欅とSKE.1(欅讃歌)
1.
先日デビューしたばかりの欅坂46。『サイレントマジョリティー』『乗り遅れたバス』『キミガイナイ』…こうした楽曲や振り付けのクオリティは特筆すべきものです。自らの境遇と重ね合わせて歌われるそれらには、人を強く惹きつける力があります。
『サイレントマジョリティー』では、「似たような服を着て」と歌詞で批判しているのに、自らは同じ服を着させられている。平手友梨奈という圧倒的な個でさえも、全体の中へと埋没される。衣装もどこか軍隊を意識させるようなところがあります。
『乗り遅れたバス』で「一人きり歩き始める みんなとは違う道順」と歌う長濱ねる(最終オーディション辞退後、紆余曲折を経て「1.5期生」として新加入)は実際、一人はぶせの扱いをされる。『サイレントマジョリティー』の歌唱メンバーには選ばれず、衣装もひとりだけ違います。
これらの歌詞は、そこからさらに、そうした状態を抜け出すことへの羨望を謳い上げます。「君は君らしくやるだけさ one of themに成り下がるな」(サイレントマジョリティー)、「夢はどこかでつながるのだろう」(乗り遅れたバス)。現在の境遇と、求めるものの間の距離。そこにはドラマがあります。
そういう境遇に置いているのは作詞家自身(=プロデューサー)なわけで、自分でやっておいて、そんな歌詞を歌わせるのか…と思いますが(ドSだな…と)。
でも、そうして人工的に作り出された境遇は、彼女たちにとっては現実問題です。歌詞も他人事では済まされません。このドラマは彼女たち自身のドラマであり、自然、その演技にも感情が込もるようになります。それは表現に力を与えます。
いまだ技術の伴わないデビューしたての少女たちにとっては、若さやフレッシュさとともに、自らの置かれた境遇こそが力となります。これはまた、境遇をコントロールできてしまう(素直な)「一年生」だからこそ可能なことでもあるでしょう。
欅のパフォーマンスで印象的なのは、全員が「演技」に集中していることです。誰一人として、カメラにアピールしようなんて子はいません。そうしてしまうならば、その曲のドラマが壊れてしまうからです。
もちろん、48にも演技に集中すべき曲と、自由にやるべき曲の違いはあります。ただ、作詞家自身がもう興味を失っているせいか、彼女たちをひとつの境遇へとコントロールすることがもうできない(そのためドラマが成立しない)せいか、特に近年のシングル曲には、前者のタイプはほとんど見られません。
あるいは、メンバーの卒業ソングは、メンバー自身のドラマを前面に押し出した曲だと考えられるかも知れません(一人のドラマならまだ書けるのでしょう)。しかしながらそれらの多くは、あくまでもそのメンバー個人のドラマであって、メンバー全員のドラマではあり得ません。したがって、歌唱時には当のメンバー以外はモブと化してしまうでしょう。
これらの多くの卒業ソングと、欅の『サイレントマジョリティー』や『乗り遅れたバス』が決定的に違うのは、それらが彼女たち全員のドラマになっているからです。『サイレントマジョリティ』で「似たような服を着て」いるのは彼女たち全員ですし、『乗り遅れたバス』も、置いていかれた人(ねる)と、置いていった人たち(他のメンバー)という形で、グループ全員の関係性が含まれています。
若さフレッシュさを持ち、ビジュアル的にもコントロールされ、その上、人工的なドラマ性さえも兼ね備えているのが欅です。『サイレントマジョリティー』や『乗り遅れたバス』の凄さは、そうしたものをすべて、歌詞と振り付け、衣装によってあの短い時間に凝縮させてしまっている点にあります。
2.
さて…。これに対して、SKEはどう答えるべきか。明らかに流れはあそこにあるので、それに対して答えないということは、流れを気にしないということになります。それは孤立化への道です。グループ単体で生き残れるならば、それでも構わないかも知れませんが…。
しかしながら、これまで48/46は棲み分けの構図でやってきました。本店と支店、支店同士のライバル関係。はたまた48と46のライバル関係…。それぞれのグループの関係性の中で発展してきたのです。
『サイレントマジョリティー』は再生回数千三百万回突破ですか…。目新しさという側面はもちろんあるでしょうが、ああいうものが出てきた以上、これに対していかにレスポンスするかということが、とりわけ既存の48/46グループには求められるでしょう。これはむしろ、チャンスと捉えるべきなのです。
つづく