乃木坂46『君の名は希望』(PVについて) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)





short ver↓

追記
 ちょっと驚いたこと。「曲は良いけど、このPV(short verも)は分からん。不満。」って意見が結構あったこと。本気か?ホントに「これ」が分からんのか?

 意味がどうこうってよりも、ここには圧倒的に「強さ/パワー」があるでしょ?ひとつの作品として…(もはや才能が涸れてしまった大林さんとは違うんだってこと…って、ボクが「アンチAKB」だから、こういうことを言うわけではない、ってことは、このブログを見ていれば分かると思うけれど)。 

 もうちょっと詳しく書くと、これ(このPV)は虚構と現実の境を限りなく曖昧にして、途中から、観客を舞台上に引きずり込む(と言うか何というか、舞台上の感情の渦に巻き込まれてしまう)。否応なしにね。

 それには、もちろん音楽も貢献しているし、重層化された演出(一種のメタフィクション)や不安定なカメラワークも寄与している。その点では、「short ver」の方が凝縮されているし秀逸だと思うけれど、「full ver」も基本的には同様の構造になっている。ここでの「物語」は、単に、見るもの演じるもの全てを感情の渦に巻き込むための仕掛けとして要請されているに過ぎない。

 これは、明らかに舞台/映像/音楽というもの(の差異と繋がり)を良く理解している人が作っているものだし、もう少し言うと、(ニーチェが言うところの)ディオニュソス的な力を持っている映像で、そもそも、アポロ的な(単線的な個々の物語を持った)映像ではないんだ。

 …って、こういうこと書くと、なんか(芸術を学んでいるものとしての)権威付けみたいでヤダな…芸術なんて言葉、ボク自身は信じちゃいないし、今はポップ=人気が全ての時代だって思ってるのにね(;一_一)

 「でも、良いものは良いんだから仕方ないよな~」って気持ちも、やっぱり何処かにある…それがホントにジレンマなんだ…つまり、自分が、(芸術を)「分かってしまう人間」(=選ばれた人間)である筈だという自負と、「もはやそういう時代じゃない(今はポップの時代)」っていう理解との間のね。