2024/5/1水、京都府織物機械金属振興センターでIoT基礎技術セミナーしてきました | yet another 舞鶴電脳工作室

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 京都府舞鶴市で、舞鶴電脳工作室(cyber Work Shop in Maizuru)と言う、プラモデル/ラジコン/鉄道模型/電子部品/街角工作室そしてプログラミング教室の店をやっています。いろいろ雑多な絵日記風のブログですが、よろしくお願いします。

2024/5/1水、舞鶴電脳工作室店長は、京丹後市峰山町の京都府織物機械金属振興センター(地元の人には、織セン(おりせん)の愛称で呼ばれます)でIoT基礎技術セミナーをしてきました。大変充実したセミナーで楽しかったです。また、織センの展示パネルを見て感激しました。もちろん、戦前からの歴史が深い織物産業の他に、ある意味、日本のマイコンの発祥(手回し機械計算機→ビジコン社とIntelの世界初のマイコン4004につながる)と言う歴史や、ホンダ車が高性能なののゆえんである精密機械加工などが分かります。これは、丹後地方のトップ企業である日進製作所の牽引によります(もちろん、舞鶴高専も深くかかわっていて、舞鶴高専が主幹の舞鶴地域テクノアカデミアでも日進製作所様には大変お世話になっていて、多くの卒業生が就職しています)。

 織センは小中高の社会見学、職業/技術体験の場でもあり、非常に心強いです。

 

IoT基礎技術セミナーは、中小企業新入社員研修のためのセミナーのひとつで、技術職員の方の準備が万全だったのと、参加者が粘り強く取り組んでくれて、工作機械の信号灯(パトライト)をスマホやパソコンでインターネット越しに可視化することに全員が完成させることができ、非常に充実していました。やっぱりフレッシュな新人は良いですね。この動画は、帰るまぎわの国旗日の丸と京都府の旗および午後五時のメロディーから、行きの与謝野町から京丹後市への峠道(国道312号線)、そして峰山のマイン(平和堂系)の呼び込み君です。

 

大変充実した研修イベント、織センは京都府の公立の工業試験所の一つではありますが、地域貢献が半端ないです。

大研究室でのIoT基礎技術セミナー

終了時、技術職員の方に大変お世話になり、特にマンツーマンのアシスタントなど、大変きめこまやかで良いセミナーでした。

織セン到着時

手前から、A,B,C棟、事務所はA棟にあります。

国旗日の丸と京都府の旗

大きな表札

B棟2Fのパネル

交流スペース、自由なミーティングに予約使用できます。展示物が凄い

実は、丹後地方は(も)機械金属業のルーツと言える深い歴史があります。

これが手回し計算機、ポリテクカレッジ京都(西舞鶴)にもあります。

私の祖父の会社「町田電設株式会社」の事務室にもありました。

ビジコム(日本計算機の後身)のHL-21

NHKスペシャル『電子立国日本の自叙伝』第4回「電卓戦争」(1991年7月28日放送)は、

情報処理関係の方は、ぜひご覧ください。実は計算機、マイコンは日本発祥なところがあるのです。

1 ビジコン社の発祥
 日本計算器(後のビジコン社)の創始者は小島和三郎である。彼は1918年、中国(旧満州)の奉天で「昌和洋行」(後の「昌和商店」)を設立。計算機、タイプライターなどの事務機械や文具のほか、自動車、自転車、タイヤなどの車両関連商品の輸入販売を行い、大きな成功をおさめた。和三郎は計算機に大変な情熱を持っており、タイガー計算器を退職した平田勝次郎を雇い1942年に富士星計算器製作所を設立(1945年に日本計算器(株)に改称)し、手回し式計算機の製造販売を行った。その後、1957年に昌和商店から計算機の販売部門が分離され、日本計算器販売(株)が設立された。日本計算器販売(株)は、日本計算機の製品の他、三菱電機のMELCOM計算機、米国SMCタイプライターなどの製品を扱うとともに、計算機センターを発足させ、ソフト、ハード両面のサービス体制を構築した。1970年には、商号と商品イメージと統一させるため、日本計算器販売(株)はビジコン(株)に社名変更される。 

 

