎日の仕事や生活、病との闘い、それらについてどんな意味があるのか。
そういうことを考えてみても良いのかもしれない。
(代表:橋本 裕子)
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