マインドの欠如(アニゴジ) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


  酷評の嵐となっているアニメ版ゴジラ。その多くは稚拙な脚本に由来するでしょうが、ここでは映像表現の面も含めて、「マインドの欠如」という点から語っていきたいと思います。

1.SFマインド
  SFマインドの欠如を感じたのは、冒頭の宇宙船。いわゆる「宇宙葬」というかな、遺体を包んで宇宙へと流す場面が描かれます。「スタートレック」などにも出てきますし、スペースオペラではお馴染みの宇宙葬。本来なら、哀切さを掻き立てられるシーンの筈なんですが…

  これね、分かってないと思うのは、この宇宙船はもう人類に残された最後の砦なわけですよ。補給も出来ないという設定なんです。こういう場合、水一滴、土一粒ですら貴重な資源になります。それは人間の身体であっても変わりません。そこで宇宙葬なんて行われるか? っていう。ちゃんと考えているSFなら、こういう場合は人間の死体も循環させる=土に還すんですよ。

  そういうSFマインドがこの映画には欠けているのですな。ただ単にどっかで見てきた光景をなぞっているだけ。その場面の意味なんて考えてなくて、要はツギハギなんです。


2.用兵マインド(ネタばれ含みます)
  戦においてなにが重要か。もちろん、兵力や技術力、それらを支える国力が重要なのは言うまでもありません。ここではもうひとつの要素として、情報を挙げたいと思います。

 多くの人が引っかかるであろうシーンが物語の中盤にあります。まず、地球に帰ってきた彼らは、観測機を投下。大気の組成が変わっているためうまく観測できず、巨大生物らしきもの(おそらくゴジラ)に撃ち落とされてしまいます。まあ、ここまでは良いでしょう。

  ところが、このあとの判断がおかしい。要は、よく分かんなかったけど、とりあえず600人の精鋭部隊で突っ込んじまおうって結論になります。いや、ちょっと待て。段階どこ行った。過去映像の分析から、「ゴジラの弱点が分かった」という前提があるにせよですね、この巨大生物が同じ弱点を持っているなんて保証はどこにもないわけです。1万年(~2万年)も経っているんですから。

  用兵の基本は情報収集です。観測がうまくいかなかったから、地上に降りて情報収集しよう…ってとこまでは良いですよ。でも、それだったら斥候班を出せば済む話じゃないですか。なんでよく分からないところに600人も突っ込ますんですか。ましてや人類全部で4000人しかいないのに。そんな用兵はありえんですよ。

  挙げ句の果てに、ゴジラの亜種みたいな未知の翼竜に襲われて。で、作戦の変更を迫られると思いきや、なんだか理屈をこねて当初の作戦案に固執する。ロクに情報収集もしない、状況が変わっても当初の作戦案に固執する。これね、典型的な負け戦のパターンですよ。

  あの主人公には用兵のマインドが欠けています。そういう人物がいるってのは、別にあり得る話です。しかしながら、その主人公にみんな喜んで従ってしまう。そこにこそ、この映画が鑑賞者の感情移入を阻んでいる原因もあるでしょう。こちら側からはアホにしか見えない人間が、劇中では頭の良い設定になっている作品ほど見てられないものはありません。

  あの宇宙人が黒幕であって、意図的に負け戦のパターンに持ち込んでいるというのは、まあ予測はできます。アホな主人公に対して妙に協力的でね。でもね、そういう黒幕的な発想はゴジラの世界には合わんですよ。そういう人間的なみみっちい論理を踏み潰してしまうところにゴジラの魅力もあるはずで。

(補足:60年代ゴジラでは、たとえばX星人など陰謀を巡らす宇宙人が出てきます。ぼくは60年代ゴジラ嫌いですが、アニゴジの宇宙人もその設定を引き摺っているのはたしかでしょう。ただですね、X星人とかはあからさまに怪しいですし、実際すぐ陰謀がバレてその作品の内にぶっ潰されてしまいます。アニゴジみたいに次作まで引っ張ったりしないわけですよ)


3.特撮マインド (ネタばれ含みます)
  アニゴジが抱える、もうひとつのマインドの欠如。それは、怪獣マインド…あるいは特撮マインドの欠如です。

  なんだかご都合主義的に勝ってしまう主人公たち。でもそれは、じつはミニゴジラだったのです。本当のゴジラはこちら、ジャジャーン!! って、その展開はまあヨシとしましょう。

  でもね、ミニゴジラと、本当のゴジラ、体長の差は相当ある筈なのに、それが画面から全然伝わってこんの。いや、そこ最大の見せ場でしょ…と。周囲に何の建物もない、ミニゴジラも倒されちゃってる、比較するものがなにもないんです。「マッチ箱」を置けと。

  怪獣映画でよく東京タワーだの大阪城だのといったランドマークが出てくるのは、有名な建物を壊すインパクトという点もさることながら、ぼくらが怪獣の大きさを実感できるというところにあります。この映画はそこのところが分かっちゃいない。

  金子版『ゴジラ』で、最初に姿(全身)を現すのはバラゴンです。「本栖署に出た…」で、まあ警察署と同じくらいのサイズなんです。これでもデカイなあ…という感じがするんですが。そのあと焼津港に本物のゴジラが現れます。これはもう…デパートとかを踏み潰すくらいの大きさ。バラゴンもでかいと思ってたけれど、「いや、ゴジラでっか!」 って、そうなりますわな。

 それから両者は箱根で遭遇するのですが、ここでサイズの違いが実際に比較されます。子どもみたいなサイズのバラゴンがゴジラに挑む姿は健気で涙がちょちょ切れ…って、まあその話は置いておいて。そういうのが特撮映画のマインドだと思うんですよね。いかに怪獣の巨大さを表すかの工夫が二重にも三重にも凝らされているんです。

  このアニゴジにはその精神がない! いままでゴジラに興味なかった人にも…って、意図は(賛成はできないにしても)分かりますよ。でも、換骨奪胎して精神の抜け落ちた「ゴジラ」を見せて、それで果たして「ゴジラ」を見せたことになりますか?