『ウォルト・ディズニーの約束』
SAVING MR. BANKS
2013年アメリカ、126分
監督:ジョン・リー・ハンコック
主演:エマ・トンプソン/トム・ハンクス
概要
エマ・トンプソンとトム・ハンクスという英米のオスカー俳優が共演を果たし、傑作ミュージカル映画『メリー・ポピンズ』誕生秘話に迫る感動のヒューマンドラマ。ウォルト・ディズニーの映画製作の舞台裏を初めて描き、原作者と映画製作者の激しい攻防を情感豊かに映し出す。ポール・ジアマッティやコリン・ファレルら名優たちも豪華共演。頑固な作家の心の奥深くに秘められた、ある思いを浮き彫りにする展開に心打たれる。(シネマトゥデイ)
感想(注:完全にネタバレします)
ボクは、『メリー・ポピンズ』というのは悲しい話だと思う。彼女に与えられた役割は家族を立て直すことであって、立て直された家族は彼女を必要としなくなってしまう。だから彼女はまた去って行かなきゃならないんだ。
『メリー・ポピンズ』は悲しい話だとボクは思う。だから、いま見返してみると、あの冒頭の音楽は妙に明るすぎて、妙な違和感を覚えるんだ。
1.
移り変わってゆく時代のなかで、いかにファンタジーを成立させるか。近ごろのディズニーを見ていると、そんなことを考えさせられます。
ひとつには、ディズニーランドのように、徹底して現実世界と距離を置くという方法があるでしょう。そこでは、とにかく現実と距離を置くということに意味がある。まさに、「夢の国」なわけです。
その一方で、『アナ雪』や『マレフィセント』のように、既存のディズニー的なものを、ある意味では壊しつつ更新していくという方法もあるでしょう。まあ、あれだけ物語の構図を逆転させても、それでもまだディズニー的なものが成立するってところが、逆にすごいのかも知れませんが。
結局、ティアラとかドレスとかお城とか、そうした記号的なものさえあれば、観客の側が勝手にそれをディズニー的なものとして成立させてしまうわけですよね。それはもう何というか…慣習化した、お約束としてのファンタジーです。
そして、最後のものとして、現実そのものをファンタジーの内に回収してしまうという方法があります。それは、このSaving Mr. BanksやFinding Neverland(ディズニー制作じゃないですが)に典型的に現れているでしょう。
2.
正直、現代だとファンタジーをそのまま受け取るのはむずかしい。時代環境の変化もありますし、「研究」も進んで作品外部の環境も分かるようになります。どのようにして、その作品が作られたか、というね。
それでもまだ、そのままファンタジーを受け取れる人もいるでしょうが、多くの大人にとって、「それはもうムリだ」というのが、こうした作品制作の動機としてまずあるだろう、とボクは思います(だから、ぶっちゃけた話、ファンタジーをまだそのまま受け取れる人にとっては、こんなの必要ないわけですよね)。
そうした作品外部の環境をも作品の内に取り込んで、もう一度、原作をファンタジーとして焼き直すこと。「こうした現実の中で作られたファンタジー」としてね。外部をも作品として取り込むことで、ファンタジーと現実との間に引き裂かれていた『メリー・ポピンズ』が、「現実内ファンタジー」として息を吹き返すのです。
じつは、そうして名指された「現実」なるものが、それ自体、こうして作品化された現実=「作品内現実」ということがミソなんですけどね。そうして、「作品内現実」と置き換えることで、ファンタジーと現実とが引き裂かれた「生の現実」を(ある意味では)包み隠してしまうという。
それはともかく…
つまり、言い換えれば、Saving Mr. Banksとして『メリー・ポピンズ』の存在を語りなおすこと。それは、作品内のバンクス氏を救う/守る存在であると同時に、作品外のトラヴァース・ゴフ氏を救う/守る存在ということでもあって。そして、そのこと自体を作品内のものとして位置づけることで、メリー・ポピンズがSaving Mr. Banks=Saving Mr. Traversとして新たな息吹を与えられるわけですよね。
(Saving Mary Poppinsと言っても良いんですけれど)
3.
