「アイドルとは何か」 (茶髪論争最終章) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

※長文です(約8000字)

「アイドルとは何か」
(ボクはなぜ、アイドルの茶髪が許せないのか最終章)

1.アイドルは媒体である

 「Idol」の語源から考えてみましょう。

 これはもともと、教会などで祀られていた神格や聖人の像などをそう呼んでいたものが転じて、そのように崇拝/崇敬を集める人をもそう呼ぶようになったものです。この言葉がさらにポップカルチャーに取り入れられて、現在言うところの「アイドル」になったわけですよね。(参考:O.E.D)

 しかしながら、こうして言葉が変遷していく中で、見え辛くなってしまったものがあります。それは、もともと「idol」というものが、「中間にあるもの」だということです。「アイドル」とは、自身が崇拝を集めるもののように思われがちですが、本来はそうではありません。

 たとえば、キリスト像を拝むということは、その像(=idol)自体を拝むということではなく、それを通じて―いわば「窓」として―背後の神格を拝むということになります。その意味で、この像(=idol)は中間にあるものです。聖人の像/聖遺物であっても同じです。聖人に対しては、崇拝ではなく崇敬という言葉が使われますが、これもそれら(=idol)を「窓」として、その背後の聖人を崇め敬っていることになります。

 いずれにせよ、idolとは「中間にあるもの」だという理解が、ここでは重要です。崇拝/崇敬の対象と信者との中間にあり、それらの対象と信者とを媒介する。つまり、idolとは本来、媒体(medium)なのです。

 これが巡り巡って、現代日本においては放送などの各メディア(media)に登場し人々の人気を集める(主に)若者が「アイドル」と呼ばれるようになったわけですが、本来的にはアイドル自体もまたメディアなのだ、ということです。

 像や聖遺物だけではなく、人も媒体(medium)でありえる。違和感を覚えるかも知れませんが、別に特別なことではありません。たとえば、巫女さんは「口寄せ」によって霊的な存在を媒介します。つまり霊媒です。英語では、巫女さんのような霊媒を文字どおりmedium(mediumship)と呼びます。巫女さんがそうした存在であったことは忘れられがちですが、イタコはこの形をいまに留めています。イタコはあの世とこの世を媒介します。

 こうしたmediumにとって何より重要なこと、それは「透明であること」です。あるいは、対象に対する忠実さと言い換えても良いでしょう。ある対象とある人とを結ぶわけですから、その中間にある存在が色を持っていてはまずいのです。ノイズが混ざってしまいますからね。たとえば、霊媒師としてのイタコが語る言葉は「あの世の死者の言葉」でなければならず、イタコ自身の言葉であってはなりません。

 キリスト教に話を戻せば、たとえば正教会のイコンは伝統的に図像が定められています。「そこに個人的な感情や感動や思想や解釈があってはなりません」(日本正教会)。イコンの背後の神的な存在と信者とを結びつけることが「窓」としてのイコンの目的ですから、そこに制作者の独自の色が混ざってしまってはまずいわけです(なんとなく、スペインのフレスコ画「修復」事件を思い出しますが)。

 なんとなく、言いたいことが分かってきましたかね?  要は宗教的なものには、個性だなんだという現代的な価値観とは異なるものがあるということです。


2.アイドルとは常に〇〇のアイドルである

 今まで挙げた例は、現代の「アイドル」とは無関係なのじゃないか、と考えられるかも知れません。しかし、おそらくそうではないのです。

 現代日本における「アイドル」という言葉の典型的な用法として、「○○のアイドル」というのがありますよね。たとえば「フィギュア界のアイドル」とか、「競馬界のアイドル」とか、そういったものです。あれ、どういった意味なのでしょう。

 単にその世界にいる若く美しい人を指しているようにも思えますが、本来的には、その人は、その世界ないしコミュニティから理想視されている存在=偶像ではないでしょうか。そのコミュニティの理想と、コミュニティの構成員の中間にある存在、すなわちmediumです。

