ノヴァーリス参 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 自然は何よりも人間のような存在として理解されたいと望んでいるようなのだ。詩芸術が自然を真に愛好する者にとって最愛の道具になったのはそのためだろうし、自然の精神がもっともはっきりと姿を現わすのは詩のなかだったのだ。真の詩を読んだり聞いたりすると、自然の内なる知性が動くのが感じられ、まるで自然のこの世ならぬ身体をまとったように、自然のなかと、自然の上を同時に漂うような気がする。

 自然研究者と詩人はつねに同じ言葉を使う同じ民族のようにふるまってきた。自然研究者が遺漏なく蒐集し整然とした大集団となるよう配列したものに、詩人は手を加えて、人間の心のための日々の糧や必需品につくりかえた。つまり広大無辺の自然をこまかく分け、多様で小さくて心なごむ自然をつくりだしてきたのだ。

 詩人が流れ動き逃げゆくものを心を弾ませながら追いかけるとき、自然研究者は鋭いメスをふるって身体の内部構造や諸関連を解明しようと努めていた。自然研究者の手にかかって愛すべき自然はこときれ、せいぜいぴくぴく動くだけの遺骸しかあとに残さなかった。それにひきかえ自然は、詩人にもてなされると、強い葡萄酒を飲んだかのようにいっそう生気に満たされ、このうえなくすばらしい軽妙な思いつきを披露し、日常生活をぬけでて天まで昇り、踊りに興じ、予言し、どんな客をも歓迎し、上機嫌で手持ちの宝を惜しみなく分かち与えた。こうして自然は、詩人とともにこの世ならぬ時を楽しみ、病を得て慎重になったときにのみ自然研究者を招いた。そのときばかりは、自然研究者のどんな質問にも快く答え、このきまじめで謹厳な者にすすんで敬意を表した。

 だから、自然の心情を誤りなく知りたい者は、自然を詩人たちの集いのなかに探し求めなければならない。そこでは自然もうちとけて、謎めいた心のうちを吐露してくれる。けれども、自然を心の底から愛することがなく、自然のあれこれのみを讃嘆し、経験しようと努める者は、自然の病室、自然の納骨堂に足しげく通わねばならない。

『ザイスの弟子たち』ノヴァーリス研究会訳