『続・時をかける少女』 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


『続・時をかける少女』
1.
 一昨年の『来てけつかるべき新世界』で、まさかの「岸田國士戯曲賞」(演劇界の芥川賞)を受賞しちゃった上田誠率いる我らがヨーロッパ企画。昨年は、受賞後初となる公演『出てこようとしてるトロンプルイユ』を上演。ぼくは当然見に行った…のだけれど、レビューするのをうっかりコンと忘れていた(←)

 『トロンプルイユ』におけるループものの構造はいわゆる「ゲーム的リアリズム」(リセットボタンを押してリスタート)を連想させた。初期の『ロードランナーズ・ハイ』から、この『トロンプルイユ』まで、ヨーロッパ企画の舞台は「ゲーム」と切っても切り離せない。

 子供の頃はゲームのプログラミングをして遊んでいたという上田誠。「ゲーム的演劇」の極北と言える『ビルのゲーツ』では、登場人物たちが課されるミッションを次々とこなし、ビルの各階に設けられたゲーツ(扉)を開け、ひたすら上階を目指し上っていく。『スーパーマリオ』や『ドンキーコング』のように、目的とルールがはっきりしている。つまりゲームなんだ。

 役者たちはこのゲームをクリアせんと奮闘するキャラクターであり、したがってプレイヤーだ。彼らは上田の作ったゲームの中を自由に遊んでみせる。上田は役者たちが行うエチュードを見ながら脚本を仕上げていく。かようにして、役者たちがいかに「プレイ」したかが舞台に取り込まれる。彼らが「プレイ」する/したその様をぼくらは眺める。つまり、ヨーロッパ企画の舞台はゲーム実況だ…と言える。

 今回、観に行った舞台は上田が脚本/演出を手がけているものの、ヨーロッパ企画ではなく、ラジオ局の主催。筒井康隆作『時をかける少女』…の続編として作られた石山透作『続・時をかける少女』…を上田誠が舞台化するという、ややややこしい感じの舞台だ。

 さて、どうだったか。

2.
 東京グローブ座の2階席。上田脚本/演出の『TOKYO HEAD』を観た時と、同じような席(←出足遅い人)。俯瞰の視点、ステージ上の圧を直に受けるというよりはそれを横目で眺めやるような、心理的にもやや距離を感じさせる位置と角度。ステージがまるで水槽でもあるかのように感じられる。

 この舞台。伏線の張り方なんかよく出来ていると思うし、最初と最後の雰囲気にはヨーロッパ企画っぽさもある。時間旅行ものでは、ヨーロッパ企画には名作『サマータイムマシン・ブルース』がある(し、それを彷彿とさせるシーンもある)けれど、むしろ『月とスイートスポット』に近いようにも思う。

 ただ、これ(続・時をかける少女)が面白いかどうか、僕には分からなかった。それは最後まで分からなかった。ヨーロッパ企画の舞台を観るときには自動的に入るスイッチ(面白がりスイッチ)が、この舞台では入らなかった。客層も違うし、笑いのタイミングも微妙にズレている。感情的にはむしろ、途中から難しい状態になった。純粋に楽しむというよりはむしろ、考えるモードに入ってしまった。

 思ったのは、この舞台は、結果として「ハイコンテクスト」になってしまっているということ。

 ヨーロッパ企画の最新作『出てこようとしてるトロンプルイユ』の冒頭では、20世紀初頭のパリで芸術談義が交わされる。三者三様の主張。掛け合いの面白さがあるから、仮に主張の中身が分からなくても笑える。実際みんな爆笑だった。そういう意味で、あれは「ローコンテクスト」だった。ヨーロッパ企画の舞台では、仮に「ハイコンテクスト」なものを出すとしても、それは劇中においてきちんと分かるように、あるいは(「これはハイコンテクストなものですよ」という合図を出すことによって)回収されるようになっている。

 ところがこの『続・時かけ』では、各々の時代にまつわる風俗/文化が記号として散りばめられていて、単純に、それらを知っている人は笑えるし、知らない人は笑えない。そういう構造になっている。1996年に、1990年に、1980年に、1969年に生まれていた人は笑えるし、生まれていない人は笑えない。劇場のなかでそうした分裂(世代格差)が生じてしまっていた。それはあまりいい経験ではなかったな…。

3.
 さらに、これを『時かけ』の続編として観ることの難しさがある。芳山和子も深町一夫も浅倉吾朗も性格が変わっている。舞台設定も現代に変えられているし、上田が原作(続・時をかける少女)を読んだ際に、「和子がケン(深町)に振り回されすぎる」と感じたらしく、和子の性格も「現代的」なものに変えられている。でも、そのことによって、大元の原作(時をかける少女)における和子からも離れてしまった。

 『時かけ』を現代的に語り直すというのは、アニメ版(細田守監督)においても行われていたこと。ただ、あれが上手くいっているのは、芳山和子その人ではなく、その姪(紺野真琴)を主人公にしているからだ。「叔母」(魔女おばさん)として和子も登場し、しなやかで受動的な叔母と、後先を考えない「アホの子」(by細田守)である姪の違いが強調される。

 和子と真琴。たとえ道が2手に分かれているとしても、普遍的なもの(time waits for no one)も同時にそこにはあって。後先を考えない(未来を考えない)現代少女の真琴がその普遍的なものに気付いて「時をかける」ことで、ぼくらは心を打たれる。そうしてあのエンディングを観る時、「ああ…これはたしかに時をかける少女だった」と思うんだ。

 翻って、この『続・時をかける少女』では、和子は和子でなくなっている。現代的に造形された「芳山和子」は、同じ名を持ったなにか別の存在だ。この『続・時かけ』世界のとこにも芳山和子はいない。深町一夫も浅倉吾朗もいない。この舞台からは「時をかける少女」というバックグラウンドが失われてしまっている。

 それじゃあ、これが完全に上田誠の…ヨーロッパ企画の舞台になっているかと言えば、もちろんそうじゃあない。ヨーロッパ企画の舞台は多かれ少なかれ劇構造が透けて見えるし、それは舞台のセットからも感じ取れるようになっている(ひたすら上階を目指していく『ビルのゲーツ』なんかまさにそうだ)。でもこれは、原作が別の人(石山透)の手によるものであるせいか、そうしたシンプルな分かりやすさは感じられなかった。

 キャストも半分は客演…というかヨーロッパ企画以外の人たちだ(ヨーロッパ企画メンバーは4人出演)。あの自由な遊びの感覚は半ば以上失われている。たしかに、良い面もあった。もはやヨーロッパ企画では描けなくなった「青春」の感覚がここにはあって、主演をはった上白石萌歌ちゃんも輝いていた。あの輝きはヨーロッパ企画の舞台にはない。それでも、『時をかける少女』と『ヨーロッパ企画』という2つのバッググラウンドを失ったこの舞台を単独で引っ張るだけの力が、その「青春」にあったかと問われれば…正直、答えに窮してしまう。

 これはこれで良いのかも知れない…ただ、ぼくの求めているものはここにはなかった。それだけのこと。


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