清須会議(3.0) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
『清須会議』
 
2013年日本、138分
 
監督: 三谷幸喜
 
主演:役所広司/大泉洋
 
概要
 数々のヒット作を作り出してきた三谷幸喜が、およそ17年ぶりに書き下ろした小説を自ら映画化した群像喜劇。本能寺の変で織田信長が亡くなった後、織田家後継者と領地配分を決めるために、柴田勝家や羽柴秀吉らが一堂に会した清須会議の全容を描く。役所広司演じる勝家と大泉洋ふんする秀吉の主導権争いを軸に、それぞれに思惑を秘めた登場人物たちが駆け引きを繰り広げていく。そのほか佐藤浩市、妻夫木聡、浅野忠信、西田敏行ら豪華キャストが勢ぞろいする。(Yahoo!映画より)
 
 
無闇に長い感想
1.(小学校の卒業文集に「黒田官兵衛になりたい」って書いたボクが通ります)
 
 まあ、時代考証とかはどうでもいいや。三谷作品にその辺のことを期待しても仕方ないし。秀吉(藤吉郎)の庶民派描写がウソくさいとか、「戦乱の世を終わらせる」とか言って、あんた朝鮮に攻め込んでるやんとか、まあそういうツッコミも良いことにしよう。滝川一益(左近)がひとりで逃げ帰ってくるのも、デフォルメされたギャグだと思えば大して気になりもしない。
 
 だけど、実在の人物をドラマ/映画のキャラクターにした場合、どうしてもそのキャラクターは実在の人物の記号として機能してしまう。それは、ドラマ/映画で描かれていないことを自動的に引き込んでしまう。秀吉がのちになにをしたか、秀信(三法師)がどういう運命をたどったか。
 
 これは、ある程度、三谷さん自身も意識しているだろう。たとえば、秀吉にへつらう列に並んでいた佐々成政(内蔵助)が踵をひるがえす場面は、その後の成政の動向を示唆している。逆に、小牧・長久手であえなく討ち死にしてしまう池田恒興(勝三郎)が、劇中で「この世は生き残ったもん勝ちだ」と宣言していることは、一種の皮肉として機能している。
 
 映画序盤、飛ぶ鳥を落とす勢いである筈の秀吉が、丹羽長秀(五郎左)と柴田勝家(権六)に妙にヘコヘコするのも、彼が丹羽の「羽」と柴田の「柴」の字をもらって名字とした、という有名な逸話を思い起こせば、ニヤンとしてしまう部分もあるだろう。ラスト・シーンもそれに応じて、秀吉のおべっか使いの顔と、その裏にあるドス黒い本性を表している。
 
 だけど、結局のところ、三谷さんは物語を「閉じ切れていない」。(彼の好きな)「新選組」程度の規模だったらまだしも、この規模になってしまうと、それはムリなんだと思う。この時代の織田家は、天下統一にリーチをかけた状態で、ここに登場する諸将も、すでに大名クラスになっている。当然、引きこんでしまう文脈も遥かに多い。
 
 のちの秀吉の数々の極悪エピソードのように、ここに描かれていることだけでは言い訳が効かなくなってしまうことが、多々出てきてしまうんだ(別に朝鮮出兵のことだけを言っているわけじゃない。ボクは、秀吉を古今東西ゴマンといる典型的な軍事政権の専制君主だと見なしている)。
 
 これはつまり、監督/脚本が物語をすべてコントロールできないということを意味している。それをむりやりコントロールしようとすれば、結局、もっとも重要な部分をスポイルしてしまうことになる。
 
 
2.(スポイルされたもの)
 
 たとえば、羽柴秀長(小一郎)。彼はこの時点で、すでに秀吉の副将の地位を固めていた(それはつまり、「天下の副将」という意味だ)。それがどう描かれていたか。寧々にくっついている只のお調子者に過ぎない。キャラクターとしてなら、それでも良いかも知れない。でも、数万の軍勢を率いて毛利や長宗我部、島津と互角以上に渡り合う姿が、あの姿から連想できるだろうか。
 
 ある者は「お調子者」、またある者は「生真面目」。このように登場人物たちを記号化されたキャラクターとして扱う。もちろん、これは『12人の優しい日本人』以来おなじみの三谷脚本だ。だけど、それは実在の人物が持っていた豊かな彩りを失わせてしまう(とくに秀長なんか、あんな中途半端な描き方をするくらいだったら、出さない方が100倍マシだった)。 
 
 さらに、三谷脚本/演出によって『清須会議』は「清州会議」自体をシュリンク(縮め)させてしまった。それぞれにそれぞれの思惑があって、虚々実々の駆け引きが行われる。その意図は分かる。でも、キャラクター化してしまうことで、そこにかかっていた諸々のものを見失わせてしまう。血縁、友情、恩義、立場、利害関係…その他もろもろのもの。あそこにはもっとずっと多くのものがかかっていた筈なのに、それが見えなくなってしまう。
 
 たとえば典型的なのが前田利家(犬千代)の描き方だ。利家は、あの時点ですでに大名(それも国持大名)クラスの実力をもっていた。当然、彼の肩にかかっているものは大きい。織田家に対する忠義、勝家に対する恩義、秀吉に対する友情、そして何より一門衆/家臣団/領民に対する責任。立場的にも非常に難しい立場だった。実際、賤ヶ岳での彼の動向は、天下の趨勢に影響を与えた。
 
