寄生獣 完結編
2015年日本、118分
監督:山崎貴
主演:染谷将太
概要
岩明均のコミックを2部作形式で実写化した、SFサスペンスの後編。右手に寄生生物ミギーを宿した少年・新一と人類を食糧とするほかのパラサイトたち、彼らの全滅を図る特殊部隊が入り乱れる、壮絶なバトルが展開。監督に山崎貴、キャストに染谷将太、深津絵里、橋本愛、北村一輝、國村隼、浅野忠信ら前作のメンバーが結集した。地球での生存を懸けた人類とパラサイトの激闘の行方に加え、新一とミギーの友情をめぐるドラマも見どころ。(シネマトゥデイより)
感想
「鉄は熱いうちに打て」という言葉がある。機を逸してしまったらどうしようもないということ。『寄生獣 完結版』にもそんな印象が付きまとう。
もちろん、『寄生獣』自体は90年代の漫画なわけだけれど、アニメ化→実写化という流れの中で再び「熱さ」が戻っていた。そういう意味では、実写版の『前編』はいいタイミングで出てきたと思うし、内容的にもなかなか良かった。
だけど、この完結編が公開されたのは、それから半年を経ていた。アニメもすでにエンディングを迎え、ボクの中での『寄生獣』モードもひと段落…という感じになっていたから、「いまさら寄生獣?」って感覚があった。
そんなスレ違いの感覚を抱いたまま、ボクは劇場にいた。
かなり展開が早くて、そのせいか心情や状況の変化に唐突な感じや違和感を受ける。それにやっぱり、寄生生物特有の柔らかさや、あるいは常人離れした新一の身体能力なんかは出ていない。その辺はアニメ版に決定的に劣っている。
ただ、この実写版には実写版の良さというものがあるとは思う。展開が早い分、リズムの良さは感じるし、なにより役者の力というものを感じる。
染谷くんはややナイーブ過ぎる感じだけれど、それでも悪くないし、深津さんの演技もやや人間的過ぎるように感じるけれど、やはりグッと惹きつけられるものがある。浅野さんや大森さんの演技は(当たり前だけれど)迫力があるし、阿部さんの声はアニメ版とはまた異なったミギーを作り上げている。
そして、橋本愛ちゃんはややパワーダウンの感があるけれど(鉄は熱いうちに打て)、それでもあの凛とした存在感は、この実写版の村野里美に欠かせない。アニメ版と比べて、何かひとつでも優れているところを挙げるとすれば、ボクはこの橋本版里美を挙げる。
(アニメ版里美は花澤さんが唯一…かどうか…役作りに失敗した役だとボクは思っている)
だから、映画の3/4が終わるころまでは評価3.5~4くらいのイメージで見ていた。けれど、残り30分で一気にその評価は落ちていった。
☆☆☆(3.0)
物語☆☆★
配役☆☆☆☆
演出☆☆★
映像☆☆☆
音楽☆☆☆☆
以下ネタバレあり
ひとつは美津代さんが出ていないということ。あそこ里美にしちゃったら、相当意味が違ってくるでしょ。美津代さんは、「見知らぬ人でも助けるのが人間だ」という、ある意味では人間の良心の現れなわけで。あそこで新一は相当救われるはずなんだ。それを彼女にしちゃったら、助けられるのは当然と言うか…。
(原作にもあった)ラブシーンを入れるために里美にしたのかも知らんけれど、あの場所にしてしまったことで、セックスの意味も変わってしまっている。原作は、生きたい→セックスなわけで、あれは生存(あるいは種の保存)本能なんだよ。それは『寄生獣』のテーマと深く結びついている。それを「助かった」と思っている段階でのセックスにしたら、まるで意味が違ってしまう。それによって、全体が安いメロドラマに見えるようになってしまった。
それから、ミギーの葛藤(と言うか、なんと言うかな)が描かれなかったこと。ミギーは後藤に取り込まれた時、全体の中の一部になって心地よかったと言うわけだよね。それを振り切って戻ってくるから、ミギーの友情とか自発性とか(個性とかね)そういうのが際立ってくるわけで。
そしてもうひとつは、「放射性物質」。あれでもうコントになっちゃったでしょ。(今回、脚本も担当した)監督自身は、
と言っているけれど、「有機塩素化合物」を「放射性物質」に変えたことで何を引き込んでいるかといえば、もちろん「原発問題」なわけで。いまの日本ではこれは「原発政策(再稼働etc.)」の問題と結びついているから、社会問題の色彩を強く帯びている。だから、人間存在そのものの業という普遍的な問題から、むしろ一歩後退したように見えてしまう。
しかも、言葉を変えたのに設定を詰めていないから、なんかズレを生じていて。
「有機塩素化合物」の特性として、「自然界にはほとんど存在しない」「極めて稀」ってことがある。その特性が『寄生獣』を考える時に、すごく重要なんだよね。やっぱり「人間の業」って話なわけだから。これ、「放射性物質」にしてしまうと話が変わってしまうのは、それは別に自然界にも存在するものだから。それだけでも話が大分ズレてしまう。
それに、寄生生物に対して即効性で致命的なダメージを与えるような「放射性物質」って相当限られてくる(=おそらく核廃棄物)と思うんだけれど、それに棒に付着していたわけだから液体でしょ? それ、どうやって手に入れて、どうやって捨てたのさと(もちろん、「1F」には山ほどあるわけだけれど)。
原作の場合、「有機塩素化合物」は、山に不法投棄されていたゴミ山に含まれていたわけで、それは実際にあり得る(というか良くある)わけだよね。しかも、そういう強力な毒性を持つものを平気で山に捨てる…だから、「人間様には敵わない」わけで(もちろん皮肉)。それは国の政策とかそういうレベルの話を越えている。
それに対して、この映画がすっごく変なのは、まずその「放射性物質」が転がっている場所がちゃんと廃棄物処理施設の焼却炉になっちゃってるってこと。なにをちゃんと捨てとんねんと(笑)
しかも、ちゃんとした処理施設なのに、なぜかそこに高濃度の「放射性物質」が管理もされず転がっている(=焼却炉に放り込まれることになっている)…って、これもう二重に意味が違っちゃってるでしょ。それはその処理施設の検査とか管理の問題とかになってしまうわけで、「人間の業」ってところから一歩も二歩も引いてしまっている。
なんか全体がすごくシュリンクした(縮んだ)ように見えてしまうんだ。
ボクは、「放射性物質を扱うな」とは言わない。いや、むしろ(『寄生獣』のテーマとうまくかみ合わすことが出来るのならば)「扱え」とさえ思う。議論が深化するならば問題提起は大歓迎だ。だけど、扱うならちゃんと扱えと。「今だったら何」みたいにファッションとして扱うから、変なことが山ほど出てきてしまうわけで。
この人、『STANDBY ME』もそうだったし、『永遠のゼロ』もそうだったし、いつもそうだよね。なんでもかんでもファッションにしちまうんだ。そうして本質を何も見えなくさせてしまう。