ポストモダンと草食系 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 単一文化主義の近代社会は、少数民族にしても精神障害者にしても性的倒錯者にしても、とにかくノーマライズして「国民」に包摂するという話になっていた。多文化主義のポストモダン社会は、そういう「ノーマライズ」こそが人権の侵害だと考えるから、いろいろな人に勝手に生きてください、ということになっている。
東浩紀『リアルのゆくえ』p.111



「ポストモダンと草食系」

 ポストモダンの社会では、型にはめるということそれ自体が最大の罪でありえる。「世界でひとつだけの花」の価値観だとボクは言っているんだけど、そこでは、その個人が個人であることが何にも代えがたい価値だ。

 ここで恋愛の話を考えてみよう。型にはめるということが罪であるならば、それは当然、恋愛にも反映する。外部に価値観を求める手法(たとえば家と家)は、とうの昔に有効性を失っている。自由恋愛が称揚され、個人の好みで自由に相手を選択することが最大の価値を持つことになった。

(ボクは、こうした現代的価値観そのままで戦国時代を描いた映画を見たりすると、ホント、バカじゃないかと思うけど。それはともかく)

 それはまた一方で、男にとっては、もうひとつの契機を呼び込んでいった。男性社会の終焉である。「個人の自由」がそれぞれ尊重されるべきならば、当然、そこには男女の別はあってはならないということだ。

 ここにおいて、これまで有効だった格言が、その機能を喪失していく。たとえば、典型的には「嫌よ嫌よも好きのうち」というのがそれだ。かつて、男にとって、恋愛というのは、ある程度の強引さは許容されるものだった(あくまで、ある程度だけど)。

 あるいは、「3つの袋」とかいうのも、それに近いところがある。つまり、かつての恋愛というのは、粘土でやるパズルみたいなものであった。そこにおいて、「個人の自由」はある程度において「弾力性」があるものであり、そのピースが「結果的に」パズルにハマッてしまえば、それでOKだった(そして、大抵の場合、弾力性=忍耐を求められるのは女性の方だった)。

 (まあ、この辺の議論は、それ自体がやや強引だけど/笑)

 でも、ポストモダンの社会においてはそうではない。「個人の自由」を粘土のように変形させてしまうのは、ポストモダンの社会では、それ自体が最大の罪である。「個人の自由」は、それこそ、クリスタルのように扱われなければならない。ここでは、「個人の自由」を尊重しない行為、たとえば、ストーカーなんかが、典型的な罪だということになる。実際、それはポストモダンの時代になって登場した犯罪の概念だ。

 ピースを強引にはめるということに対する敬遠。あるいは、その不可能性。それこそが直接に草食系の登場を導く。それは、「男が自分に自信をなくしたから」とか、「男が弱くなったから」とかいう俗説とは全く無関係なのだ。それは、彼ら/ぼくらの持っている価値観、つまり、「個人の自由」の尊重というものに直接に関わっている。

 彼ら/ぼくらは、そのピースが少しでもズレていれば、パズルにハメるのを諦めてしまう。かくして、彼ら/ぼくらにとって、パズルの完成は、「ピース探し」と完全に等しくなる。彼ら/ぼくらは、自分のパズルにぴったり当てはまるピースを、(時には永遠に)探し続ける。それは、まさに『青い花』そのものの世界観と言ってもいい。

 それの求めるものが、やがて現実の性とは関係なくなっていく、というのは、以前に書いた。これは、彼ら/ぼくらの求めるものが、現実の身体性を失っていくということと比例している。すなわち、恋愛を禁止されたアイドル(=偶像)から2次元まで。その理由は簡単で、身体性がなければ、容易にパズルにハマる(ことを想像できる)。

 「オレの嫁」という言葉は、まさにその側面から考えることができる。それは、つまり性(身体)を持たないことによってのみ、「嫁」になりうるという事態なのだ。少し言い方を変えると、アイドル(=偶像)は、自らが理想そのもの(身体性のないもの)であることによって、あらゆるものの理想になることが出来る。

 しかし、ここで別の側面が登場する。それはテクノロジーの進歩によるSNSの登場である。もちろん、SNSで出会いがどうのとか、そういう俗物的な話をする積もりはなくて。SNSの登場が導いたもの、それは、twitterとかFacebookに典型なんだけど、感情の瞬間的な「共有」という事態だ。こうして、「大きな物語」が蘇る。

 ボクは、この新たなテクノロジーによる感情の瞬間的な「共有」こそが、アラブにおける一連の「革命」を導いたと思っている。「独裁」に対する「民主制」というのは、まさに「大きな物語」の再現である。東アジアにおいても、この事態は変わらない。すなわち、勃興するナショナリズムがそれだ。反日、反韓、反中という感情が「共有」されない日はないだろう。(アンチAKBもね←そこ言いたい/笑)

 何度も書いているように、ボクは、国際政治力学的に日韓は戦争しないと思っているけれど、日中は開戦してもおかしくないと思っている。もはや、「大きな物語が終わった時代」は終わった。いまや、世界は再び、「大きな物語」の時代に入った。そして、戦争というのは、もっとも典型的な「大きな物語」なんだ。(どうか、世界を止めて)

 …あれ?最終的に草食系とか関係なくなってる(^_^;)>

 でもね。「大きな物語」の信奉者たちはきっと、「草食系」ではいられなくなる筈だよ。だって、「大きな物語」の語りというのは、それ自体、「自分たちの物語に与せよ」という共有化の圧力を持っているものだから。


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