 秀吉への友情と織田家への忠義との狭間で悩む心境。それは、三谷さんも描こうとしていた。でも、佐々成政と相部屋で眠る若武者風の利家からは、その肩にどれだけのものがかかっていたかを窺い知ることはできない。まるで、友情か忠義かと思い悩む一介の武辺者のように見えてしまう。
 
 その理由のひとつは、相部屋の例からも分かるように、三谷さんが舞台的な空間感覚を持ち込んでいるためだ。これまでにも数々の映画で見せてきたように(「グランドホテル方式」か、それが一室に限定された「密室劇」かという違いはあるにせよ)、彼は物理的に限定されたある範囲内で物語を成立させようとする。
 
 「清州会議」をシュリンクさせたのも意図的だろうし、お市の部屋から勝家の部屋、秀吉の部屋まで見通せてしまうというようなバカバカしい設定も、演出上の要請だろう。
 
 でも、そうしたことで結局、「清州会議」であることの意味がなくなってしまった。ここでは天下の趨勢を占うような重大な事項が決定されていたというのに、そうしたものがすべてスポイルされてしまっている。「権勢」という観点が、この映画からは抜け落ちている。狭い城内をひとり闊歩する姿からは、権勢というものは窺えない(家臣団の不在)。
 
 三谷さんが、そうしたものを日常的なバカバカしさに転化したかったってのは分かる。冒頭に述べた滝川の一人逃げもそれに類するものだろう。でも、「清州会議」は、まさに権力争いの場であったのだ。それを捨てたことで、ここにかかっていた種々のもの、それぞれの思惑、虚々実々の駆け引き、それによって生じる緊迫感、そうしたものもすべて損なわれてしまった。
 
 そのことによって、勝家が「時代に遅れてしまった」ということも、説得力がなくなってしまっている。なぜならば、ここに描かれている織田家は、(シュリンクさせたことで)清州時代の織田家のような規模に見えてしまっているからだ。つまり、新時代と旧時代のメリハリが効いていない。
 
 ここで失われたものは、ひとえに言って「時代の空気」というものだ。天下を制覇せんとしていた織田家の空気。そして「本能寺の変」の衝撃。光秀を討った秀吉の威光が強く、みながそれに気圧されてしまう「清州会議」。そうした「空気」を感じることが出来ない。たしかに口では言っているけれど、画には現れていない。だから、長秀の「変心」も、なにか唐突のように感じられてしまう。
 
 「時代の空気」を感じることが出来ない。それは史劇としては致命的だ。
 
 
3.(「お話」として)
 では、単に「お話」として見れば面白いか? いや、それがそうでもない。そうでもないから困ってしまうんだ。お話として面白ければ、四の五の言わずに引き込まれたかも知れない。でもそうじゃない。そうじゃなかったんだ。
 
 これは「何をどうしたかったのか」良く分からん。より正確に言えば、何がしたかったのかは分かるんだけど、どうしたかったのかは良く分からん。
 
 簡単に言ってしまうと、この映画は詰まらない。退屈な作品だ。なにがって…まず虚々実々の駆け引きってのも、なんか、それぞれがてんでバラバラなことをやっているように感じてしまう。それぞれの目的が絡み合って収斂していく感じがしない。
 
 それは、キャラクター化させてしまう三谷脚本には付きものかも知れない。だって、みんながみんな頭の切れるキャラクターには出来ないからね。だから、これはポリティカル・サスペンスにはなり得ないし、こういうテーマはそもそも三谷作品には向いてないんじゃないかと思う。ボクには、2時間20分が無闇に長く感じてしまった。
 
 物語のひとつのカギとなる恒興のどっちつかずさにしても、キャラクター化してしまっているために、 真の葛藤はそこからは見て取れない。むしろ、仕掛けのために(監督が)キャラクターを造形しているように思えてしまう。だから、いざ会議の場で旗色を鮮明にしても、「ふ~ん」って感じになってしまう(最初から結末は分かっている訳だし)。
 
 三谷作品の場合、だいたいどんな作品でもそうだけれど、なにか劇中で「出来事」が起こって、それが物語を駆動させていく。たとえば、『12人の優しい日本人』の場合、ある事件について話し合っていくうちに、新たな「発見」があって、それによって物語が展開していく。「発見」という「出来事」が、オセロのように個々の意見を変えさせ、それによって物語が展開していくんだ。
 
 同じ会議でも、『清須会議』の場合は決まった「出来事」があるわけじゃない(あるんだけど弱い)。これは史実に縛られているせいだと思う。そこで、物語を展開させるために、「紅白旗獲り合戦」みたいなものが導入されている。だけど、あれは史劇にいきなりバラエティの運動会が挿入されたみたいだった。その時点で、もう相当にムリがある。
 
 だからボクが「何をどうしたかったか良く分からん」って言っているのは、なんで『清須会議』にしようとしたのか(まだ「小田原評定」の方が良かったんじゃないか…あれは「一夜城」って大きな見せ場があるし)、「清州会議」を一体どうしたかったのか分からんってこと。正直、こんな企画よく通ったな~って感じ。
 
 キャストは…まあ、半々かな。小日向さんの丹羽長秀はハマり役だった。役所さんの勝家もさすがって感じ。寺島さんの黒官、浅野さんの利家も(まあ先述の点は気になったけど)魅力的だった。対して女優陣は(中谷さん以外)ほぼ全滅。理由はあえて言わない(* ̄艸 ̄)
 
 この映画で唯一良かったのは清洲城(とそこから眺める城下町)のCGくらいかな~…
 
☆☆☆(3.0)