彼女がつけたブラックマーク 【セリカ編】 その11 | FlyingVのブログ 『 so far so good 』

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男女、家族、そして友人達との様々な人間模様を書き記した記事が中心です。
みんカラから移転したものや創作したものを掲載しています。

月曜だというのに、朝から僕は、自分をコントロールするのに必死だった。
昨日、されるがままに僕の指を迎え入れ、身を任せた彼女と、今週、その続きが再開されることを思うと、満員電車だろうが所構わず、途端に自身が切なくなるのだ。
「来週ね。」と交わした約束手形。
その履行期限は、次の週、彼女が婚約者とハワイに行くまでの1週間。
婚約者のイケメン君がハワイで彼女の隙間を埋めてしまえば、ただの空手形に成り下がってしまうのだった。

玄関口を掃除する僕の横を、通勤してくる社員の車が絶え間なく通り過ぎて駐車場へと消えていった。
やがて、黒のセリカが現れ、定位置に停止すると、彼女が出てくるのが目に入り、僕は、努めて普段どおりを装い、彼女が僕の方へとやって来るのを待った。
コツコツとヒールを鳴らす音が近づく度に、タイトスカートが左右に波打ち、形のいい太ももが交互に浮かび上がった。
あの奥を、僕の指は知っている。
思い出さないようにしていても、蘇る発情した艶かしい体臭と指先の記憶。
それを打ち消そうとしている内に、彼女が目の前を通りかかった。
「おはようございます。」
僕の口から出たのは、いつも通りの挨拶だった。
ここ数ヶ月の間、社畜として訓練を受けた賜物だ。
「おはよう。」
珍しくストレートにした髪をなびかせ、強めのアイラインから涼しげな目線を僕に向けると、何事もなかったように、そっけなく素通りする彼女。
彼女もまた、会社という舞台で自分の役割を徹底できる演者だった。

「ちーちゃん、今日は、肌が艶々してないか。さては、昨日、デートだったな?」
定例の部署会議の前に、バーコード部長のお決まりのセクハラ発言が飛び出し、
「ええ、充実していました。部長も、たまには奥様といかがですか。」
と、さりげなくカウンターを返す彼女とは裏腹に、いつも以上に僕を不快にさせた。
その後も、彼女は事務的な指示をするだけで、徹底したクールさときたら、昨日、僕に跨ったあの艶かしい姿は、まるで別人だったかのような錯覚を覚えてしまうほどだ。

ためしに、昼休憩にスマホからメールを飛ばしてみても、何のレスポンスもなかった。
まさか、昨日のことはなかったことにされているのではとの不安が過ぎり、給湯室に一人で入るのを見計らい、思わず追いかけてしまった。
「随分、そっけない感じがするけど、なんか気に障ることした?」
「う~ん、そんなんじゃなくて。ハワイに行く前に、仕事を割り振っておかないといけないから、V君だけの相手してらんないの。ゴメンね。」
コップを洗いながら、こっちを振り向きもしない彼女。
「そうだね。来週だもんね。」
ハワイと聞いただけで、気持ちが重く沈んでいく。
「あ、ちょっと、ここ会社だからさ、私も一応上司なんだし、いきなり馴れ馴れしくするのは、止めない?」
「あ、はい、すいません。」
「そう、それで宜しい。ちゃんとお土産買ってくるから心配しないで。」
そう言って、ニッコリ笑うと僕の肩をポンと叩いた。
「いや、お土産を心配しているんじゃ・・・」
「私、もう仕事に戻らなくちゃ。また後で。」
そう言って、コップを片手に、そそくさと立ち去る彼女の後姿に、僕の不安は膨らみ、焦りが募った。
この日は、休暇中の仕事の割り振りが中心と、結局、僕には事務連絡程度の申し送りしか口を利くことはなく終わった。
その次の火曜も同じような調子で、彼女は来週分の仕事を前倒しするのと並行して、他部署との調整や不在時の対処について、忙しく動き回り、またしても僕のことは捨て置かれてしまったかのようだった。
水曜は、早朝から僕が県外の倉庫でのISO研修に借り出され、夕方、帰社した時にはとっくに彼女は帰宅した後で、顔もあわせることもなく時間は過ぎた。
疲れた体を引き摺り、帰宅した僕は、ベッドに体を横たえ、恋人からのメールに当たり障りのない返信をしつつ、ぼんやりとスマホをいじりながら、ぐちゃぐちゃになった頭の中を繋ぎ合わせていた。
だが、どこをどう巡ったとしても行き着くところは一つだった。
ハワイに行くことは間違いない。そして僕は「気をつけて行ってらっしゃい。」以外に、何か言える立場ではないということだ。

メールもあれから返ってくる事もなく、やっぱり、あの時のことは、彼女の一時の気の迷いがそうさせたのだろうと諦め始めた時、スマホがブルブルと震え出した。
ディスプレイを見るなり、
「もしもし。」
飛び上がりたい気持ちをぐっと堪えて、敢えて押し殺したかのような声で取ると、
「やっと、電話できた。」
その屈託のない声に、あの時の車内で、『やだ、もう。』と恥らう彼女の姿が重なった。
「今日、話が出来るかなと思ったら、新倉庫に直行だったんだね。私すっかり忘れてて。」
「いやいや、指示出したの誰でしたっけ。」
「ごめんね~」
「ハワイ楽しみなんでしょ。お忙しいんでしたら、もう切りますけど。」
男の嫉妬がみっともないと分かっていても、口をついて出てしてしまう。
「なんで、そんな意地悪するのよ。こっちだって、わざわざ電話してあげたのに。」
「どこまで上目線なんですか。僕はすごく楽しみにしてたんですから、あの約束。」
とは言いつつも、『あの約束』は、僕の中では半ば不良債権として処理が進み、もはや、忘れていようが分かっていてスルーしていようが、どちらに対しても耐性ができつつあったのだ。
僕は身構えた。もう一度、『ごめん。』と言われるのを。

しかし、彼女の答えは意外なものだった。
「私も楽しみにしてたんだよ。」
「え?楽しみって?嘘でしょ??」
「本当。」
「でも日曜フライトだから、今週って土曜まで、あと3日しかないし。」
「それなら、金曜、バチカンに集合ね。私は残業しないし、V君もそのつもりで。」
「うん、分かった。」
その後、たわいのない話を少しして、携帯を切った。
諦めかけていたあの約束が、金曜の夕方、ついに、果たされることになったのだ。
どん底だったテンションが、その反動で一気にレブまで振り切れた僕は、ベッドで横になったまま飛び跳ねていると、隣の部屋の姉が「うるさい。」と思い切り壁をどついてきた。


(続く)