--詩は見て心地よい身体を持っています。語られる事柄がそれ自体で好ましく思われるならば、その意味的表現は減少し、音声的表現が増大しているのです。純粋詩とは、言語において、このように感覚に訴える要素が、一切の関心を引くような言説を形成することにあるのでしょう。しかし、実際には、それ自体として価値を持つような語を集めることを目標としながらも、詩は、感覚的宝石に結びづいた知的宝石によって構成されているのです。今日われわれの眼には大詩人とは映りませんが、ヴォルテールの語った「詩は美しい細部のみからできている」とは、完全に正確な言葉です。というのも、それは以下のようなことを意味しているからです。すなわち、詩は、絶えず破壊される通常言語の本性を、各瞬間に免れる実質によって作られている。詩とは、各瞬間においである領域のうちに保持される実質であって、そうした領域は詩を実用性から免れさせ、詩的エネルギーで詩を満たすものである、ということです。
われわれが画家や音楽家を色彩や音の総体、宇宙に向かい合わせたように、詩人を語の総体に向かい合わせることができるでしょうか?微妙な問題です。たしかに詩の生産者は、語を使用するにあたって、一般の人々に与えられている信用を超越するために、《語の重さ》等々、言語に関し特殊な感覚を持たねばなりません。かくして彼は、必然的に詩であるところの、言語の濫用に到達するでしょう。われわれは語の価値を増大させ、意味において語を冒演しようと試みます。こうした濫用によって、詩人のうちに潜在している、ひとつの言語宇宙を構成することができるのです。詩人の偉大な特質とは、現れてくる語が、内面において時宜を得ているということです。
ポール・ヴァレリー
「詩学講義第十講」
『ヴァレリー集成Ⅲ』
p.70