<アイドルと民主化>
1.アイドルであるということ
アイドルであるということは、それなりに覚悟を求められることです。たとえば、恋愛禁止に体重管理etc...それがイヤならば辞めればいい。それがボクの基本的な立場です。
しかし、時には、あまりにも理不尽かつ不必要な犠牲を払わざるを得ないこともあります。その結果として辞めてしまうとすれば、それは悲しむべきことですし、そういうのは出来うる限り回避したいのです。
なぜ、ボクがこんなことを書いているかと言えば、それは他ならぬ<かんちる>(篠原栞那)のことです。彼女の卒業の理由は、表向きには「モデルになる」という夢を追いかけるためです。ボクはそれを否定する積もりはありませんし、夢を追いかける彼女に頑張って欲しいと思います。
でも、普段「ハイテンショ~ン!」な彼女が、卒業を発表した時に述べた言葉、心の奥底から搾り出したような言葉からは、また別の理由も見えてきます。
この言葉を聞いて心が揺さぶられないアイドルファンはいないでしょう(それはすなわち、この言葉を聞いて心が揺さぶられない人間はアイドルファンの資格がないという意味です)。僕らは、こうした「直接攻撃」から彼女たちを守る術を持っていません。それが、口惜しくてたまりません。
だからと言うわけではないですが、今回次回と、ちょっとキツめのことを色々と書きます<(__)>
2.文化と文脈
AKB48もいつしか社会現象化しました。社会現象化するということは、人目を引くということと同時に、アイドルという文脈を踏まえていない人たちが、そこに絡んでくるということを意味します。
エンターテイメントにしろ芸術にしろ、ある文化があれば、そこに絡む観客にはある程度の素養が要求されるというのはレッキとした事実です。たとえば、かつて、絵を鑑賞するためには、そこに描かれている主題を理解する必要がありました。また、たとえば、歌舞伎を鑑賞するということは、そこにある約束事を踏まえて初めて真に可能になることです。そして、基本的に歌舞伎はそれを理解できる人たちによって支えられています。
ある芸術が、それを理解できる人(その世界の言語が通じる人)のみによって消費される場合、それは、ある種の特権的/排他的な芸術だと言えるでしょう。その芸術を消費するためには、その芸術の言語(その芸術を理解するための教養)を学ぶ必要があります。
その一方で、「ビザンチン美術は平面的だから大したことない」という人がいたとすれば、その人は美術史の文脈の外から話しているということになりますし、あるいは、「歌舞伎の演技は自然じゃないからくだらない」とか、「歌舞伎には女性が出ていないから良くない」という人がいたとすれば、その人は、歌舞伎の文脈の外から話しているわけです。
何らかの文化が社会現象化してしまうということは、こうした文脈外からの声が(圧倒的に)大きくなってくるということを意味しています。それは、ボクが「芸術の民主化」と呼ぶものと類比的です。何らかのものが民主化されるということは、それを受容する人が保持していた特権が認められなくなるということと同義です。そしてその何らかのものは、誰もが分かる言葉で語られるようになるでしょう。
これはあらゆる分野で同じことが言えます。たとえば、普段サッカーを見ない人が、W杯やオリンピックなどを見た時に何かを語る場合、ほぼ例外なく精神論になるのはその典型です。それがサッカーにおいて彼らが理解できる唯一の言語だからです。しかし、こうした人たちの声に耳を貸すことは、常に大きなリスクを伴います。
これを痛感したのが、まさしくJリーグの誕生当時でした。社会現象化したJリーグは、本来、サッカーとは無関係のフェイス・ペインティングやらチアホーンやらのイメージが先行した挙句、当時、ブームに乗って大騒ぎしていた連中は、数年後には「サッカーってダサい」とか言い出したのです。サッカーの本質は、なに一つ変わっていなかったにも関わらずです(あの時から、流行やら大衆やらに対する根強い不信感がボクの中に芽生えた気がします)。
3.観客のマナー
そして、それはまた、観客のマナーというものとも密接に結びついています。たとえば歌舞伎の観客の掛け声や、アイドルファンによるミックス(歌の間に「よっしゃいくぞー」とか叫ぶアレ)などは、かなり明確に(どこで叫んでいいかという)マナーが存在しています。それを理解するということが、その文化を理解することに繋がっているのです。観客には、一面、その文化に対する教養が求められます。
一方、日本にはまだサッカー文化が本格的に根付いていないとボクは思っています。なぜならば「ピッチがこういう状況ならばこう」という決まりごとが、サポーターの間で今ひとつ明確になっていないからです。たとえばイギリスのサポーターならば、味方ボールホルダーの後ろから相手選手が近づいてきた場合、ほぼ例外なく「Man on!」と叫ぶでしょう。
また、日本においては、好きな選手を応援するあまり、その選手が出ていない試合では「チーム負けろ」と言ったりする人がいるかも知れません。それは、サッカー文化が根付いていないひとつの証左なのです。サッカー文化が根付いている場合、その人は子どものころからそのチームのサポーターですから、「選手>チーム」という優先順位になることはまずあり得ません(もちろん、欧州でもそういう人がゼロだとも思いませんが)。
