修論( ..)φメモメモ2 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


修論メモ2

 Googleストリートビューにおいて、ユーザーは、歩行と首振りを創造しつつ、現実世界に強制的に意識を向けられる。これを可能にしているのは、圧倒的な物理量だ。9~15個のレンズを持つカメラによって獲得された水平360度垂直180度の半天画像、それが無数に並べられてストリートビューは構成されている。ここでは、そうして得られた無数の選択肢こそが創造に関わっている。

 これは、ボルヘスの有名な小編「バベルの図書館」を思い起こさせる。「バベルの図書館」の書物はすべて、アルファベット(+記号)25文字×1行80文字×40行×410ページでできている。図書館には、その組み合わせで可能な、ありとあらゆる書物が所蔵されている。(たまたま)意味のある組み合わせになったものから、全く無意味な羅列にすぎないものに至るまで、ありとあらゆる可能性の束が、そこには含まれているのだ。

 したがって、この図書館には、言語で記述可能な、ありとあらゆる過去のみならず、ありとあらゆる未来が潜在的(=ヴァーチャル)に蓄えられている(「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」ウィトゲンシュタイン)。

 ここでは、ありとあらゆる未来はすべて、あらかじめそこにあったもの(潜在的に含まれていたもの)である。つまるところ、ありとあらゆる創造は、選択肢のひとつに過ぎない。この考え方は、デジタルになって前景化した。

 デジタルカメラを思い起こしてみよう。たとえば、あるデジタルカメラは、1670万(4992×3328)画素×1677万色の「組み合わせ」によって画像を「生み出す」。この組み合わせは膨大な数であって、一見、無限大のように思えてしまう。しかし、それは無限大とはイコールではない。デジタルカメラによって写されたありとあらゆる画像はすべて、あらかじめそこに潜在的にあったものである。

 これが何故、創造に関わるかと言えば、それはそこに「存在者」が関わるからである。ヴァーチャルなものは、それのみではヴァーチャルなもの足り得ない。存在者がいることで、初めてヴァーチャルなものは問題提起を投げかけることが出来る。その両者の対話によって、アクチュアル化が可能になる。

 たとえばフライト・シミュレーターを考えてみよう。まずフライト・シミュレーターがどのように飛行をするかを存在者に問いかけ、それに対して存在者がある解決を指示(入力)し、さらにシミュレーターが応えることによって、無数のパターン(それ自体がじつは選択肢の一部なのだが)の飛行がそこから生まれる。対話によって、それらは生み出される(創造される)のだ。

 同様に、「バベルの図書館」の司書は「あなたが探しているものは何ですか?」と問いかけ、存在者はありとあらゆる未来(あるいは過去ー架空のものも含めてー)の中から、ある解決を司書に指示する。対話しつつ探すことによってそれ(ある本)を生み出していく。

 これはじつは、物を書くということ自体が、文字の「選択」による「創造」であることを示唆している。あらゆる文学作品は、その言語体系のうちにあらかじめ埋め込まれている。書き手は(無意識にせよ)その言語体系と対話を重ねながら、文学作品を生み出していく。

 デジタルカメラもまたモニターを通じて「あなたが探しているものは何ですか?」と問いかけ、存在者がそれに対する解決を与え、最後にカメラが応えることで、画像を生み出していく。

 デジタルにおいて(あるいは言語芸術において)、「創造」と「選択」とはほとんどイコールである。圧倒的な選択肢の量は、それ自体が創造に結び付いている。