「嫌AKB論3/アイドルと演技3」(アイドル・ドラマ/映画)
前回までの記事では、外に出ていっても勝てないんだから、発想を変えて籠城戦で戦おうという話でした。
1.
ここで、またドラマの話に戻るわけですが、ついでに、ここに「アイドルと演技2」の記事の続きもまとめちゃいましょう(ちと長くなりますが)。
ボクは意識改革が必要だと思っています。それはメンバーだけじゃなく、ファンも含めてね。先日、『書店ガール』に出演中のゆりあのこんな言葉が話題になっていました。
そう言えば、今日色んな方から言われたので伝えておきます。
”戦う書店ガール”思ったより出番少ないね、今週しゃべるの?とか色々言われたけど、
出番少ないのも台詞が少ないのも本当に当たり前ですからね。
出させて頂けるだけでも凄いんです、その場で撮影の雰囲気を勉強させて貰えるだけでもありがたいんです。
みんなは私が中心になってるから、台詞が少ないとか映らないとか簡単に言うけど、
そんな甘い世界じゃないし、軽く考えて欲しくないです。
…硬骨なゆりあらしいですが。ボクはこれはまったく正しいと思います。全然否定するようなもんじゃありません。
…少なくとも今の状況においてはね。
ボクはその状況そのものに疑問があるのです…って、書くと、これ結局、ゆりあに対する反論みたいに見えちゃいそうですが、そういう積もりではまったくなく…
ゆりあたん、マジかわいいよゆりあたん! ヨシ!←
2.
あるいはゼロポジのドラマ・オーディションに出ていたメンバーたちのこと。結局、奈和ちゃんが出演権を勝ち取ったわけですが、まあ順当かなと*。
ただ、オーデを見ていて思ったのは、みんなこんなに出来ないの? と。女優の資質があるとかないとか以前に「いろは」も分かっていない。「演技のお仕事がしたい」と言う割りには、これまでいったい何をしてきたのと。少し厳しいことを言うようですが…。
特に李苑なんかは半日で見違えるほど伸びたでしょう。それは、あの子のポテンシャルが高いということと同時に、これまでがいかに空っぽだったか…ということを表しているように思います。ボクはあの子には期待しているんですけどね(とても!)。
その李苑は、こういう機会があって良かったと泣いてましたな。須田ちゃんも「こういう機会は滅多にないから掴みたかった」と泣いていましたし、奈和ちゃんもブログでこういう機会は少ない(から嬉しい)と言っていました。
…そこですよ。
3.
アイドルが一般のドラマに出る機会はそう多くない。とりわけ48ではね。視聴率が稼げるのならば、そこに食い込んでいくことも出来るでしょうが。しかし、これまでのところ、かなり厳しい結果が出ています。
ボクが前回の記事で「籠城戦」という言葉によって名指していたもの。それは言い換えれば、価値観の転換です。外にではなく内に活路を求める。
外に活路を見出すというのは、どういうことを意味するか。たとえばゆりあの発言「出させて頂けるだけでも凄いんです」を考えてみましょう。
なぜでしょう。なぜ、「出させて頂けるだけでも凄い」んでしょうか?
質の問題は関係ないです。はっきり言って『書店ガール』は大したドラマじゃないですもん(失敬…ボクは『ヤメゴク』は面白いと思うんですが、『書店ガール』はそうは思えないんです)。
それに対して、ゆりあはアイドルの第一線で戦ってきた人材です。それでも出られない。出られること自体が凄いことだ。なぜですか。それは、なぜなんですか?
答えは簡単で、アウェイだから。領域が違うからですよ。
いっぱい良い役者さんもいて、その中で出られるなんてすごい…と思えてしまうことが実はミスリードなんで。彼/彼女たちは専門家で、あなたはアイドルだから…そもそも分野が違う。戦えないなんて当たり前のことでしょう。
…ゆりあたんマジかわいいゆりあたん!←おまじない<(__)>
その価値観を転換する。これはメンバーというよりも、ヲタに求めたいことなんですが。むしろ、メンバーとか運営とかファンとか全体の意識が変わっていかないとダメなのかもなと。
4.
さて、それでは、どのように価値観を転換すべきでしょうか。アイドルが勝つことが出来、なおかつ演技の経験を積むことができるものはなんでしょう…?