 先に述べてきたようなアイドルの起源からすると、「若さ」「美しさ」というのも、それ自体がアイドルを規定するものではないことが分かります。もとは聖人の像だったりするわけですからね(お爺ちゃんの像だったりするわけです)

 つまり、現代社会において、若く美しい人が「アイドル」と呼ばれることが多いのは、単に「若さ」や「美しさ」が、その世界ないしコミュニティの中で理想的だと見なされることが多い、というに過ぎません。

 また、必ずしも人間として品行方正である必要もありません。たとえば、かつてのサッカー界の「アイドル」はジョージ・ベストでしたが、彼は人間的には結構ぶっ壊れたところのある人でした。でも、サッカーの神様には愛されていた。その意味で彼は、サッカー界の理想を体現した存在であり、ゆえにサッカー界のアイドルだったのです。若く美しいだけだったら、彼はアイドルにはなっていなかったでしょう。

 キリスト教に話を戻すならば、カトリック世界における最大の「アイドル」は、聖母マリアです。それは、単に若く美しいからではなく、「無原罪のお宿り」という言葉が端的に現しているように、なによりも「原罪」を免れているからです。「罪からの解放」が最大のテーマであるカトリックにおいて、マリアはその理想を体現する存在であり、ゆえにカトリック世界における最大のアイドルなのです。

 もちろん、真の意味でのキリスト教世界の「アイドル」は、ゴルゴダの丘で全人類の罪を贖ったイエス・キリストその人だということになるのでしょう(『ジーザス・クライスト・スーパースター』という作品もありますが)。

 あるいは、より抽象的な存在を考えても良いでしょう。自由の女神マリアンヌ。ドラクロワが描いた≪民衆を導く自由の女神≫は、「アイドル」とはどういう存在であるかを端的に示しています。マリアンヌは自由主義者たちの理想=自由を体現するために戦う存在です。アイドルにはああいう力がある、という意味でも、あの絵は示唆的です。

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 ずいぶんと遠回りをしたようですが、つまるところ、アイドルというのは、すべて「○○のアイドル」であるということなのですね。idolがmediumである限り、必然的にそうならざるを得ないのです。アイドルというのは、決してそれ自体では成り立たない存在です。

 そして、その○○の理想を体現する存在であるということが、何よりアイドルの条件になります。それらの理想はそれぞれに異なりますし、またその表出の仕方も様々に異なるでしょうが、アイドルがその理想に対して忠実であり透明であることは共通しています(ユダは裏切り者にとってのアイドルにはなり得ても、キリスト教世界にとってのアイドルにはなり得ません)。


3.職業アイドルとは同語反復的な存在である

 ここでひとつ特異な例が存在します。それこそ「職業アイドル」です。これはいったい何のアイドルなのか良く分からない。ここに、職業アイドルが抱える最大の矛盾があります。アイドルとは本来、「○○のアイドル」である筈なのに、彼・彼女たちはいったい何のアイドルなのかが分からない。

 機能的には本来アイドルではありえないにも関わらず、自らを「アイドル」として名指すことによってのみ、彼女たちは「アイドル」と呼ばれます。「アイドルと言っているから、アイドルである」という、同語反復的な存在、それが職業アイドルです。

 ゆえに、迷うわけですよ。何に従えば良いかという価値観の体系がそもそもないんです。たとえばキリスト教において、多くの聖人は、教えに殉じた人=殉教者です。教えに殉じた=理想に対して忠実だったからこそ、彼/彼女ら(あるいは、その像や聖遺物)はアイドルでありえるわけです。ところが、職業アイドルにおいては、殉じるべき教えがそもそもない。

 もちろん、あとからそれを拵えることは出来るでしょう。たとえば、かつてAKBが規範としていた「恋愛禁止」や「ガチ」といった「教え」=理想がそれに当たります。あるいはここで「茶髪禁止」(黒髪至上主義)という、かつてのSKEの理想を持ち出しても良いかもしれません。彼女たちはその理想に殉じることによって、擬似的コミュニティの「アイドル」として実際に機能していたと考えることができるかも知れません。

