『何者』について何ものかを書こう。『何者』はなぜ突き刺さるか…
この映画の主人公は、まるで僕自身だ。
自分だってそのゲームに参加している筈なのに、自分だって本当は頑張ってきた筈なのに、本当は認められたい筈なのに、そのことには目を瞑って、まるで自分はそうした喧噪の外に居るかのように「高みの見物」を気取る。そうして観察者視点でマウンティング(←この言葉覚えた)を決めて、自分がさも優位に立ったような気持ちでいる。
「でも、そんなお前の姿は誰にも見透かされてるんだ」って、そんなことを言われたらもうグウの音も出ない。
とくに、僕みたいに、「映画撮りたかった…戯曲書きたかった…音楽やりたかった…アイドルをプロデュースしたかった…」なんて思いを胸の内に燻らせ続けながら、でもそのどれにも(何者にも)なれなくて、こうして批評じみたことを書き連ねている人間には、何も言い返せやしない。
それも、ただの言葉でなく、きちんと作品という形でこう作られたらね。「もう、おっしゃる通りでございます<(__)> 」と、平伏してしまうしかない。この映画を評価したかったら、自分をさらけ出してしまう以外ないんだ。
でも、この『何者』が本当に突き刺さるのはその先で。噛み砕いて言えば、「頑張ってた自分をちゃんと見てくれていた人もいるんだよ?」、「なんでその自分をちゃんと認めてあげなかったの?」って…それも自分が誰よりも認めてもらいたかった人から言われてしまう。「私は好きだったよ」って。
もちろん、作家朝井リョウはただ主人公に優しい世界を作るのを拒否する人だから、ここでは「過去形」になっていることが肝で。その取り返しのつかなさが心を締め付ける。そこのところが、本当にグサッとくる。「君自身はそれで本当に良かったの?」って、そう聞かれているような気分になる。
でも、ここで自分の気持ちに気付いて、ちゃんと弱い自分、痛い自分と向き合うことで、その先には本当の「人生が始まる」って、そういうある種の希望を湛えたラストになっている(…って書くのは蛇足かな…)。
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