リバーズ・エッジ(2.0) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
 
『リバーズ・エッジ』
監督:行定勲
 
概要
 『ヘルタースケルター』の原作者でもある岡崎京子によるコミックを基に『北の零年』などの行定勲が監督、二階堂ふみと吉沢亮が共演する青春ドラマ。1990年代を舞台に、女子高生のハルナを中心とした都市に生きる若者たちが抱える不安や欲望を映し出す。現実に満足しているものの生きづらさを感じているヒロインを二階堂が、ゲイであることでいじめられながらも達観している男子高校生を吉沢が演じる。繊細で刺激的な世界観がどのように映像化されるのかに注目。(シネマトゥデイより)
 
感想
 覚悟はいい?
 
 蛮勇かそれとも蒙昧か。90年代を代表する作品を実写化するわけだから、ボロクソ言われる覚悟くらいはあるよね。
 
 それでは始めようか。
 
 冒頭、シネスコ(2.35:1の横長画面)じゃないってところで、ぼくはまず面食らってしまった。岡崎京子と云えば、あの畳み掛けるようなセリフと記号の密度、そしてそれらを通り抜けた時に現れるあの見開きの開放感だ。シネスコ…どころかビスタ(1.85:1)ですらない? 冗談でしょ。よしこさん。
 
 退屈と陰気を、殺伐さと重苦しさを混同した演出。岡崎京子とは似ても似つかない重苦しさと湿度。原作はむしろ軽くて乾いている。存在の耐えられない軽さ。なにもないことの不穏さ。乾ききったその虚無のなかで、それでも生きていかねばならんと言うのが『リバーズ・エッジ』だ。
 
 この映画の重苦しさは、BGMとキャスティングによっても増幅されている。高校生を演じる主要キャストはみな20代。この違いは、『リバーズ・エッジ』ではことのほか響いてくる。10代の持つまっさらな透明感というかな…同性愛、SEX、嘔吐、傷害、死体などなど、衝撃的な描写の多い『リバーズ・エッジ』、それでも、そこにはある種の透明感がある。ガラスのように危うく儚い10代の持つ透明感。
 
 その透明感は、存在を希薄にする描き方でも表現される。スクリーントーンの影をズラして貼ることで、まるで地に足が着いていないかのように、存在そのものが希薄になったかのように感じられる人物描写。山田一郎という記号的で無個性な名前にふさわしく、そうした希薄さの極致にあるキャラクターが山田くんだ(作品内で存在感がないという意味ではなく、存在が希薄なキャラクターとして描かれているということ)
 
イメージ 1
『リバーズ・エッジ』より
 
 ところが…だ。実写にすることで、ただでさえ身体は重くなる。存在はクリアになる。その上、20代の身体に刻まれた年輪…肌の質感…は、こうした重さを増幅させる。人は年齢を重ねるごとに、段々と重荷を背負っていく(キャラクターたちの衝動的な行動も10代なら説得力があるけれど、20代だと違和感がある)。そのような重い身体を引きずって、ガラスの透明感? 冗談はよしこさん。
 
 実際の高校生年代をキャスティングすべきだった…と思いつつも、そうなるとSEXシーンとかヌードシーンを描けなくなってしまうわけで。それだと『リバーズ・エッジ』にはならんわけで。だからこれはもう、最初から「詰んでいる」としか言いようがない。そもそも実写化すべきじゃなかったという結論にしかならん。
 
 山田くん(吉沢亮)以外のキャスティングで言えば、吉川こずえ役のSUMIREはまったく演技できてないし、ハルナ役の二階堂ふみもこの作品に限っては良くない。たしかに、「原作好きなんだろうな…」と感じさせるシーンもあるけれど…なんだろうな…やっぱり年齢が噛み合ってないし、「『リバーズ・エッジ』ごっこ」にしか見えんよ。
 