 しかしながら、あとからそれを拵えても、それは絶対的なものとはならず、やがては有耶無耶にされてしまうことになります。本来的な「○○のアイドル」の場合は、○○の方が先にあるので、それはアイドル自身がどうこう変えられるものではありません。たとえば、競馬コミュニティのアイドルが馬に乗るのを止めた…それは単に、その子が競馬コミュニティのアイドルでなくなるだけの話に過ぎません。

 一方、かつて黒髪をアイデンティティとしていたグループ=SKEの子が茶髪に染めたらどうなったか。どうもなりません。その子は、「黒髪至上主義者たち」にとってのアイドルではなくなりますが、依然として職業アイドル=SKE48コミュニティのアイドルではあり得るわけですよね。職業アイドルの場合、「アイドル」であることが先にあるので、この○○というのが絶対的なものになりません。

 これらは結局、後付けの理想であり、職業アイドルが本質的に持っている理想ではないのです。本来、コミュニティの理想とアイドルとは切り離せないものですが、職業アイドルの場合は切り離してしまうことが出来ますし、現にそうなっています。

 こうなると、グループというのも、価値観を共有する共同体ではなく、単なる箱…形だけの存在に過ぎなくなります。形だけの存在になれば、そこは誰でも(たとえ異なる価値観をもっていてさえも)入れる場所になり、同時にまた、誰にとってもどうでも良い場所になります。そこに繋ぎ止めるものは単に、その人とその場所の歴史のみということになるでしょう。それはまた、そのグループを取り巻くコミュニティ(ファン層)にも同じことが言えます。

 たとえば、いまのSKEメンバーは「黒髪至上主義者たちのアイドル」か? 違いますよね。SKEとは誰のアイドルでしょうか。それは端的に言って、「SKEを応援している人のアイドル」です。つまり、ここには「職業アイドルとは、そのアイドル(ないしそのグループ)を応援している人々にとってのアイドルである」という同語反復的な関係が生じていることになります。そこにあるのは、何らかの価値観や理想ではなく、単に「そのアイドルが好き」というだけで結び付いているコミュニティです。

 コミュニティとしての理想がない状態。あるいはそれは、アイドルの数だけ理想が存在する状態と言い換えても良いかも知れません。いわば、「個性」が最大化された状態です。ただでさえ現代は価値観が多様化している時代です。アイドルの数だけ理想が存在するならば、最終的には、職業アイドルとは単に一人一人にとってのアイドル…つまり「私のアイドル」でしかありえない、ということにさえなるのかも知れません。

 これは極端な想定ですが、職業アイドルというものが、最終的に一人一人にとってのアイドルに過ぎなくなれば、必然的に職業アイドルの存在感というのは低下していきます。要は、ファンが一人しかいないアイドルということになるわけですからね。誰もが誰かのアイドルになり得、そうしてアイドルという存在それ自体が意味を持たなくなります。
 

4.職業アイドルはどうあるべきか(聖と俗)

 しかし、果たしてそれで良いのでしょうか? というのが、僕が最後に問いたい問題です。これから語ることは、これまで語ってきた「アイドルとはなにか」という本質論よりはむしろ「職業アイドルはどうあるべきか」という理想論に近いものになります。

 職業アイドルであっても、単に個々の価値観を反映したものでなく、文化の深層にまで突き刺さる部分があった方が遥かに面白いと僕は感じますし、キリスト教や仏教がこれだけ繁栄したのも、とどのつまりはそれだけ多くの人に突き刺さる部分があったからでしょう。

 かつてのAKBにもそういう部分はあったと思います。すでに目的を失って久しい現代日本。「大きな物語」はとっくの昔に失効し、それに変わる擬似的な物語を騙ったオウムは、多くの若者と多くの犠牲者を巻き込んで自滅しました。結局、若者たちが自らの物語を託せるのは、エヴァの後継者としてのアニメだけになってしまったのです。

