閑話休題(監視すること/されること) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 ベンサム(Jeremy Bentham、1748 - 1832)が考案し、フーコー(Michel Foucault、1926 - 1984)が社会に転用した「パノプティコン」*ってモデルがあります。それは、監視者が監視される者を一方的に見ているというモデルです。これを典型的に表しているのが、映画『トゥルーマン・ショー』(1998)において描かれたものでしょう。あれは明らかにパノプティコンのモデルに基づいています。そして、映画的にはそこからの解放を目指している。
*パノプティコンは円形に配置された収容者の個室が多層式看守塔に面するよう設計されており、収容者たちはお互いの姿をみることはできず、ブラインドなどによって看守もみえなかった。一方、看守はその位置からすべての収容者を監視することができた。(wiki)

 だけど、ボクはこのモデルはもう機能しないと思っています。いま、現出しつつあるのは、「監視することすら監視される」という社会の在り方です(トゥルーマンを見ている俳優たちもまたボクらに見られているという点において、あの映画は示唆的です)。

 (反論みたいになってしまって申し訳ないんですが)じつのところ、同年に作られた『エネミー・オブ・アメリカ』(1998)ではもう一歩段階が進んでいます。あそこで描かれているのは、一見、『トゥルーマン・ショー』同様のパノプティコン・モデルなんですが、じつは(ネタバレになってしまいますが)最後にそれを反転させている。そこで描かれるのは、「監視するものすら監視される」という状態です。

 簡単な例をあげましょう。たとえば、個人情報が集められて、「どこで何のために使われているか分からないから怖い」って段階があるとしましょう。でも、ボクら(少なくともボク)が夢見ているのは、そのもっと先の段階。「どこで何のために使われているかということすら筒抜けになってしまう」という状態です。「悪い奴らに利用されたらどうすんだ」と思うかも知れない。だけど、その悪い奴らが利用していることすら見えてしまう。その状態こそが、ボクが夢見ているものです。

 大塚英志-東浩紀の議論で彼らがいつも噛み合わないのは、権力というものの在り処の問題です。大塚は権力なるものがどこかに確固たる形で存在していると思っている。「それに対する自衛策を市民たちは考えなければならない」というのが大塚です。でも、東(やボク)はそんなものがどこかにあるとは思っていない。権力ってのは確かにあるだろうけれど、それを構成しているのはむしろ個々の市民たち自身なんだと。だから大塚の言っていることは、風車を見てそこにありもしない巨人を見てしまうドン・キホーテのように思えてしまう。そこにリアリティを感じない。

 だけど、彼ら(個人情報保護派とでも言っておきましょうか)は、「いや実際にそうなっているじゃないか」と言うでしょう。たとえばスノーデン事件の例をあげて、「やっぱり国家は情報を収集しているじゃないか」と考えるのです。でも、ボクから言わせれば、それは、「そのことすらみんなに明らかになっているのはどういうことなんだ」ということなのです。

 もっと卑近な例でも良いでしょう。たとえばtwitter。バカッターと言われるように、投稿者がアホな投稿をして、それで「炎上」して人生ムチャクチャになるってことが良くあります。アホ連中は自分のしたことが社会にとって何を意味するのか分かっちゃいない。だから、ああいう投稿をするわけですが、それが「一般」の目に触れると大問題になってしまうのです。

 ここで大事なのは、炎上させているのは、別に国家や機関や大企業というわけではないということです。たとえば2chとかで自然に火が付いてしまう。そしてその火は一気に広がる。ここには、一種のモラリティ (道徳性)が機能していることに留意すべきでしょう。「自然状態」を越えた「一般意志」のようなものがそこには芽生えつつあるわけです(これは東の「一般意志2.0」の議論と結びつくものですが)。というより、ネットは社会とつながっているわけだから、それは当然なんです。実際のところ、そこは無法地帯じゃなくて、社会的なルールが(目に見えない形にせよ)存在している。

 そして、例の2chの流出事件を思い起こして見てください。匿名掲示板だった筈の2chなのに、誰が何を言っていたか、みんな分かってしまった。監視することすら監視される。これがいま、現出しつつある社会の姿だとボクは考えています。たしかに、2chの流出は一部(クレジットカードで払っていた連中)でしたから、「いやまだそんな状態にはなってないじゃないか」という反論もあり得るでしょう。でも、いやだからこそボクは、むしろもっとずっと推し進めるべきだと考えているわけです。

 すべてが筒抜けになってしまった時、そこに現れる新たな地平があるでしょうとボクは思うのです。たとえば、出所した性犯罪者に「タグ付け」することに反対する人はそんなに多くはないでしょう。でも、個人情報保護派はそれすらも否定するかも知れない。「人権はどうなるんだ」と、たとえば彼(ないし彼女)に子供が居たとして、「学校でいじめられたらどうするんだ」と。だけど、そのことすら筒抜けになってしまう。いじめすらもさらされてしまう。その状態こそをボクは望んでいるのです。

 教室でのいじめ、収賄/汚職、家庭内暴力…etc.大多数の倫理的問題は、密室状態においてこそ生じます。この地平のありとあらゆる隅に一般意志のモラリティを浸透させること、世界中のありとあらゆる片隅をモラリティの光で充たすこと、それこそが、情報革命という名の下に、彼らがやろうとしていることですし、ボクが夢見ているものです。

 「何でもかんでも筒抜けになってしまったら居心地が悪い」と思うかも知れません。でも、犯罪なんてしたことはなくとも、誰しも脛にひとつやふたつのキズはあるものです。すべてが明らかになってしまったら、そんなことは気にならなくなる。その時、もう少し心の通った社会が出来上がるんじゃないか。いまの社会は「綺麗すぎる」…というより「潔癖症」すぎる。ボクはそう思うのです。

 むしろ、そこで問題になるのは、(個人情報の保護の問題ではなく)「過剰な一般意志は時に不幸を呼ぶ」ということでしょう。それは、県議が自殺した例の事件を思い起こせば十分です。

 「天の声にも変な声がたまにはある」と言ったのは福田赳夫ですが、国家も時に道を誤るように、一般意志も時には道を誤ります。太平洋戦争なんてまさにその典型例でしょう。もっと言えば、(良く言われるように)ナチスだってドイツ国民が選んだ政権だったのです。

 だけど、ボクはそれすら乗り越えられる地平があるんじゃないかと思うのです。あの当時だって、もちろん全世界がナチスに賛同していたわけじゃない。ドイツ国民だってアウシュビッツで何が行われているか知っていたらならば、考えを変えていたかも知れない。情報化社会の現代だったらどうだったろう。(まあ、連合国首脳部は知っていたという話もありますが)ナチスはあんなに秘密を隠し通せずに、世界中にその「悪行」が知れ渡って、もっと簡単に政権が倒れていたかも知れない。

 情報化社会では独裁者なるものは存在しえない。Googleのエリック・シュミットが北朝鮮に行ったってのは、まさにその文脈から考えることが出来るわけです。「アラブの春」だって、情報化社会がもたらしたものでした。もちろん、あれが良かったかどうかは別なんですが。情報化は民主化をもたらすんだから、待っていれば放っておいても果実は落ちてきたんですよ。無理に木に登ろうとするから血を流すことになる…

 まあ、それはともかく。ボクの考え方は理想論かも知れません。「その(最終段階に行く)前にもっと現実的な段階がいくつかあるでしょう」と言われたら、それはおそらくその通りなのです。だからこそ、ボクは自分をラディカルだと言う訳ですが、でも世界はおそらくその方向に進むだろうな、というのが、いまボクの目に見えているものです。



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