表現の強度(サイレントマジョリティー) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)



1.
 正直、欅坂46の「サイレントマジョリティー」と14歳の平手友梨奈は衝撃だった。そう思わないという人はそれで構わないと思うけれど、「表現の強度」という点において、現時点であれに勝てる48/46グループは(少なくとも国内には)ひとつもない、と僕は思う。

 漫画『HUNTER×HUNTER』で、ネフェルピトーを見たネテロ会長が「あいつ、ワシより強くねー?」と言うシーンがあるけれど、ふとあれを思い出した。衰えたとは言え百戦錬磨の会長よりも、生まれたばかりのピトーの方が強いと感じたという…。「それが本当ならハンターは誰一人太刀打ち出来ない道理になってしまう」…あの感じ。あの絶望感。

 それはつまり、AKBやSKEなどがこれまで培ってきた歴史とか、ファンとの繋がりとか、レッスン場で費やしてきた時間とか、方向性に対する苦悩とか、そうしたものがすべて、出来たてホヤホヤのグループによって否定されてしまう、そんな感覚と似ていた。

 もちろん、それらがすべて無くなってしまうわけではない。SKEの「チキンLINE」も(MVは××だけど)悪い曲じゃないし、はっきり言って、パフォーマンスの質という点ではやはりこちらに分があるとも思う。欅坂は短期間でよく鍛えられているとも思うけれど、それでも所どころにある稚拙さは隠せない。

 だけど、そうしたことを全ておいても、現時点における訴求力(戦闘力)では、遥かにあちらの方が上だと思える。あちらの方が遥かに「面白い」と思えてしまう。

 欅坂センターの平手友梨奈のあの目、オオカミのように飢えたあの目。あの子の目は「私はお腹が減っているんです!」と言っている。あの目は、この先のアイドル界を喰らい尽くしていく目だ。あんな目はもう、AKBにもSKEにもない。ぽっと出の14歳にすべて持って行かれてしまった。

2.
 あの曲がまた…なんだろうな…。「もう、分かってやってるんだね」ってことがハッキリ分かった気がして。 

 まず、この曲は二重の意味で全体主義的独裁だ。つまり、センターの平手友梨奈が実質においても形式においても、すべてのメンバーを傅かせるという意味でのそれと、もうひとつ、ビジュアルからダンスからすべてが制作者のコントロール下に置かれているという意味でのそれと。だから、この曲では、独裁者である女王(平手友梨奈)ですら支配下に置かれている。

 そして、皮肉なことに、それに対する歌詞が、それとはまるで正反対に、自由とか個性を謳いあげるものになっている。「君は君らしく」とか「群れてても始まらない」とか「one of themに成り下がるな」と歌いながら、でもみんな同じ格好で、みんな同じ動きをしているという、この皮肉。

 もちろん、やっていることがかなり全体主義的だから、歌詞も全体主義的なものにしてしまうと、どこぞの国家みたいになってしまう。歌詞を思い切り逆に振ることで、バランスを取っているということもあるのかも知れない。

 ただ、そのことが「表現の強度」に結びついている。言っていることと、やっていることが、まるで正反対なのだけれど、まさしくそのことが強度を生んでいる。つまり、同じ「自由への渇望」を歌うんでも、大空舞う鳥と、籠の鳥と、どちらが歌うのがよりメッセージ性が強いですか、ということ。籠の鳥にしか訴えられないもの、というのがある。 


 さらに詳細に分析するならば、この振り付けには、計4つのモードがあることが分かる。

 A.全員が同じ動きをする抑圧された全体主義的モード
 B.センター平手友梨奈が独行し、メンバーが傅く独裁モード
 C.同じ動きの中から平手友梨奈が拳を上げて立ち上がる革命モード
 D.全員が同じ動きをするけれど、Aとは対照的に躍動する市民軍モード

 全員が同じ動きをするといっても、Aの全体主義的モードも結局、センターの平手友梨奈が全体を率いる隊形になっているわけだから、Bの独裁モードに通じる特徴を持っている。そのため、両者はシームレスに移行する。

 ただ、この独裁モードには、「個人が独自に動く」という点において、じつは自由の種が含まれている。Aにおいて没個性を描写していた歌詞(似たような服を着て♪)が、ここで自由を謳いあげることも相まって、「自由への渇望」が底流で沸騰しているような印象を受ける(その「渇望」を、あの飢えた目が雄弁に物語る)。

 そしてそれが、同じ動きの中から平手友梨奈が拳を上げて立ち上がるCにおいて一気に表出する。このCにおいて、「自由への渇望」は顕在化し、全てが反転する。「若者の革命者の象徴として平手さんに特に意思の強い表現をして頂きました」(TAKAHIRO氏)