 AKBが登場したのは、まさにそういう時代でした。「ガチ」だの「恋愛禁止」だの、前時代的な価値観を備えたそれはまた、「センターを目指す」という分かりやすい物語によって駆動されていました。

 でも結局、それは破綻をきたしました。単純に言って、「センターを目指す」という定員の決まった物語である限り、「努力は必ず報われる」わけじゃないからです(それに対し、多くの宗教では「成仏」とか「救済」とか、定員の決まらないものによって、「努力は必ず報われる」を担保しています)。もはやメンバーでさえその物語には乗っかりません。メンバーが乗っからないものに、どうして僕らが乗ることが出来るでしょう?

 それに代わるものとして提示されるのが、「個性」です。もちろん、もとより「個性」はAKBにおいて重要な要素でした。「多くの子がいるんだから、誰か一人は好みの子を見つけられるでしょ?」というAKBの構造において、「個性」は大きな意味をもっていたのです。

 したがって、より正確には、かつて「大きな物語」と「個性」という両輪で動いていたものが、片方が破綻したことで、「個性」オンリーになったということになります。「様々な個性をもった子が同じ目標に向かって走る」というところが物語の妙味だったのに、単に「様々な個性をもった子が居る」だけになってしまったのです。

 しかし、それぞれの「個性」だけがもっとも大事なものだったら、そもそもグループである必要なんてないわけですし、もっと言えばアイドルである必要さえどこにもないわけです。自分で好き勝手にやりゃあ良い。届く人には届くでしょうし、届かない人には届かないでしょう。それだけの話です。僕はそれには興味がありません。

 じゃあ、職業アイドルはどうあるべきか。やはりここでもidolという語源から考えていくことにしましょう。繰り返しているように、職業アイドルとは本来のアイドルの実質がない「アイドル」(括弧付きのアイドル)であり、結局のところそれをアイドルたらしめているものは、この言葉そのものでしかあり得ないからです。

 もともと、「idol」は宗教的な用語であり、「聖なるもの」と関係を持っています。ここでは、この「聖なるもの」という観点から考えていきます。「アイドル」という言葉以外にアイドルの実質がない職業アイドルにとって、この観点こそが、本来的なアイドルの力を発揮するための鍵を握っているからです。つまり、「起源の力を借りましょう」ということです。

 さて、「聖なるもの」とはいったい、いかなるものでしょうか。これは、その言葉の周辺にあるものを考えることで理解できます。「聖」という言葉の対義語はもちろん、「聖俗」という言葉からも分かるように、「俗」です。

 「俗」とは何でしょうか。俗っぽい人、低俗、俗悪などのように否定的なニュアンスで使われることもありますが、たとえば「俗世間」という言葉もあります。「俗っぽい」という言葉の英語がworldlyであることからも分かるように、「俗」とは、要するにこの世界の事物…身の回りの普通のものごとに対して使われる言葉です。

 また、「俗物」(snob)という言葉が流行を追い求める人を指すように、単に空間的に身の回りという意味だけではなく、時間的にも目先のものという含意もこの言葉には含まれています。流行が移ろい易いように、「俗世間」も刻々と変化していきます。つまり、「今現在この場所」に関わっているのが、「俗」という言葉です。

 「聖」は「俗」の対義語ですから、「聖なるもの」について考えるには、この反対を考えていけば良いわけです。聖なるものは「どこでもない場所」に属しています。この場所ではまた、時間という概念もこの世界とは異なるでしょう。そこは、現在過去未来というあらゆる時間を離れた場所です。

 ゆえに、「俗世間」が移ろい易く刻々と変化していくのに対し、「聖なるもの」は変化を拒絶します。「俗」が「流行」に関わっているとすれば、「聖」は「永遠」と関係を結んでいます。

