ロスコ壱 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 それはさておき、視点を他処に向けてみれば、人間の営みの中には芸術家の活動に類するものがあり、芸術について多くを教えてくれることがわかる。それは詩人と哲学者の仕事である。彼らが目指しているものは、芸術家の目指すものと共通している。その主要な関心は、芸術家同様、自身にとってのリアリティを具体的な形で表現することである。芸術家と同じく彼らは時間と空間の、あるいは生と死の真実を論じ、高揚の高みと絶望の深みに向き合おうとする。こういった恒久的な問題に専心しているということが、とられる手段の違いを超えた共通の基盤を創り出しているのである。そして、芸術の持つ意味を何らかの言葉によって示そうとするのであれば、私たちは哲学者や詩人の言語、つまり、目的を同じくしている他の分野の言語によって語らなければならないのである。

 ある分野の言語が他の分野の言語と交換可能である、例えば、ある絵画が持つ意味を言葉や音が持つ意味に写し取ることができる、あるいは、一言葉が伝える真実を絵画での描写に翻訳することができる、と考えるのは当面控えておこう。ピンダロスの頒歌がいかに練り上げられ、潤色されていようが、そのすべてをもってしてもアペレスの筆になる≪パラエストラの英雄≫の描写を写し取ることはできなかった。ミルトンの伏魔殿もダンテの地獄篇も、ミケランジェロやシニョレッリによる最後の審判のヴィジョンに取って代わることは決してできない。同じように、ベートーヴェンの田園交響曲は、どれだけの田園詩を読み、森や畑、どしゃ降りや小川についての記述を読み、また、鳥類の鳴き声や和声の法則について学んでみたところで理解できるものではない。法学の書物や、服飾見本図版によってラフアエロの≪アテネの学堂≫を再構成することはできないだろう。また、ある書物や絵画について、その批評を通してしか知らない人は、どんな経験をしていたとしても、その芸術に固有の経験をしたとは言えない。それぞれの芸術の真実、リアリティは、その分野の内側にとどまっているから、各々の分野に固有の方法によって感じ取られなければならないのだ。

 こうして芸術について語っていることにしても、絵画の経験を追創造しようと考えているからではない。芸術を詩や哲学といった他の分野と比較するのは、それぞれの分野の状況を比べてみようとするためではなく、芸術が持つ動機付けや属性が、言葉による思考の世界でも扱われていることを見るためである。そして、以下こういった類推をすすめていくにあたって、私たちが哲学に肩入れして、それ以外の分野は、芸術と閉じ目的を共有しているにもかかわらず、あまり省みなかったとしても、それは、最も強く芸術家の仕事に共感しているのが哲学者だと考えるからではなく、哲学が芸術と諸観念を共有しており、それらを論理的手段によって追求しているからなのである。

マーク・ロスコ『芸術家のリアリティ』中村和雄訳、みすず書房、2009年、pp.33-34