 話題になるであろうSEX/ヌードシーンもそう…。峯岸みなみが、「二階堂ふみさんのあまりの身体の美しさに自分を恥じ」とか言ったらしいけれど、そういう見方をされている時点で、もう違うと思うんだよね。つまり岡崎京子の描く裸って、どこか「モノ」みたいなんだ。身体が神聖なものとしては描かれていないというかな…。とくにハルナは、何に対しても実感を持てない…あらゆることがフラットになってしまっている子。彼女の中では、SEXもキテレツも死体も等しくフラットな…「何でも関係ない」ものなんだ。それはまた『リバーズ・エッジ』そのものの世界観でもある。
 
 その感覚がこの映画には現れていない。二階堂ふみに限らず、この映画のSEX/ヌードシーンは局部を意図的な構図で隠す…「ロマンポルノかよ!」って。そう突っ込みたくなった。他の作品なら、ああいう描写だって良いよ。でも「隠す」ってのは逆に、そこに何か大事な=隠すべきものがあるってことを示唆してしまう。あらゆるものがフラットに描かれる『リバーズ・エッジ』の世界観にはそぐわない。実際、原作では局部も何の気もなしに描かれる。『リバーズ・エッジ』のあの乾ききった感じと、湿っぽいロマンポルノ的な描写とは全然かみ合わない。
 
 あとは何を書こうとしたんだっけ。そうだ、脚本。時系列が変えられ、細かい場面やセリフがカットされていることで、作品内で感情の流れが繋がっていない。特に事件を起こす子たちね。原作を読んでなければ、「あれ…? なんでこんなことになってんだ?」って、不思議に感じると思う。山田くんがハルナに渡すものがギブソンの詩集になっているのもなんだかな…たしかにギブソンの詩は『リバーズ・エッジ』において大きな位置を占める。けれど、山田くんやハルナが語る言葉の位相とあの詩がある位相はぜんぜん別の位相なんだ。あの詩は神の視点というか、作品世界を俯瞰的に眺めた時に出てくるもの。登場人物たちの口から語られるのは絶対に違う。
 
 それから、あのインタビューはなに? 全然、余計なんだけれど。原作ではハルナのモノローグが大きな意味を持っている。まして、岡崎京子は言葉の人だ。この映画。そのモノローグをカットし、独自のインタビュー場面を挿入する。しかもそのインタビューが妙に説明っぽい。それは結局、10代の「パトス」(情念)を「ロゴス」(知性)へと変換してしまうことでしかない。う~ん…「文学」を「説明」に変えてしまうことの意味はなに? よしこさん。
 
 撮影。カメラはもっと全然引いて良いと思う。一般的に、カメラが近づけば画面は主観的になるし、引けば客観的になる。『ジオラマボーイパノラマガール』で、主人公が街を眺めながら「ジオラマみてえ」と言うように、岡崎京子の現実の把握の仕方は俯瞰的なところがある。だから、(クローズアップはあるとしても、それ以外は)出来るだけカメラを引いた方が良い。それはまた、何に対しても実感を持てないハルナの心象とも一致するだろう。演出も含め、ほぼすべての出来事を、心理的にも離れたところから描く。最後、ハルナが泣くあのシーン…あそこにだけ焦点を合わせる。それで良かった筈なんだ。
 
 なんだろうな…この映画を見て感じたのは、邦画のレベルが(…と言うよりこの作品のレベルが?)まだ『リバーズ・エッジ』を実写化するレベルには達してない…ということ。故アンゲロプロスかベネット・ミラーに撮って欲しかったな…ぼくは。
 
 ただひとつだけ…オザケンの曲がかかった瞬間には泣きそうになった。曲の軽さが「まさにこれだ!」って感じがして、映画の雰囲気には全然あっていないのだけれど、でも「むしろこっちが正しいんだ」って、そう思えた。この曲が最初にあったなら…それに合わせて映画を作ったなら…なにか違ったのかな…?
 
 オザケンの曲で+0.5して、それでも…
 
☆☆(2.0)