舞台の制作者は、演者がその舞台に立ったことで幸せになるようにする義務があると、ボクは思う。
『マジすか学園 ~京都・血風修学旅行~』
(ライブビューイング)
あらすじ
ゲキカラ"は唯一残った仲間“おたべ"と共に、「馬路須加女学園」初の修学旅行に参加することとなった。修学旅行の行き先はおたべの生まれ故郷、京都。そこには、おたべを恨む「壬生尾土高校軽音楽部・デンデケ」が待ち構えていた。「マジ女VSデンデケ」マジ女圧勝のはずが、デンデケ最終兵器にゲキカラ達は目を疑う…。ゲキカラの卒業と、おたべの思いをかけた雪散る死闘の結末はいかに――
(Amazonより)
1.キャスト
何から行こう。まずはキャストかな。
ゆいはんに関しては、そもそもの持ちキャラだから今さら言うことはないし、その子分格である「ケバブ」の4人(田野優花・高橋朱里・大島涼花・川本紗矢)もなかなか良い。なかでも、時折見せる田野ちゃんの「本物っぷり」が微笑ましい。
この4人は、かつての横A「ksgk3人衆」+さややだから、見ている側も分かりやすい。瞬間的・直観的にキャラクターの個性や関係性を把握できる。また、作り手側としては、そのことを逆手にとって遊ぶことも出来るわけだ。
そうした実際の仲良しセットを使う辺りは、いかにも「マジすか的」だと感じさせた。「マジすか」は元来、そのように現実とのリンクを持ったドラマだった(その辺りは別の記事で)。
一方、そう考えるならば、京都のヤンキー集団「デンデケ」のメンバーは全員ミスキャスト。それは演技の問題とか、関西弁が下手くそだとか、そういう次元の話じゃない。
東京のヤンキーvs京都のヤンキーという構図が、あのキャストからだと浮かび上がってこないんだ。普段、同じグループにいて仲良くしているような子たちを両側に集めてしまっているわけだからね。
「新撰組」という設定だから、彼らと同じように東京から京都に転校した子たちだと考えれば、設定としては噛み合うのかも知れないけれど、そこまで設定を読み込むべきかどうかは、最後まで判然としない。
要は、分かりにくいってこと。
スケジュールの問題とか色々あるのは分かるんだけれど、純粋に舞台の質のみを考えるならば、あそこは絶対に関西出身のメンバー…NMBばかりになると思うけれど…を中心に選んだ方が良かった。
そうすることで、演者同士の微妙な人間関係も表にあらわれてくる。また、鑑賞者にとっては、対立構図を直観的に把握しやすくなるだけでなく、元NMB兼任というゆいはん自身の物語をも、そこにオーバーラップさせて見ることが出来るようになるわけだよね。
それは、あまりにも48ヲタに向けて特化したような作りに見えるかも知れないけれど、でもそういう深みがある…ということが、新規のお客さんを48に取り込む役にも立つんだとボクは思う。『マジすか』第1シーズンがそうであったようにね。
だから、デンデケは全員ミスキャスト…と思っているんだけれど、ただひとり例外を認めるとすれば、まりやぎだけはハマっていた。あの子はああいう芝居ができるんだね。正直、アイドルとしてはもうほとんど評価できないし、色々と思うところもあるんだけれど、でも、才能があるものは仕方ない。それはもう仕方ないんだな…。
また、デンデケと同じような観点から、あの中学生コンビは、やっぱり、なこみくだったかなと。その方が断然分かりやすいもの。あのコンビの役作り(と言うかなんと言うか)自体はキライじゃなかったけれどね。
ひょんさまについては…記事の最後ね。
2.脚本
(ネタバレ含む)
続いて脚本。脚本に関しては、言いたいことが山ほどある。
この脚本家の方、これまで「マジすか」に関わっていた人じゃないようだし、なんでこの人に依頼したのかがそもそも疑問*なんだけれど、それ以前に、色々とヌルい。正直に言って、この脚本は叩きが全然足りなかったと思う。
(*「マジすか」の脚本チームには、舞台脚本も手がけている人が多いから、なんでそこに依頼しなかったか)
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たとえば、デンデケは復讐のために、ゲキカラをダシにしておたべを加入させるわけだけれど、でも、修学旅行なんだよこれ? 同じ街で抗争している相手だったら、その手は有効だろうけれど、修学旅行生なんて数日すれば家に帰っちゃうだけじゃない。
おたべは数日ガマンすれば家に帰れちゃうわけで、そうなったらもう縁切り出来てしまう。これがどういうことを意味するかと言えば、マジ女がおたべを取り返しに行く動機が弱い…ということになるんだよね。
