twoと言えばcar | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

1.
 紅白で欅メンが倒れた…というニュース。さいわい大したことはなかったようで。まあ、どう考えても、パフォーマンスの直後に立て続けにあんな企画をやらせる方が悪い。

 思ったのは、アイドル扱いする局側と、彼女たち+周りを取り巻く大人たちの意識にズレが生じているということ。あんな企画はどう考えてもアイドル…刺身のツマ扱いなんだけれど、自らを「表現者」だと考えているらしいあの子たちはそれに合わせたパフォーマンスをしようとはしない。

 ぼくは、それは必ずしも良いことだとは思っていない。炎上商法にしたいならともかく(そんなのは焼け野原しか残らない)、ああいう場でああいう姿を見せちゃダメ。一回目でどんなパフォーマンスを見せようが、二回目であの姿を見せてしまった時点で、そっちしか印象に残らない

 『サイマジョ』はもちろん、近頃では『月曜日の朝、スカートを切られた』も良かったように思う。でも、今回披露された『不協和音』は最初から好きになれなかった(『風に吹かれても』なんてそもそも問題外)。あのMVを初めて見た時に感じたのは、「演技になってしまっている」ということ。

 『サイマジョ』では、彼女たちの実存の問題が表現の強度につながっていた。でも、それはもう失われてしまった。「籠の鳥」が自由への渇望を謳い上げることで生まれていた表現の強度が、鳥たちが解き放たれたことで失われてしまったんだ。だから、『不協和音』では演技でやるしかなくなっていて。役に入り込むことで、なんとか強度を保とうとしている。そういうメソッドになってしまってるんだよね。
 
 それはもう…ぜんぜん面白いと思えなくて。 

 しかも、『不協和音』ではあの激しい踊りのなかで没入しなきゃならないわけで。あの激しさによって彼女たちに負荷をかけて何かを生み出そうとしているわけでしょ? そりゃあそのやり方で連チャンやらせようって方が無理でしょうよ。体力/経験不足云々は脇においておいてもね。

2.
 先日、運営委員長氏が欅を「ロックアーティスト」になぞらえたことがニュースになっていた。

 当然、ぼくはそれに反発するわけだけれど、それは単に「アイドル」というものを否定されたように感じたから…だけではない。ジャンルとしてのロックと、行為としてのロックを分けて考えてみよう。行為としてのロックってのは、要は「反発」と言い換えてみても良い。「自分たちは○○でない」ってのがロックで、「自分たちは○○である」なんて全然ロックじゃない。

 「自分たちはロックアーティストだ」なんてのは単なる所属ジャンルの表明に過ぎない。それ自体が行為としてはもう全然ロックじゃない。ジャンル架橋だってPerfumeやベビメタをはじめとして、いくらでも先例はある。目新しくもなんともない。これまでアイドルというジャンルのなかで散々行われてきたこと。

 むしろ「ロックは死んだ」とか言ってるヤツのほうが、よっぽどロックなんじゃないかって。アイドルでありながら「アイドルは死んだ」なんて言ってたヤツもいるけどね(まあ、BiSのことなんだけど)。ロックなんてのは名乗るものじゃなくてやるもんなんだよ。

 …なんとなく。

追記:なんだろうな…アイドルなのにアイドルらしくないことをするってのはロックであり得ても、それを「ロックだ」と言ってしまった瞬間にそれはもうロックじゃなくなるんだよ。それは単に、ある既存のA(アイドル)から、また別の既存のB(ロック)にラベルを貼り替えたただけ。だからこっちも、「ああそれロックのつもりなのね…」としてしか見ない。ロックってのはもっと本質的に抑えきれない何かでしょ?