そして、この映画Saving Mr. Banksでポイントになっているのは、誰より救われなくちゃ/守られなくちゃいけない人としてトラヴァース婦人を描くことでしょう(もちろん、それはSaving Mr. Banks=Saving Mr. Traversされることによって婦人が救われる/守られるという二重三重の構造になっているわけですけれど)。
この映画では、トラヴァース婦人がアニメーションをものすごく嫌がるのが印象的です。それは実際にそうだったのでしょう。でも、この映画の冒頭場面から明らかなことが、おそらくひとつあって。それは、回想シーンで現れる彼女の(美しく悲しい)幼少期がまるでアニメーションのようだということです。
雲の中からスーッと舞い降りてくるカメラ。あの軽やかさ。あれはもうまさしくディズニー・アニメそのものでしょう(『リトル・マーメイド』とかね)。そしてもちろん、ディズニー映画『メリー・ポピンズ』の冒頭、ロンドンの街を空撮で捉えたショット、あれもアニメ(絵)だったのでした。
そして、『メリー・ポピンズ』では、そのまま雲の上に座って化粧をするメリー・ポピンズ(ジュリー・アンドリュース)の実写ショットへと移行するわけです。常人離れした白皙の美貌のジュリー・アンドリュースが、全身真っ黒の衣装を着て(ヘンテコな傘を脇に抱えて)スモッグの中で化粧をする姿は、もうそれ自体がファンタジーのように見えます。
(だから、ここではアニメーションと実写の距離は限りなく近くなっていて、ともにファンタジーを感じさせるものになっています)
それに対して、Saving Mr. Banksでは、軽やかに舞い降りてきたカメラが少女トラヴァースに近づいていくと、(映画における)現代へと場面が移り変わります。そして、さらに近づいていき近づいていき、電話のベルと共に正面からトラヴァース婦人を捉えるカットに切り替わるのです。
そこに映っているのは、眉をひそめ額にしわを寄せ、偏屈に腕を組み、まっすぐと前を見据える気難しいひとりの女性。その重さ。生きること…現実それ自体の重さがその全身にのしかかっているようなね。ここでの現実は、ファンタジーとはまるでかけ離れたものとして提示されているわけです。
ここで、この映画の問題系はハッキリします。彼女のなかで、明らかに不調和をきたしている回想期の軽やかさと、(映画内)現代の重さ…あるいはアニメーション=ファンタジーと現実とをいかに調和させるか…ということです。だからこそ、なんで彼女がアニメーションを拒否するか…ということが決定的に問題になってくるわけですよね。
それはまた、アニメーションの王様であるディズニーと彼女の…邂逅とまではいかないな…なんと言うか、本来は似たもの同士(ファンタジーを心に持つ人)であるはずの2人の、その離れてしまった距離を、いかに埋めていくか…という物語でもあって。
(Saving Mr. Banks=Saving Mr. Travers=Saving Miss Traversをすることそれ自体がディズニーの約束だっていうね…まあ邦題はどうでも良いんですが。この映画の構造的に言うと、[追記:終盤のシーンで]メリー・ポピンズの役を演じているのは、むしろディズニーの方なんですよね。だから、彼はドアから訪れるんでしょう。東の風に乗ってね)。
だから、婦人をこういう人物造形にしたことについては賛否両論あると思いますが、それは脚本の意図としては、まあ理解はできます(それが良いか悪いかは別として)。
それに、この映画は(『42』と同じように)最後まで棘を少し残しているんですよね。「作品内現実」にすべて回収してしまわないで、少しだけ「生の現実」に対して開かれたものにしている。それはなんと言うか…ある意味では、この映画の制作者(なり)のトラヴァース婦人への精一杯の誠意というかな…そんな気がしてね。
4.
『メリー・ポピンズ』は悲しい話だとボクは思う。そして、このSaving Mr. Banksの冒頭もやっぱり悲しい音楽で始まるんだ。その悲しさが、この映画の中ですべて解消されるわけじゃない…そうじゃないけれど、なにか芯の強さのようなものがね、そこに宿るんだ。
寒風が吹きすさぶなか、じっと耐え忍ぶ一本の木のようなね。
☆☆☆☆★(4.5)