それに、デンデケが狙っていたのは、おたべだけだったわけだから、おたべを屈服させたあとで、わざわざ中学生コンビにお金を払ってまでゲキカラに備えているのも、なんか変な印象を受ける。
だって、デンデケは、おたべ本人に戦わせるんだよ? その時点で、マジ女側にはもう取り返す動機…戦う動機がなくなってしまっているじゃない。あの場合、マジ女側は傷心してスゴスゴと帰って行くのが正しい…というかボクはその方がずっと納得できる。
(そんで、数日後、おたべも東京に帰ってくるわけだ。ただ、おたべはボロボロになっていて、それを見たマジ女の連中は真相を悟る。で、おたべは引き留めるけれど、マジ女連中は、はるか京都までカチコミに行く…とかならまだ分かるんだけれどね)
あるいは、デンデケが(あのギターを使って)ゲキカラを先に捕まえて、それを囮におたべを呼び寄せる…という王道のパターンだってあった筈なのに。なぜそれじゃいけなかったのか。
それに、あの展開(実際の舞台の展開)だと、ゲキカラがどうやってトラウマを克服できたのかよく分からなくなってしまう。なんかひとりで(自分の心の内だけで)トラウマを解消できちゃったみたいに見えてしまうんだ。
それって…どうなの。たしかに、内面の葛藤を描き、それの克服を描くドラマというのはある。だけれど、物語の進行と無関係に解消できてしまうんなら、わざわざ舞台にする必要はないし、自分ひとりの問題なのだったら、「マジすか」でそれをやる必要もない。
あれも、おたべが助けにくることでトラウマを克服する形にすれば、もっとずっと分かりやすい形になったのに…と思う。
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さらに悪いことには、この脚本は、そういう構造上のユルさを抱えているだけじゃなく、もうずっと陰気な場面が続くんだよね。スカッとしたバトルよりも、アンフェアないじめや拷問が続く展開で、しかもその拷問シーンも長い*。だから、演じ手にも見る側にもキツイ時間が続く。
(*あんなのフラッシュバックで良いとボクは思うんだけれど)
たしかに、そういう作り方をする舞台はあるし、それ自体は否定しない(アイドルに相応しいかどうかは別として)。でも、これはバランスが悪いと思うし、ゲキカラとマジ女の連中が邂逅する場面、少しホッとするような場面をもっと丹念に描いておけば、最後のところの説得力がもっと出たのに…とも思う。
それに、もともと構造上のユルさを抱えているから、暗いトンネルを抜けて、最終的にすべて解放された時、「ああ良かった!」…って感じにならないんだな。なんかモヤモヤとした部分が残る。途中で辛い思いをした分、その思いに比した何かが生み出せればいいわけだけれど、これはそうじゃない。
最後はむしろ、歌の力でなんとかしちゃっている感じ(そこはミュージカルであることが役立っているわけだ)。
単純に機能していない場面も多い。たとえば、西野ちゃんの瓜坊で笑いを取りに来ているんだけれど、精神的にキツい場面が続くから、心から笑える構造になっていないというか(笑っている人も確かにいるんだけれど)。
これもだから、構造的な問題で。たとえば、物語上、緊迫した場面と弛緩した場面があって、弛緩した場面で笑わせるならば、こちらも自然と笑うことが出来るだろうし、逆に緊迫した場面で笑わせれば、フッと力を抜かせるような一服の清涼剤になることも出来る。
それはつまり、舞台の展開と笑いとが有機的に結び付いているということで、それが大事なんだ(たとえば、シェークスピア悲劇の道化は、悲劇性をむしろ強調するのだけれど、それもやはり道化と悲劇性が有機的に結び付いているからなわけで)。
でも、この舞台はそういうメリハリもなくただ強引に笑いを取りに来るから…なんかどこか違和感があって。物語全体から、あの笑いの部分だけ浮かび上がっているように思えた。だからなんか…正直、少し悪趣味にも感じた。
そんなこんなで、この脚本、もっとずっと叩けたと思うし、そうすべきだったと思う。実際、多くの舞台では、演出家や役者が脚本を叩いて叩いて舞台として完成させていくわけだよね。まあ、彼女たちに今回そこまで要求するのは、酷だとは思うけれど。
3.演出etc
だから、演出としても、もっと間やテンション、空気のコントロールはやっても良かったと思う。
この演出家さん、もともと『49』でも勢いで押していく演出だったし、『49』は物語自体に力があるからそれが功を奏していたのだけれど、今回は逆に本が弱いから、それがマイナスに出てしまっている。
