由芙より始めよ(シン・AKB論) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

「由芙より始めよ」(シン・AKB論)

 ニーズのないところに攻めても得るものはない。必要とされてないのに売り込もうとするのは押し売りと変わらない。

 近ごろのAKBを見ていると、ゴジラ映画を思い出す。

 2000年代初頭、ゴジラのことしか知らない手塚昌明の駄作が続いたあと、ロクに怪獣映画の文法も分からないアクション畑の人間(北村龍平)に監督をさせたシリーズ最終作『ゴジラ FINAL WARS』(2004)。ゴジラ映画史上最高(当時)の製作費をかけ、そして平成ゴジラ映画史上最低の観客動員数を記録した。


【公式】「ゴジラ FINAL WARS」予告

 ゴジラをリブートさせたのは「エヴァ」の庵野秀明だ。庵野さんはゴジラヲタではないけれど、自らウルトラマンになった男であり、企画展「特撮博物館 」の館長を努めた人間…つまり特撮文化で育った特撮ヲタだった。

 彼が作った『シン・ゴジラ』(2016)は、エヴァの要素を取り入れながらも、ゴジラが現代日本に現れたらどうなるかを徹底的にシミュレートした映画であり、その意味では「初代ゴジラ」や「平成ガメラ」に近かった。それは決して一般向けじゃなかった。甘っちょろい恋愛要素なんて微塵もなく、平成ゴジラ特有のあのチープな人間ドラマも鳴りを潜めていた。あまりに純粋な怪獣映画だった。

 

『シン・ゴジラ』予告

 僕らはそれを熱狂的に迎えた。「こういうものが見たかったんだ」と、どこにそれだけのファンがいたんだって思うくらい、日本中からゴジラを、怪獣映画を、そして特撮文化を愛した人間たちがこの映画を見に来た。かつてゴジラに失望した人間たちに『シン・ゴジラ』は再び夢を見させた。

 だけど、東宝はなにも分かっちゃいなかった。彼らはまたもや、ゴジラ映画を見たこともないと公言し、怪獣映画の文法をまったく知らない「コナン」の監督(静野孔文)にまるで特撮マインドの感じられないアニメ版(アニゴジ)を作らせ、そうしてせっかくリブートさせた日本版ゴジラの火を途絶えさせた。誰も求めていないところに押し売りのように攻めていったゴジラはあっけなく撃退された。


アニメーション映画『GODZILLA 怪獣惑星』本予告

 近ごろのAKBを、48を見ていると、ゴジラ映画を思い出す。今村ねずみが作った公演(あるいは博多座の「仁義なき戦い」)は『ゴジラ FINAL WARS』にそっくりだったし、YouTuberのマネごとのようなYouTube動画はアニゴジを思い起こさせる。「それ誰が求めているの?」と思わせる点で。

 内向けにやっているだけでは先細りにしかならない。それは分かる。だけどAKBの、48の外にはアイドル文化が広がっているはずだ。そこにこそ潜在的な需要がある筈なのに、彼らが彼女たちが「外」と言う時には、なぜか「アイドル文化」を飛び越えて明後日の方向に行ってしまう。


 アイドルなんて必要としていない人間は世の中に山程いる。そんなところに売り込もうとしたって押し売りにしかならない。アイドル文化は国民全体が共有するものじゃなく、わずかな隙間に生きるニッチなヲタク文化なんだ。いい加減それを認識すべきだろう。

 それでも、その文化を必要としている人間はたしかにいる。だから、まず由芙より始めよ。寺嶋由芙や宗像明将や吉田尚記のような、AKBヲタではないけれどアイドル文化を愛する人間に刺さるもの、それを考えたらどうか。ゴジラをリブートさせた『シン・ゴジラ』のように。

(追記:それは別に「王道をやれ」って意味じゃない)

(追記2:柏木由紀のバズった動画は、まさにアイドル文化に触れたものだった)