4 インテルとビジコンの共同開発

 その後、ビジコン社は電卓用のチップの開発に取り組む。1969年4月に当時新興企業であったINTEL社とマイクロコンピュータ開発に関する 仮契約を結び、翌年2月に本契約を結ぶ。この契約では、INTEL社がビジコン社の要請を受けて設計製造する4個のLSIについて、両社が共同して開発にあたること、開発費用としてビジコン社が10万ドルをINTEL社に支払うこと、開発された製品はビジコン社が販売権を独占するということが取り決められた。ビジコン社はこの契約に基づき自社で設計した論理回路をINTEL社に示した。この論理回路を持って3人のビジコン社員が渡米するが、その中の一人が嶋正利である。嶋はテッド・ホフやフェデリコ・ファジンなどINTELの技術者と共同で1971年3月に4004を完成する(嶋はその後INTEL社に移り8008の開発も担当することになる)。契約から3年後の1973年4月には両社の間で契約の修正が行われ、ビジコン社は独占販売権を放棄する一方、INTEL社はチップ販売権の5%をビジコン社に支払うことが合意された。
 4004の開発の成功を受け、ビジコン社は1972年に4004を搭載した電卓 141PF を発売する。この電卓は、マイクロ・プロセッサを搭載しているため、ROMによるプログラムを追加するだけで新しい機能を追加することができた。

Intel 4004を初めて搭載した「141-PF」が2011年度(平成23年度)の情報処理技術遺産に認定されている。まだ、ディスプレイではなく印刷機だったころ。

 

 

株式会社日進製作所(にっしんせいさくじょ)は、京都府京丹後市に本社を置く自動車オートバイエンジン部品、精密加工部品(工業用ミシン部品他)、工作機械(竪型高速自動ホーニング盤、その他専用機)の開発、製造、販売を行うメーカーである。

 2007年(平成19年)の東京商工リサーチによれば丹後圏で最大の企業であり、ホーニング盤に関しては業界トップのシェアを誇る

 

 

創業者の錦織米市(にしこおりよねいち)は1913年(大正2年)10月12日に生まれた。1931年(昭和6年)に島根県立工業学校(現在の島根県立松江工業高等学校)機械科を卒業し、同年にタイガー計算機株式会社に入社した。1940年(昭和15年)には冨士精工に入社し、一貫して研究部門を担当した。冨士精工時代には日本計算機株式会社の設立に参画したほか、1944年(昭和16年)には工場長に就任している。

 1944年(昭和19年)に、今日の本社所在地である京都府中郡峰山町(現在の京丹後市峰山町)に来た。物づくりで人の役にたちたいと考えていた錦織は、日本で早くから輸出を始めていた家庭用ミシンの将来性に目を付け、従業員5人で家庭用ミシン部品の製造を始めた。1946年(昭和21年)9月に峰山町字泉で創業し、創業地は金刀比羅神社の境内の一角とされる。製品製作に必要な機械設備は独自に作りあげた。

 しかし、ミシン製造産業は規格化された製品であるため、リスクは低いが同業他社間との競争が激しい。それに対してオートバイ自動車部品の大部分は、各社各モデルごとの専用部品製作のため、昭和30年代の初めころより同社は自動車産業の成長を予見し自動車部品への進出に乗り出した。

 こうしたなかで同社の方向を大きく変えたのが1958年(昭和33年)本田技研工業からの二輪車部品生産依頼であった。 [中略] ただし、その注文内容は品質、納期、単価などがかなり厳しいものであったといい、後年当時の状況を錦織は「こういう田舎だとのんびりして会社がだめになってしまう。本田の厳しさを取り入れ、初めは薬だと思って採算を度外視してやった」と語っている。1959年(昭和34年)9月には鍛造工場を建設して車両部品の製造を開始し、1961年(昭和36年)10月には工作機械の製造も開始した。

 

機械屋の本領、舞鶴高専機械工学科出身の私としては最高に感じます。ぜひ舞鶴高専機械工学科への進学も考えてみてください。

 1972年(昭和47年)11月には竪型高速自動ホーニング盤の製造を開始した。

 2007年(平成19年)の東京商工リサーチによる情報誌『エラベル』きょうと経済2007に掲載の「京都府立法人申告所得ランキング」において、丹後地域ではトップとなる企業に登りつめた。2018年(平成30年)頃には金刀比羅神社の境内脇に日進製作所創業記念館が完成した。

 

いろいろな展示、ハーレーの部品も

経が岬灯台と丹後海陸交通バス

 

にゃんべる良いなあ。

ふるさと納税でゲットできるそうです。

 

板金加工

帰り17:00

ホンダ N-one、実は凄いんです。

舞鶴から峰山への経路

与謝野町からは峠越えです。(軽い上り坂)

西舞鶴出発

宮津市由良、由良川左岸、右端に対岸の丹後神崎駅が見えます。

安寿姫の汐汲み浜

宮津市街へ

天橋立が見えます

与謝野駅からの、加悦鉄道跡のサイクリングロード、実際に通勤通学者が多く、非常に有効なようです。このあたりにコウノトリが舞うこともあります。

峰山のマイン(平和堂系)

織セン近くのスーパーへ

昼弁当

ブルーツースアンプ良かったです。スピーカーケーブルを伸ばそう。

帰り、リサイクルマートへ寄りました。

マインへ

丹後地方ならではのものも

天橋立ハム

帰宅して晩御飯