詩的写真9 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


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Andre Kertesz
≪Fork≫


ここらで、一旦、箸休め・・・ならぬフォーク休め(* ̄艸 ̄)

この写真は、ケルテスの代表作のひとつで、

何を隠そう、ぼくが合同演習のスライドの表紙に使ったものです(*^_^)b


今回は、<普遍>という切り口から考えて見ることにしましょう。

アリストテレスの『詩学』以降、

「<歴史>は個別の事実を記述し、<詩>は普遍を描く」

という、詩を定義する上で重要な考え方があります。


たとえば、「1132年、平忠盛は殿上人となった。

 1185年、壇ノ浦において平家は滅亡した。」

というのが歴史的記述であるとするならば、

詩的な見方とは、歴史は繰り返すものであり、

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」

というのが、その表現になります。

栄枯盛衰という普遍的なものを表現しているわけです。


さて、ここで考えなければならないことは、

バークが「詩人は対象について感じたこと」を描くと述べていることです。

もちろん、ここで言われているのは叙情詩のことですが、

「感じたこと」と「普遍」というのは、直接には結び付きません。

かたや主観的なものであり、かたや客観的なものであるからです。


したがって、ここでひとつの手続きを経なければなりません。

哲学者ショーペンハウエルは次のようなことを述べています。

「天才はイデアを直接に認識し、それを自らの作品の中に表現する。

 したがって、その作品は、言わばイデアへの窓として機能する。」

これは、まさに主観的な認識から普遍へと至る道を示しているでしょう。


このようなことは、主観的な詩(=叙情詩)においても起こるのです。

隠喩(メタファー)はとどのつまり、前の記事でも述べたように、

対象から記号を浮遊させ、認識をメタ・レベルへと押し上げるのです。

これは、詩人がメタ・レベルを認識していたということを意味します。


たしかに、それが劇詩であれ、叙事詩であれ、叙情詩であれ、

あらゆる詩は、普遍性への指向を持っているように思えます。


さて・・・そこで、このフォーク・・・

まさに、これぞ「フォーク」だなと(* ̄艸 ̄)