 したがって、僕が思うアイドルというのも、そのようなものになります。(追記:僕にとってアイドルとは、この腐りきった俗世間と戦ってくれる存在でなければならない、ということ。黒髪はこの俗世間と戦う戦士の目印となる)

 よく、「現代はこういう時代だからアイドルもこうで良い」というタイプの言説を見かけますが、上記の考えに照らすのならばそれは決定的に間違っていることになります。なぜなら、「アイドル」は「聖なるもの」として、むしろ「俗世間」のようには変化しないことにこそ、その本質があるからです。

 だから、「オシャレ」のように、世間一般の女の子が興味あり、しかも流行によって変化していく世俗的なものは、アイドルにとっては不要…どころか、むしろ邪魔なものですらある、ということになります。

 ただし、不変ということは、「努力しない」ということを意味するのではありません。そうではなく、理想のような不変なもののために生きるということです(最初の議論に戻れば、それはまた、理想に対して忠実であれ=mediumであれということでもあります)。

 かつて、小野小町が「花の色は うつりにけりな いたづらに」と詠んだわけですが、若さや美しさ、人の心さえも移り変わっていくのが現世です。そのように移ろいやすい世の中にあって、理想のような不変なもののために生きる。あらゆるものが、どうしようもなく移ろっていってしまうけれど、でも、それと戦う。たとえ最後には負けると分かっているとしてもね。

 それこそが人の心に突き刺さるのではないでしょうか。


5.最後に(理想を語ること)

 最後に、このシリーズのテーマであった茶髪に話を戻しましょう。巫女さんが髪を染めないのは、「聖なるもの」と関係を結ぶために、「俗世間」から切り離された=清浄な存在でいる必要があるからです。したがって、茶髪論争に対する僕の最後の答えもそのようなものになります。

 「染める」ということそれ自体の内に、「変化」が含まれていることは置いておくとしても、単に周囲(俗世間)に合わせるため、単に人に勧められたからという理由で茶髪にするのならば、僕は「それはもうアイドルとしては負けていますよ」と言うでしょう。他のものでも同じことが言えます。俗世間に流されてしまっているのなら、それはもうアイドルとしては負けている。

 一方、何らかの理想に殉じるためにそうしているのならば、それはその同じ理想を奉じる人にとってのアイドルではあり得るかも知れません。「黒髪至上主義者たち」=僕にとってのアイドルではなくなったとしてもね。

 結局、そのように相対化されてしまうわけですが…

 しかしながら、SKEにおけるそれが実際そのようなものだったかは、僕は疑問です。みんな息苦しくなって、疲弊してしまった結果だったのではないのか…というのは憶測に過ぎません。しかし、かつてSKEにおいて「黒髪」は、「汗」や「全力」「ガムシャラ」「体育会系」「(良い意味での)ダサさ」などの隣接する用語と共に、ひとつの価値体系を築いていました。

 わざわざそこに楔を入れておいて、なにかそれに代わる理想を提示できたのか?

 (個人としての功績は別として)誰一人、誰一人として出来ていない、と思います。個人個人の理想は、そりゃあ、あるんですよ。そんなものはいつだってどこにだってあるんです。でも、グループとしての理想はなんですか、というのが見えない。語り尽くされてきたことですが、やはり最後にはそこに行き着きます。

 正直、いまのSKEにはコミット(参加)しようがありません。それは好きとか嫌いとか、気に入るとか気に入らないとか、そういう話ではなく、彼女たちが、「自らがいったい何なのか」「誰にとってのアイドルなのか」というメッセージを発しないからです。

 アイドルとして生きたければ叫ぶんですよ。声の限りに。旗を振って。「私たちは○○のために此処に居るんです」と。そこに入る言葉が、抽象的な「ファン」とか「応援してくれる人」では、論理が循環しているだけなので意味がありません。それじゃあ意味がないんですよ。
 
 なんらかの理想のために戦ってこそ、それに共鳴する人がついてくるんです。アイドルとは、そういうものです。