支配者なき世界へのオマージュ 3 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


(もちろん、ピンキリはあるのですが)

元来、職業作家というのは、非常に物知りな人種です。


(フィクション/ノンフィクション関わらず)

優れた作品は綿密な調査に基づいて書かれるものです。


かたや自分の専門を続けながら、

(限られた時間の中で)優れた作品を書くというのは、

そもそも、誰にとっても難しいことだと言えるでしょう。


しかしながら、たとえ職業作家だからと言って、

その描く社会像や思想に常に納得がいくかと言えば、

もちろん、そんなことはありえません。


たとえば、伊坂幸太郎さんや雫井脩介さんなどの原作による

映画の社会像もまたボクにはまったく納得できないものでした。

(映画を観ただけなので原作自体がどうという評価はしませんが)


原作そのものに焦点を当てて考えて見た場合、

たとえば、田中芳樹さんにおける『銀河英雄伝説』のように、

エッセンスを抽出して作品として昇華できる場合はまだマシですが、

舞台を現代の日本に設定し、その中で現実の社会に言及すると、

(『創竜伝』のように)途端に綻びを見せることがあります。


ぼくは、彼らの作家としての能力云々を問題にしているのではありません。

たとえば、現代の日本を代表する作家である

大江健三郎さんや村上春樹さん、あるいは池澤夏樹さんなどが

提示する社会像、特に3.11以降に提示している社会像は、

(正しい、正しくない以前に)全くピントがずれているように思えました。

「こういう時は文学者は何の役にも立たないな」と思ったくらいです。


もちろん、これは単に

「ボクと彼らの思想が一致しないからである」

ということも考えられます。


しかし、実際には、その問題についての是非ではなく、

問題設定そのものがずれているように感じたのでした。


これは、単に世代間のギャップを示すものではなく、

また、単に思想の違いに基づくものではありません。


これは、ある問題についての立ち位置以前の話であり、

それよりは、もう少し重要な問題を孕んでいるように思えるのです。


そこで、東浩紀さんにご登場いただくとしましょう。

彼は現代哲学の旗手(のひとり)であり、

その語っていることも、ぼくは納得がいくことが多い人です。


ところが、彼を原作に抱いたアニメ『フラクタル』の描く思想、

あるいは、その提示する社会像は、正直、かなり微妙なものでした。


もちろん、これは現代日本を舞台にした作品ではないので、

ここで登場する例としては相応しくないかも知れません。

しかし、ここにはひとつの典型例があるように思います。


それは、社会像という大きなフレームワークを提示することの不可能性です。


ポスト・モダンの時代に脱構築を図り、

既存の社会像を壊したまでは良いけれど、

それに代わるべき社会像を提示できない。


社会に対して優れた考察を見せる哲学者ですらも、

いざ、それに代わる社会像を提示しようとすると無力になってしまう。


いまや、統一した社会像を提示することは誰にもできず、

そこを占めるべきものとして、個人個人の自我が埋めていく。


そうして肥大化した自我は、ついには世界を覆うまでになる。

かくして、個人と世界が直に結び付けられるセカイ系が登場する。


しかし、その実態は(普遍ではなく)個人の自我に過ぎんから、

(つまり、それは論じられるような類のものじゃないから)

受け入れることができる人には受け入れられるけど、

そうでない人には不快感しかもたらさない。


おそらく、これが、ぼくが感じているものの正体。


注:ここで、ぼくは「セカイ系」を否定したいわけじゃありません。

(「セカイ系」のそもそものルーツになったエヴァも大好きですし。)

もはや、あらゆる人の提示する社会像がセカイ系になってしまったということ、

そして結局、それは「合う/合わない」の次元の話になっているということです。


現代では何らかの思想を人々に押しつけるということが不可能になっている。

そのことに意識的にならないと、

結局はコンテンツの質を損なうだけなのかも知れない。


『支配者なき世界へのオマージュ3』