あとは殺陣ね…。舞台では早回しや編集のような誤魔化しが効かないから、殺陣に関しては映像に比べてハンデがある。だから、相当に苦労したあとが伺えた。
たとえば、『マジすか』では、基本的に拳での殴り合いがメインだったわけだけれど、この舞台では、木刀のような凶器を用いた殺陣も目立っていた。たぶん、その方が派手だから。
その点から考えると、この舞台をミュージカルにしたことも理解出来る。音楽の力で何とかかんとか見せてしまうことが出来るからね。
ただ、もともとAKBを舞台にしている『49』とはやっぱり違うわけで、その辺の難しさも感じた。公演曲を『マジすか』にそのまま持っていっても当てはまるわけじゃない。劇中歌が、時にすごく場違いに、世界観と合っていないように感じられる時がある。
たとえば、デンデケの曲では、NMBの『てっぺんとったんで』は合っていたけれど、『クロス』はまったく合っていなかった(だって『クロス』はバイクの歌なわけで、新撰組+ヤンキー+バンドってだけでおなかいっぱいなところに、バイク要素まで加わったら、もうイメージがとっちらかって訳が分かんなくなってしまう。しかも十字架)。
あと、『転がる石になれ』を歌っていたのは誰たちや…あれは反省してください。まったく力がなかった。クライマックスに向けて盛り上がっていく場面だから、あそこで歌が弱いと、舞台全体が乗り切れなくなってしまう。
それと、クライマックス。スローモーションのような動きとともにかかる『アヴェマリア』…あれはなんか、あまりに唐突だしステレオタイプすぎて、どう見たら良いか分からなかったな…。あれ、今じゃよっぽど上手くやらないと、コントになっちゃうでしょう。
実際、ボクは「あれ?これコント見させられていたの?」って気分になったし、この舞台がどこまで「マジ」だったのか、よく分からんくなった。「え? それどこまで本気なの?」と(『桜の栞』かけた方がよっぽど良かった)。
4.ひょんさま
え~…ひょんさまに関しては…。
「ひょんさま可愛いよひょんさま!」っていう。
悪いこと書くたびに、「他意はない」って言いたがるエクスキューズ的な…(^_^;)
まあね~…いまやボクはSKEヲタだと言明してしまっているから、AKBの中にひとりだけ入ったSKEの子を褒めるのは、なんか党派制が出てしまうようで気が引けるのだけれど…。
個人的にも、「舞台はいまいちだったけれど、ひょんさまは良かった」…と言うよりも、「舞台は素晴らしかったけれど、ひょんさまはもう少し勉強した方が良い」…と言ってしまう方が気が楽なのだけれど…。
でもな…。
ひょんさま素晴らしかったんだ。素晴らしかったの。それは演技も歌もね。ボクはウソつきたくないし、ウソはつけない。『命の意味』なんてホントに痺れたし、ミュージカルの「あの」霊性が感じられた。
役作りにしても、積み重ねた年輪…と言うと、なんか否定的に聞こえちゃいそうだけれど、尖ったナイフみたいだったゲキカラに、今回はより深みが加わっていて…しかも、それが鋭さを削いでしまうんじゃなくて、より何というか…説得力が増していて。
たとえて言うと、ナイフが日本刀になったみたいなイメージかなあ…。上手く言葉が見つからんね(ボクはボキャブラリーが欲しいよ)。
ひょんさまの今回の演技に対して、「憑依」という言葉を使っている人が居たけれど、たしかに役に入り込んでいる感じはあった。カーテンコールでもずっと引きずっている感じだったしね。
ただあれは…半分は自然とそうなっているんだろうけれど、半分は意図的にやっているんじゃないかと思う。今回の役、入り込んでしまうと、精神的にもなおさらキツイと思うんだけれど、ただ…それ本人が望んでやっているのも分かるから…ボクは何も言えなくなる。
だからこそ、これがもっと優れた舞台だったらって、なおさら強く思うし、だからこそ、舞台のあれこれに対して、こうして偉そうに色々と言いたくなってしまう。
ああ…それは言い訳だな…。
なんだろうな…あれだけもがき苦しんで、忙しく時間がなくて、体調だって崩して、でもそういう中でああいうお芝居をして。それでも、ボクはいつもその作品を…う~ん…気に入ることができなくて。
それがいつもボクの心にのしかかっていて。
終盤、「虞や虞や汝を如何せん」って言葉が、ずっと頭の中を巡っていた。この芸能界で血路を切り拓いていかなきゃいけないのに、ボクは何をしてあげられる力もない。
たぶんボクは、才能ある人々のことを妬んでいるんだな…。映画だったりドラマだったり舞台だったり、そんなものを作る力があるんだったら、もっと出来るだろうって。ああ…その力がボクにあったらな…って。