 だからこそ、平手友梨奈がボンッと拳を突き出すあのシーン(C)に、僕は強く心を動かされる。あの瞬間、彼女は独裁者である女王=専制君主から、民衆の自由のために立ち上がる革命の闘士=自由の女神へと急速にメタモルフォーゼする。そしてグループ全体もまた、彼女に率いられた市民軍/革命軍へと変貌する(D)。

 この曲が面白いのは、表現がそうした裏表の関係になっていることで。独裁者の独行に見えていたものが、抑圧に対して独り立ち上がっているように見えたり、全体が同じ動きをしていても、反転して真逆のもの(自由のために戦う市民軍)に見えたりする(一旦、その目で見ると、冒頭は『進撃の巨人』の「心臓を捧げよ!」みたいに見える。あれも人類の自由のために戦う兵士なわけで)

 いずれにせよ、これは、まず彼女たちが(平手友梨奈も含め)ヴィジュアル面などにおいて実際に抑圧されている=コントロール下に置かれているという、ある種の犠牲の上に成り立っている表現なんだ。同じような服を着て、同じような顔をした集団の中へと抑圧されているからこそ、没個性の状態に置かれているからこそ、あの反発の強さが生まれる。

 そういう意味において、歌詞や振り付けのテーマと、彼女たちの実存の問題とが一致している。彼女たちの実存をかけてパフォーマンスしているから、だからこの曲は心を打つんだ。

3.
 AKBも『制服が邪魔をする』とか『軽蔑していた愛情』(100歩譲っても『目撃者』くらいまで)のころには、ああいう力があった。それがいつしか「国民的」なるものに成りおおせて毒を抜かれていった。いまの48には、これはどうやったって出来ない。すでに自分の好きにやっているグループが自由への渇望を歌っても、なにも響きやしない。

 ルックスだってみんなバラバラで、ダンスだってミリ単位で正確に揃えられるわけでもない(欅坂もその点は同じだけれど、ルックスを揃えることで補っている)。いまの48では…それはAKBにしろSKEにしろ…なにか統一したコンセプトで作品を生み出すということが事実上、不可能だ(あり得るとすれば、それは「恋チュン」のようなお祭り=ごった煮コンセプトだけ)。

 独裁者の完全なコントロールによる創造が不可能であるならば、逆に振って、完全に民主主義的にやれば良いと考えられるかも知れない。実際、そのために選挙をはじめとした48のシステムがあった筈なのだけれど、それもいつしか機能不全に陥ってしまった。

 完全にコントロールするわけでもなく、完全にポピュリズムでやるわけでもなく。ふらふらふらふらと、その中間を彷徨っている。ことごとくが中途半端。

 だから、だから、正直、僕はもう諦めていた。「もうああいう時代じゃないんだね」って諦めていた。

 だけど、それがここにあった。あのころのAKBのあの毒がここにあった。「出来るんじゃん」って。「なんだ、出来るんじゃん」って。それで気付いてしまった。つまりさ、48においては、分かってなくて出来ないんじゃなくて、分かっていて出来ないんだ。

 グループそのものが老朽化するということがあって。各グループが根腐れを起こして、もう手の施しようがなくなっているのかも知れないな…と。

 僕が焦がれていたのは、いつしか48がJリーグのようなものになって、それで、それでいつか名古屋が優勝するような…そういう「未来」。チームが創設されてから100年以上経つのに、一度もトップディビジョンで優勝したことがなくて、今年も降格予想をされていたレスターが、奇跡のシーズンを送っているような…そういう、脈々と受け継がれていくような、「チームの成長」というモードに支えられるような、そんな体系を、夢見ていた。

 でも、それはきっと間違っていたんだろうなって。アイドルにとっては、常に新しく出来たグループがもっとも訴求力があり得る。だから、新しいグループを作った方がずっと手っ取り早いんだって。制作者側には、別にひとつひとつのグループにこだわる必要なんて一個もないわけで。各チームの、いわばGMが同じ人なんだから、そりゃ当たり前の話で。

 そうしてどんどん新しいグループを作り続けて、古くなったグループは惰性に任せておけば良い。なにかスキャンダルがあったって「なあなあ」で誤魔化せば良い。ついてくるやつは何したって勝手についてくる。

 でもそれって、ある意味では、もう見放されてしまっているのかもなって。あのプロデューサーにああいう歌詞を書かせようって、そういうグループじゃなくなっているんだって。だから、諧謔のような意味不明の曲でお茶を濁されてばかりで。

 でも…そのことに気付いてしまったら…やっぱりきついじゃない。半分は自業自得だとしてもさ。もう半分はこの世の不条理だとしてもさ。やっぱりきついじゃない。それはメンバーにとっても、ファンにとっても。

 そんなの、もう目をつむって、耳をふさいで、そうやって「そうじゃない」ってことを信じる以外に手はない。それがどんなに酷でも、僕はやっぱりそう言うしかない。




「信じる者は、可能性という、絶望に対する永遠に確かな解毒剤を所有している」
セーレン・キルケゴール