今日は久し振りに新通所先へ行った。またうるさいオバハンと、そのお友達が大声で新聞を読んでは話をしている。
一昨日、帰宅してから部屋の床に小さな金具が落ちていたが、何か分からないので、捨てた。今日、出かける時に初めて、腕時計のバンドの留め具だと気がついた。午後に高島屋に行って、溜まったポイントを全額、クーポン券に引き換えて、新しいものと交換した。そうしたら、クーポン券2枚分、4,000円相当が余ってしまった。それで店員に聞いてみると、クーポン券には書かれていないが、時間の制限があるといわれた。それで近くにあるチケットショップで換金したら、3,600円になった。400円相当が損した事になる。
ヨドバに行って頼まれた電波時計ではない掛け時計を買ってから、帰った。
ヤフオクで出品したものに複数のウオッチが入っていたのに、誰も入札しない。あまり愉快ではない。
中央公論新社から「上皇の日本史」という本が来月出るが、それとは別に倉山満が「国民が知らない上皇の日本史」という新書本を出した。一応、買って読んでみると、種本の今谷明、藤田覚、呉座勇一の3氏の著書が見え見えで、やたらに自分の本の宣伝ばかりしているやっつけ本だ。倉山満らしく、「ちなみに、この『五代の孫』の唯一の例外が伏見宮家です」とある。つまり、この人は伏見宮家の他に桂宮、有栖川宮、閑院宮の四親王家の存在を知らないわけだ。昭和22年に「皇籍剥奪」された閑院宮家の当主の春仁王は父宮の載仁親王が伏見宮家から養子に入っている。「皇籍剥奪された十一宮家は、男系でたどれば、すべて伏見宮家にたどり着きます」と大袈裟に書いている。勿論、「皇籍剥奪された十一宮家」には伏見宮家も含まれているから、どうすれば「伏見宮家にたどり着」くのだろうか?日本語になっていない。他の宮家でも邦家親王の王子や王孫、王曾孫の代なのに何代前まで遡っているのだろうか?藤原仲麻呂の乱で「今帝」として擁立された氷上塩焼を皇族時代の「塩焼王」と書いている。承久の乱の後に土御門院が「自ら島流しを申し出る」のは「深謀遠慮の行動です」、四条天皇が崩御されて、後嵯峨天皇が践祚した事を「皇室は何十年、何百年という長いスパンでものを考えます」と奇怪な事を書いている。鎌倉幕府が順徳院の皇子の忠成王の践祚を認めなかったから、後嵯峨天皇に御鉢が廻ったのに。光明天皇が光厳院の院宣で践祚した事を「すでに源平合戦以来、神器なき践祚は何回も経験しています。仮に三種の神器が欠けた場合、治天の君に力によって補うという知恵が皇室には根付いています」。後白河院の院宣による後鳥羽天皇の践祚と後伏見院の院宣による光厳天皇の践祚の例の2回が「何回も」になるようだ。この人、日本語、大丈夫だろうか?「皇室は何十年、何百年という長いスパンでものを考えます」から、寛容な南朝が正平の一統の際に光明院と崇光天皇に太上天皇の尊号を宣下したのは、わざわざ尊氏・義詮父子が帰順したのに、いつの日にか北朝の再建を容認していたのか?「地獄を二度も見た天皇・光厳院」にあるように崇光天皇から既に太上天皇の尊号を宣下されている光明院に改めて尊号を宣下したのは、「一方の大覚寺統の後村上天皇は自統が正統だとしているので、偽帝だったとしても恩情として尊号を許そうとしたのである」。つまり北朝を否認しながら、持明院統を慰撫する為だが、「仮に三種の神器が欠けた場合、治天の君に力によって補うという知恵が皇室には根付いています」と「主張」するなら気がつくはずだが、もし崇光天皇に譲位した光明院の皇位を否認した場合、後白河院の院宣による後鳥羽天皇の践祚も否認しなければ論旨が破綻するからだろう。後光厳天皇の践祚に際して、「今回は治天の君となる上皇を全員拉致されたのです」。治天の君=上皇?長慶天皇は退位して、院宣が残っているのに、どこかへ行っている。
藤原彰の「餓死した英霊たち」の文庫本が出ているとは知らなかった。さすが陸軍将校だったらしく、陸軍の事ばかり書いている。「これらの地域でも戦争末期には栄養失調が広がっており、とくに降伏して捕虜になってからの給養不足に陥った地域もあった。この戦没者はほとんどが病死であるが、その半分は栄養失調に基づくものと推定してよいだろう」。連合国側の管理下に置かれてからも日本軍の体質が全て問題なのだろう。解説で自身の本を素人にネットショップの書評欄で編集者出身の渡辺洋二より下だと批判したら激怒した一ノ瀬俊也センセー(こんなの、この気位の高いセンセーだけだ。これでいったら保阪正康や半藤一利、浅見雅男といった編集者出身の研究者と比較されたら、このセンセー、怒り狂うだろう)が秦郁彦批判を書いているが、どの地域でも、日本が降伏してからでも全て通り一遍に扱っていては問題がある。陸軍将校だったのに、陸軍の兵科あるいは相当官の問題について論じる中で輜重兵と主計官、軍医について触れているのに、何故か列挙した兵科の中で憲兵が落ちている。陸軍が兵科を廃止した後も憲兵科は残している。この本で敵の捕虜になってから日本軍に引き渡されたり、日本軍に解放された日本将兵について、「きびしい処理を命じている」と書いているのに、肝心の「きびしい処理」についてが昭和14年末に支那駐屯憲兵隊が「調査した二六名に『俘虜帰還者名簿』(匿名)」にある無期懲役を宣告された現役の一等兵の一例だけだ。「不起訴九名、審理中一六名、結審一名」であるから、9人は不起訴処分で済んだ事になる。この本にはノモンハン事件で「捕虜にたいする処罰」が「強化された」と書くのに、一番肝心な赤軍・モンゴル人民共和国軍側の捕虜になって帰還した将兵の「処罰」について書いていない。実際は将校こそ自決を強要されたが、下士官兵の中には「内地」に帰還して花屋を開業したと、たしか五味川純平の「ノモンハン」に出ていた。むしろ、引用されている井本熊男大佐の回想にある日露戦争でロシア軍の捕虜になった事で「仏印、ボルネオ等」に「流れ着いた」老人達の記述の方が、捕虜問題について重要な問題を示唆している。一ノ瀬俊也センセーが秦郁彦批判をしながら、秦氏が「餓死とならぶ異様な死のかたちである海没死-乗船(艦)が撃沈されたことによる溺死の問題に注目しているのは、戦争の実態を問ううえで重要である」と書いているが、ヨーロッパ戦線でも例えばドイツ軍とイタリア軍をイタリアから北アフリカに輸送する際に連合国側が攻撃した事や大西洋やインド洋で輸送船が日本軍を含む潜水艦や仮装巡洋艦に攻撃された例は、どうなるのだろうか?このセンセーは、そういう視点がないようだ。元々、陸軍ばかり書いている本にしても、「海没死ー乗船(艦)」とあるから、海軍将兵が乗艦した艦は勿論、陸軍の徴用船などの船員が乗船していた船舶と共に「溺死」するのも「異様な死のかたち」に見えるらしい。