一方、たとえば、スペインではチームの成績(&内容)が悪い場合、試合中にサポーターが白いハンカチを振る(=サヨナラ、監督)という習慣があります。では、今回、<かんちる>の身に起こったことは、チームを愛するあまり選手を批判するサポーターと同様のものと見なせるのでしょうか?ボクはそうは思いません。
かつて中村俊輔が感嘆したように、イギリスでは、良いプレーには拍手が、悪いプレーにはブーイングが与えられます。それはとてもシンプルなのですが、とても大事なことです。サポーターは厳しさと暖かさを兼ね備えた存在です。チームを愛し、努力を惜しまない選手に対して、「お前がチームにいない方がいい」などとは決して言わないでしょう。とりわけ、生え抜きの選手に対してはそうです。
サッカー文化が定着しているイギリスでは、(多くの場合)町ぐるみでチームを支えています。そのチームの選手を侮辱することは、そのチーム、引いては町自体を侮辱することに他なりません。そんなことをする奴は真のサポーターではありませんし、チームバスを取り囲んだりするような連中と同じ穴のムジナでしょう。端的に言って、それはマナー違反ですし、その人にはサポーターの資格がありません。
もちろん、イギリスにもフーリガンがいます。しかし、それはまさに「サポーターの資格がない」連中であるということを意味するのです。すなわち、「彼らは暴徒であってサポーターではない」(日本大百科全書より)
4.民主化の時代
しかし、何かが民主化されるということは、そういう「資格がない」連中にも参加の道が開かれてしまうということと平行しています。とりわけ、現代はネットの時代です。そして、まさにネットとは民主化への道を開くものに他なりません。
もちろん、ネットにも良い側面はあります。現代では、誰でも、ネットで調べるだけで、その芸術や芸能、競技(あるいは文化)のルールやマナーを調べることができます。そして何より民主化は、あの傲慢な「運営」という概念に対抗する武器となり得るものです。それ自体を否定する積もりはボクはありません。
かつて、アイドルは一部の限られた特権的な「パトロン」(あえてこういう言い方をします)の意向によって左右されるものでした。ファンの前に露出する機会があるかどうかも、そこで頑張れるかどうかも、アイドル個人ではどうしようもない部分があったのです。
しかし、現代では、ネットで個人が自分をアピールすることが出来ます。たとえば、<かおたん>(松村香織)のように、運営に推されなくても(…って、すでにそういうキャラになってますけど)、ぐぐたすなどでファンの人気を集め、総選挙で上位に食い込んで、そして(研究生ながら)選抜に入ったりすることが出来るのです(もちろん、それで全てが動いたわけではないのですが)。
AKB48グループは、まさに民主化という時代の流れにのって登場してきたものです。どんな好みを持った人でも、その人にピッタリのアイドル(推しメン)が見つかるように、個性的なメンバーを数多く揃えている。「多い」ということ、つまり選択肢があるということが、まさにAKBのひとつの特徴なのです。そして、総選挙や定期公演、握手会などによって、ファンからの声を直接に反映させる構造を作った。それこそがAKBが成功した要因でした。
しかし、先述したように、「民主化」によって敷居が下がるということは、また同時に、誰もがそこに踏み込んでいくことが出来るということを意味しています。ましてや、世の中には「クズ」みたいな人間が山ほどいます。それは、フランス革命の折に、どれだけ下らない血が流れたかを思い起こせば充分でしょう。とりわけ、民主主義が成熟していない段階では、そういう傾向が強く現れます。
5.かつて…
AKB48のシングル売り上げを振り返ってみると、2006年のメジャーデビューシングルが5万枚を売り上げたのち、ずっと2万枚前後を低迷しています。そして、2008年10月の『大声ダイヤモンド』でいきなり10万枚弱を売り上げ、その後も加速度的に売り上げを伸ばしていき、2010年10月の『Beginner』で遂にミリオンに到達しています。これは、まさにAKBがファンだけのものから社会全体のものへと変貌を遂げて行った民主化の軌跡だと見ることもできます。
しかし、(数字だけ見ると)低迷していた2007~2008年の時期というのは、すでに「AKB48+10!」(2007年10月)や「AKB1じ59ふん!」(2008年1月)が始まっていた時期です。今、その頃を思い返してみると、ささやかだけれど暖かな時代だったという気がします。
その頃は、好きな人たちの目だけに触れるアイドルグループでした。アイドルファンという、マナーをわきまえた人々(ある意味での特権階級)のうちだけで消費されるグループだったのです(今みたいに、AKB関連の記事に◯◯どもが狂ったコメをつけるようなこともなかった…)。
ネットの民主制はまだ未成熟ですし、それは現在のAKBを取り巻く状況についても同じことが言えるでしょう。それが成熟すれば状況は改善されていくのかも知れませんが、まだ大して民主化していなかったあの頃が懐かしいって気持ちも、また少しありますかね。