チクタクチクタク…
アイドル映画、アイドル・ドラマですよ。そこに活路を見いだせと。いまの48の問題点は、彼女たちが普段やっていることと、彼女たち(の一部)がめざしている女優との間に距離があり過ぎるということです。アイドル映画、アイドル・ドラマに活路を見出し、そこで経験を積んでいけば、やがてはその先に船を漕ぎ出すことも出来るでしょう。
そういう意味では、これは籠城戦というよりは、むしろ出城を築く…あるいは(もっと積極的に)橋頭堡を築くと言っても良いかも知れませんが。
つまり、48という城(あるいはAKBやSKEといった各支城)の外に、まずアイドル・ドラマ/映画という出城…あるいは橋頭堡を築くのです。そうすれば、そこをまさしく橋頭堡として、野戦(一般ドラマ)に打って出ることができるんですから。
もちろん、48にも「マジすか」をはじめとして、ドラマというのはあります(まあ、あれがホントにアイドル・ドラマなのかどうかはさておいて…要は「スケバン刑事」の系譜をどう捉えるかって話ですけど)。「げいにん」や「マジラジ」などをそれに含めても良いでしょう。
しかし、ボクが疑問なのは、メンバーのみならず、ヲタさえも、そうしたものより、たとえばゴールデンやプライムタイムのドラマに出ることの方が格が高い…と思っている節があることです。「ゴールデンの方が多くの人が目にするんだから当たり前だろう」という声が聞こえてきそうですが、しかしはたして本当にそうでしょうか。
5.
これ、なにが変なのかアニメの例を考えてみると分かると思います。
ひとくちにアニメと言っても色々とあるわけですよ。ひとつの典型として「エヴァ的なもの」を挙げてみましょう。『エヴァ』自体は夕方のアニメでしたが、その影響はむしろ深夜アニメに顕著に見られるものでした。実際、『エヴァ』も深夜の再放送で火がついた作品でしたし。
そして、そうした「エヴァ的なもの」はアニメというメディアに留まらず、ラノベやマンガ、ゲームなどの諸メディアに広がっています。
諸メディアを横断して、なにかひとつの領域が形成されている。これを「文化」と呼びましょう。この「エヴァ的なもの」の文化を担っている層は、比較的若い層が中心です。そしてこの文化は「萌え」とか「セカイ系」とかと呼ばれた嗜好と結び付いていました。
あるいは、のちにはこの文化の周辺から「けいおん的なもの」というのが出てきます。これは「エヴァ的なもの」と親近性を持っており、その領域も多かれ少なかれ重なっているものです。
それに対して、「サザエさん的なもの」の領域があります。『サザエさん』は言うまでもなく国民的長寿アニメ番組で、ゴールデンタイム(の直前)に放送されています。『サザエさん』を見る層というのは、老若男女入り混じっているでしょう。そして、アニメ番組の視聴率ランキングでは、いまだに『サザエさん』が圧倒的です。
しかしながら、「エヴァ的なもの」の制作者も消費者も、果たして『サザエさん』のようになることを望んでいるでしょうか。ある意味ではyesかも知れませんが、しかしそうではないでしょう。「エヴァ的なもの」の王さまは『エヴァ』なのであって、(どちらを選ぶかと聞かれたら)『エヴァ』のような作品を作りたい、あるいは見たいと願うのではないでしょうか。
ひとくちに「アニメ」と言っても、これだけ違うものがあるわけです。「エヴァ的なもの」のアニメは『サザエさん』ほどの視聴率は決して取りませんが、しかしDVDやらキャラクターグッズやらでそれなりに元が取れるという構造になっています。それは、社会の中のほんの一部の人が支えている文化ですが、それはそれでちゃんと自足できているものです。
ボクが「アイドル」という文化で不思議なのは、その文化を担っているはずの人間たちが「ドラマ」や「映画」と言った時に、なぜか、「エヴァ的なもの」(自らの領域であるアイドル的なもの)ではなく、「サザエさん的なもの」(自らの領域外のもの)を志向しようとするところです。
もちろん、いつまでもアイドルで居られるわけではありませんから、アイドル本人がやがてはそういう志向を持っていくのは理解できます。しかし、単にそこに切り込んでいっても勝つのは難しいでしょう。
そのためにもアイドル・ドラマ/映画の自立が必要なんです。アイドル・ドラマやアイドル映画というものが(「エヴァ的なもの」のように)自立してやっていけるくらいにまで成長すれば、アイドルたちがそこで経験を積む機会だって増えるんですから。
だから、『スラムダンク』ではないですが、君はまずアイドル・ドラマ/映画で一番の女優さんになりなさいってことですよ(「とりあえず…君は日本一の高校生になりなさい。アメリカはそれからでも遅くはない」by安西先生)
それに、ドルヲタまでもがそういう志向を持つってのは、まずもっておかしいでしょう。まずは自分たちが担っている文化に誇りを持とうよと。ボクらがアイドル・ドラマやアイドル映画を評価しなくて、他の誰が評価してくれるんですか。
アイドルたち自身は、文化を育てるみたいな、そんな悠長なことは言ってられんでしょうから、だからボクらがしっかり言う必要があるし、この文化を支える必要があると思うんです。
6.
