4.1609年の望遠鏡
(特に断りがない限り、この章の事実関係はEngel Sluiter前掲書に従っています。)

それでは、エルスハイマーがガリレオを経由せずに望遠鏡を手に入れる可能性はどれくらいあるのでしょうか。ガリレオ以前の望遠鏡について調べた歴史学者Engel Sluiterの非常に優れた論文が手許にあります。これをもとに可能性を探ってみましょう。
前述のデッラ・ポルタの例からも分かるように、望遠鏡の基になる原理は以前から知られていました。実際のところ、望遠鏡は2つのレンズを組み合わせるだけの非常に単純な構造をしているので、レンズを凹凸状に研磨する技術の発達と共に自然に見出されるべき道具だったのです。*1 したがって、その発明に関しても詳らかなことは明らかになっていません。それは、風車のように発明者不明のまま歴史に現れるのです。17世紀初頭、オランダでのことでした。当時のオランダは1568年から始まったオランダ独立戦争のただなかにありましたが、1588年にアルマダ海戦で無敵艦隊が全滅した影響もあり、この頃までにはネーデルランド北部7州がスペインに対して実質的に独立を果たし、ネーデルランド連邦共和国(現在のオランダ)が成立していました。*2
実際に望遠鏡を制作したと確認できる最初の人物はオランダ、ミッテルブルグの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイ(Hans Lippershey)です。リッペルスハイは1608年9月25日に望遠鏡の特許を申請するためハーグにやってきます。その地では、時あたかもスペインとネーデルランド連邦共和国の間での休戦交渉が行われている最中であり、彼は望遠鏡をネーデルランド連邦共和国総督マウリッツ・ナッサウ(Maurits van Nassau)に進呈しました。ちなみに、リッペルスハイに望遠鏡の特許が与えられることはありませんでした。なぜならば、翌10月には自分も望遠鏡の作り方を知っているとする人物がハーグに現れたからです。
ハーグの議会では彼らの有力な同盟者であったフランスのアンリ四世(Henri IV)のために、さらに2つの望遠鏡を作ることをリッペルスハイに命じています。また、ハーグに来ていたフランス外交団のトップ、ピエール・ジャナン(Pierre Jeannin)は望遠鏡の作り方をとある兵士に学ばせました。やがて、2つの望遠鏡を携えた兵士はパリへと向かい、アンリ四世と彼の大臣に望遠鏡を献上しています。その後、1609年4月30日にはパリのとある眼鏡屋で望遠鏡が売られているのが日記作家によって報告されていますが、これは、先ほどの兵士が作り方を教えたものだと推定できます。望遠鏡は非常に単純な構造をしているので、作り方さえ知ってしまえば、優れた技術を持つ眼鏡職人にとっては、それを自力で制作するのはそんなに難しいことではなかったということがお分かり頂けると思います。問題はレンズを凹凸状に研磨する技術だけだったのです。*3

ディエゴ・ベラスケス≪ブレダの開城≫1634-1635
油彩/キャンバス、307x367cm、マドリード、プラド美術館
※画面中央右側の人物がアンブロジオ・スピノラです。
さて、時計の針を1608年9月、リッペルスハイが望遠鏡を携えハーグにやってきた時まで戻してみましょう。この時、休戦交渉のためにハーグに来ていたスペインの将軍アンブロジオ・スピノラ(Ambrosio Spinola)に、どういうわけか、この新しい道具の情報が伝わってしまいます。優秀な将軍であった彼はその道具の軍事的価値を即座に見抜き、どんな手段をもってしてか、その内のひとつを手に入れたようです。彼がハーグを出立する9月30日には、その手にはしっかりと望遠鏡が握られていました。向かった先はスペイン領ネーデルランド(現在のベルギー)の中心ブリュッセル。当時、そこは神聖ローマ帝国皇帝の息子アルブレヒト(Albrecht of Austria)とスペイン国王の娘イザベラ(IsabellaClara Eugenia of Spain)の夫妻によって共同統治されていました。スピノラは夫妻に望遠鏡の話をします。この時に進呈されたものなのかどうかは分かりませんが、夫妻もまた1609年の3月末までには望遠鏡を手に入れていました。夫妻の宮廷画家、ヤン・ブリューゲル(父)(Jan Brueghel the Elder)作の≪マリエモント城の眺望≫には夫のアルブレヒト大公が望遠鏡を持っている姿が描かれていますが、この望遠鏡が絵画に描かれた初めての望遠鏡だとされています。*4

ヤン・ブリューゲル父≪マリエモント城の眺望≫1608-1611
油彩/キャンバス、80x125cm、リッチモンド、バージニア美術館

このアルブレヒト-イザベラ夫妻の宮廷にはローマ教皇の大使グイド・ベンティヴォグリオ(Guido Bentivoglio)が駐在していました。夫妻から望遠鏡を披露された彼もまた何らかの方法で望遠鏡をひとつ手に入れ、教皇の国務長官シピオーネ・ボルゲーゼ(Scipione Borghese)宛ての1609年4月2日付けの手紙でそのことを報告しています。この手紙にはローマ教皇パウル五世に献上するために望遠鏡が同封されており、ローマに運ばれた望遠鏡はすぐにローマ学院に置かれることになります。おそらく1609年5月初頭のことだったでしょう。こうして、ローマに望遠鏡がやってきたのです。
*1. フレッド・ワトソン 前掲書、p.75
*2. 『ブリタニカ国際大百科事典』ブリタニカ・ジャパン、2007
*3. フレッド・ワトソン 前掲書、p.75
*4. P. Molaro and P. Selvelli "The mystery of the telescopes in Jan Brueghel the Elder’s paintings" Memorie della Societ? Astronomica Italiana Supplementi - Vol. 14, SAIt 2010