栗林みえ Say Hello!(関係性の美学) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)



『関係性の美学』


栗林みえ。

90年代末から00年代初頭にかけて、「そこそこ」活躍したアイドル。

ぼくは彼女を観たくて(=彼女に会いたくて)、99年、

オリコンが渋谷109前で開催したイベントに行ったことがある


あれから十数年。

このアスペクト比が狂ったPVを見て、僕はいま、何を感じるだろう。


多くの人が感じるのは次のようなことだろうか。

「そこそこ可愛くて、ちと懐かしい感じの子が、下手な歌を歌ってる」


僕は、今でも、あの頃に感じたものを感じることができる。

より正確に言えば、それが含まれている複雑な感情、

懐かしさ、暖かさ。そんなものが入り混じった感情を。


ただ、その中でも、あの遥か遠くへと心を差し向けるような、

すべてを消し去り、ただただ彼方へと思いを馳せさせるような、

煌めきと、永遠と、切なさは、今でも感じ取ることが出来る。

それを、ぼくは「美」と呼ぶ。


特に「な~にも迷わ~ずに~♪」の部分でそれは顕著に起こる。

歌詞とか画面とか、どれがと言うのではなく、

それまでの曲やPVの流れを含めて、その瞬間。


それは、きっと、もっと上手く滑らかじゃダメで、

この硬質な声、この拙い歌い方でしか起こりえない。


もちろん、もっと上手ければそれはそれで良いのだろうけど、

少なくとも、この瞬間は、これでしかありえない。

それでなくては感じ取れないものがここにはある。


美はものに宿る性質だと言われるけど、

もしかしたら、ぼくが男の子じゃなかったら、

この感情は生まれてこないのかも知れない。

こうして感じ取れるのは、ぼくがぼくだからなのかも知れない。


もし、そうだとすると、(正統的な美学に基づいて考えてみれば)

ぼくが感じてるのは「美」ではなく、ただの「好き」なのだろう。


一方、リルケは少女は美について尋ねなくて良いのだと言った。

つまり、リルケにとって少女は美そのものだった。

それもまた、正しいのかも知れない。


ぼくは、主体と客体を切り離して考えるということに疑問を持っている。

この世界はすべて関係している。関係性を抜きにしては事物は語れない。

(その関係性とは人間同士の関係性でもあれば、

 時間と時間、空間と空間の関係性でもありえるだろう。)