(第五章)1609年、エルスハイマーの望遠鏡 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
5.人間界の報告
 
さて、我々は、この望遠鏡をエルスハイマーに繋がなければなりません。少なくとも、1609年に望遠鏡の存在をエルスハイマーが知り得る可能性はどれくらいあったのでしょうか。ここからは人物の繋がりを見ていきましょう。最も注目したいのは望遠鏡が置かれたローマ学院のクラヴィウスです。ローマ学院の指導的立場にあったクラヴィウスは、ローマ学院に置かれた望遠鏡を使って天体観測を行った4人の内のひとりであったことが分かっています。*1 1555年にローマへとやってきたクラヴィウスは、現在のドイツ、バンベルクの出身でした。*2 エルスハイマーの友人ファーバーもまた、このバンベルクの出身なのです。*3 ファーバーの邸宅は、エルスハイマーやルーベンスなど、北方出身の画家たちが集まる一種のサロンのような様相を呈していました。*4*5 マイクロスコープ(顕微鏡)の名付け親でもあるファーバーは、教皇の植物園の管理者であり、教皇直属の植物学者でもありました。*6 クラヴィウスとファーバー、同時期に教皇の元で働いた同郷出身のこの2人の学者の間に何らかの繋がりがあったことは、おそらく間違いないでしょう。また、ローマ学院に望遠鏡が置かれたのが16095月の初頭だったということは、エルスハイマーが≪エジプトへの逃避行≫の構図を決めたのが16096月中旬だったと我々が推定したことを考え合わせると、なかなか興味深いものがあります。
 
さて、望遠鏡とエルスハイマーを繋ぐ可能性があるもうひとりの人物はシピオーネ・ボルゲーゼです。ベンティヴォグリオが手紙を宛てたシピオーネ・ボルゲーゼは美術収集家としても有名でした。1610年、エルスハイマーの弟子ヘンドリック・ハウトはエルスハイマーの≪ケレスの嘲笑≫を基に版画を制作しましたが、そこにはシピオーネ・ボルゲーゼへの献辞が書かれています。したがって、エルスハイマーとシピオーネ・ボルゲーゼの間に何らかのコンタクトがあったと考えても、それほど不自然ではないでしょう。


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 アダム・エルスハイマー/ヘンドリック・ハウト≪ケレスの嘲笑≫1610
版画、31.5x23.5cm、エジンバラ、スコットランド・ナショナルギャラリー
 
 
続いて、アカデミア・デイ・リンチェイの創設者チェージが挙げられます。アカデミアとエルスハイマーの関係性は先ほど述べた通りですが、デッラ・ポルタがチェージに宛てた1609828付けの手紙には望遠鏡の作り方が書かれていたことが分かっています。*7 ただし、ここからエルスハイマーに伝わったと考えた場合、エルスハイマーが1609年の夏に近い時期に望遠鏡を使用したと考える本論第2章の説と整合性が取れなくなってしまう可能性があります。
 
最後に、もうひとりの人物の名を挙げたいと思います。それはエルスハイマーの友人ルーベンスです。ルーベンスは1608年の10月末にローマから故郷のアントウェルペンに向けて旅立っていますが、*8 1608年の末という時期は初期の望遠鏡という観点からすると非常に興味深いのです。ルーベンスは1609923日にスペイン領ネーデルランドのアルブレヒト-イザベラ夫妻の宮廷画家に任命されています。*9 この夫妻が非常に早い時期に望遠鏡を手に入れていたことは、先ほど述べた通りです。ちなみに、1617年の作品なので本論には直接的には関係しないのですが、ルーベンスがヤン・ブリューゲル(父)と共作した≪視覚の寓意≫には紛れもなく望遠鏡が描かれています。


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ヤン・ブリューゲル父/ピーテル・パウル・ルーベンス≪視覚の寓意≫1617
油彩/キャンバス、64.7x109.5、マドリード、プラド美術館
 

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ルーベンスはローマに滞在していた1605年には既に夫妻から依頼された仕事を請け負っていましたし、1607年の夏にはアルブレヒト大公が当時ルーベンスの仕えていたマントヴァ公に対してルーベンスをフランドルに帰してくれるように依頼しています。*10 ルーベンスが1608年の末に帰郷したのは母の危篤という情報を受け取ったからでしたが、1609410日付けでファーバーに宛てた手紙には、夫妻が彼に手紙を寄越して彼らの元に留まるように要請したことが書かれています。*11 これらのことから、宮廷画家に就任する16099月以前からルーベンスと宮廷との間に定期的にコンタクトがあったことが分かります。ルーベンスが生涯に書いた8,000通の手紙のうち、現存するのは約200通だと言われていますが、*12 現存するものの内、1609年から1611年までに書かれた手紙の中で望遠鏡について触れられたものはありません。*13 ここでは、ルーベンスが早い時期に望遠鏡の存在を知っていた可能性を指摘するだけに留めておきましょう。
 
こうして、エルスハイマーへと望遠鏡を繋ぐ幾つかの細い糸を見出すことが出来ます。しかし、それら全ては直接的な証拠というわけではありません。そこにはミッシング・リンクが存在しているのです。

 
*1. フレッド・ワトソン 前掲書、p.92
*2. ウィリアム・R・シーア/マリアーノ・アルティガス 前掲書、p.8
*3. David Freedberg 前掲書、p.74
*4. translated byKeith Andrews Lives of Adam Elsheimer Pallas Athene, 1996, p.53
*5. Ruth Saunders Magurn 前掲書、P.438
*6. David Freedberg 前掲書、p.74
*7. David Freedberg前掲書、p101
*8. Ruth Saunders Magurn 前掲書、pp.45-46
*9. Ruth Saunders Magurn 前掲書、p.49
*10. Ruth Saunders Magurn 前掲書、p.438
*11. Ruth Saunders Magurn 前掲書、p.52
*12.岩淵潤子著『ルーベンスが見たヨーロッパ』筑摩書房、1993,p111
*13. Ruth Saunders Magurn 前掲書、pp.52-55