そのためには、まず『エヴァ』のような王さま…この分野における基準となるもの…を決めねばならんと思います。ボクはそれは、『幕が上がる』で良いと思いますよ。あれ以上のアイドル映画はないんですから(異論は認めます)。キネ旬では、5点評価で3、4、3とかいう評価でしたけどね。
同じ号(だったかな?)では、『案山子とラケット』も「主演2人のPVみたいだから」(ボクもそう書きましたが)と、悪い評価がついていましたが…。
言いたいヤツには言わせておきましょう(普段、『サザエさん』しか見ていないような爺さん婆さんに、『エヴァ』が分かると思いますか?)。アイドル映画だったら、むしろ「主演2人のPV」みたいで良いんですよ。ボクらはボクらの評価基準を持ちましょう。アイドル映画、アイドル・ドラマを評価する基準をね。
この評価基準に照らせば、堀北真希や戸田恵梨香の代表作は、『Division1 放課後』ですし、宮崎あおいの代表作は『ケータイ刑事 銭形愛』、栗山千明の代表作は『o-daiba.com』になるのです。
それらは多くの人が見たり、識者が評価したりしたものではないかも知れませんが、ボクらにとっては輝ける宝石です。
そしてもちろん、そのように一般的に成功した子たちの作品でなくとも、『ナツのツボミ』や『heartbeat』を宝石として扱いましょう。ああした作品をまた見られるということを、ボクはずっと願ってきたのです。
48でも、最近では「マジすか」をはじめとして、「AKB49」の舞台やHKTの明治座公演など、演技をする機会が増えてきた印象があります。やはり、メンバーのニーズとしても、演技をしたいというのがあるのでしょう。
ただボクは、48運営が「マジすか」みたいなドラマをもっとたくさん作らせれば良い…と単に思っているわけではありません(もちろん増やすこと自体は大歓迎ですが)。第一、そうしたドラマを作っても、結局そこに出られるのは、運営推しの子ですから。
その評価基準(運営推しや人気)は、あくまでも48のものであって、純粋なアイドル・ドラマ/映画の評価基準とは必ずしも一致するものではありません。当たり前ですけれどね。ボクが言おうとしていることは、アイドル・ドラマ/映画としてのそれ自体の基準を作りましょうということなんです。
第二に、結局そうして作られたドラマは、そのグループのファンによって支えられるものになるからです。AKBヲタなら「マジすか」、SKEヲタなら「マジラジ」、NMBヲタなら「げいにん」といった風にね。これはもう単に、そのファンがどのグループを愛すかだけの問題になります。それもまた、すでにアイドル・ドラマとしての純粋な評価じゃなくなっているでしょう。
やっぱり、ここでもアニメにたとえると分かりやすいかな。
「ガイナックス」(あるいはスタジオカラー)だからとか、「京アニ」だからとかではなく、評価すべきなのです。たとえば、「けいおん的なもの」の正当な後継者として評価された『SHIROBAKO』が、「京アニ」ではなく「P.A.WORKS」から出てきたようにね。ここには、それ自体の独自な論理が働いているんです。
だからこそ、『幕が上がる』なんですよ。
もちろん、『幕が上がる』は「ももクロ」の映画です。本広さんという有名監督が撮っているとは言え、その点では「マジすか」などと大きく変わるものではないでしょう。でも、ボクら48のヲタがそれを評価するってことには積極的な意味があります。
なぜならそれは、そのグループという枠を越えて、なにかそこにアイドル・ドラマ/映画に共通する普遍的な価値を認めたということになりますから。そして、その普遍的な価値を基準として、それに照らして各アイドル・ドラマ/映画を評価していきましょう。そうすれば、それは文化として定着していきます。だからまず、ここから始めるべきなのです。
まず『幕が上がる』から始めよう…これがボクの結論です。