詩的写真(詩について2) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」
L・ウィトゲンシュタイン


詩的写真のシリーズ記事を書いていて、ふと思ったのは、

まず、「詩」という概念を明らかにしなければならないってことです。


このシリーズは、基本的にボク独自の「詩」の理解に基づいています。


その大枠は↑のリンク先に書いてあるのですが、

ここで、もう一度、簡単に整理して置きましょう。


言語を日常言語と詩的言語の2つに分けるとするならば、

話者同士の共通ルールの枠組みに従って話されるのが日常言語です。

一方、その枠組みを飛び出し、枠組みを拡張するのが詩的言語です。

(世界は常に更新されるので、言語もまた更新されなければなりません)


平たく言えば、「詩とは、言語世界に新たな地平を切り拓くもの」です。

つまるところ、ルールの中で硬直化した言語を、

一旦、対象から回収し、詩人の感性に従いながら、

常に更新されていく「私の世界」にあわせて、

再編=更新していく作業が詩作なのです。

(「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」のですから、

 これは、世界を創造していく作業に等しいことになります。)


この時に必要とされるのが、たとえば隠喩やリズム、韻といったものです。

これらは、対象に固着した言語を浮遊させるための有効な手段です。

(浮遊させることによって、言語世界の再編=更新が可能になるのです。)


また、対象から言語を浮遊させるということは、

「言語そのもの」が重要性を持つということを意味します。


したがって、表現の替えが利かないことが詩の特徴になります。

たとえば、日常言語表現ならば、それが10-5でも1+4でも

結果として5という数字(対象)が相手に伝われば良いのですが、

詩的言語の場合は、たとえば、それは1+2+3-1*1でしかありえない。

そういったようなものです。それ自体に意味があるのです。


つまり、詩的写真とは、「何を写すか」の問題ではなく

「どのように写すか」の問題だと言えるでしょう。

したがって、どのような写真も多かれ少なかれ詩的でありえるのです。