(第三章2)1609年、エルスハイマーの望遠鏡 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
 1610年の秋、ローマ学院のクリストフ・グリーンバーガー(ChristophGrienberger)は、彼らが確かなレンズを使ったにも関わらず、木星の衛星を発見できなかったということをガリレオに書き送っています。*11 このように、ガリレオが制作した望遠鏡の性能が図抜けて良かったために、同程度の性能の望遠鏡を持っていなかった同時代の学者たちはガリレオの発見が本当かどうかを確かめることが出来ず、『星界の報告』を一読しただけでその正しさを見抜いてしまったケプラーなど一部のわずかな人を除けば、ガリレオの発見を懐疑的に見ていた人が多かったのです。*12*13 

 ローマ学院が木星の衛星を視認することが出来たのは、おそらく161012月のことでした。ローマ学院の著名な数学者/天文学者クリストファー・クラヴィウス(ChristopherClavius)がガリレオに宛てた1217日付けの手紙がそれを報告しています。*14 ちなみに、現在、我々が使っている暦はグレゴリオ暦に基づいているのですが、このグレゴリオ暦を制作したのがクラヴィウスです。*15 ともあれ、ガリレオの発見に人々が追いついていくことでガリレオの正しさが証明され、その評価は高まっていきました。ガリレオは1611212日付けの友人に宛てた手紙で、
 
自分を批判する人たちに返信をするのに忙しい身の上だが、ヨーロッパのもっとも優れた数学者たちは、初め自分をあざ笑っていた人びとも含めて、いまや完全に味方についている
ウィリアム・R・シーア/マリアーノ・アルティガス著、浜林正夫/柴田知薫子訳『ローマのガリレオ』大月書店、2005(原書2003)、.39
 
と記しています。時期が熟したと判断したガリレオは満を持してローマに向かいました。彼は、
 
悪意に満ちた風評にきっぱりと終止符を打つため
ウィリアム・R・シーア/マリアーノ・アルティガス 前掲書、p.41
 
 だと友人に書き送っています。330日にローマに到着、当地で暖かい歓迎を受けました。414日にはアカデミアの創設者チェージがガリレオのために晩餐会を開き、同月25日、ガリレオはアカデミアに入会します。*16 デッラ・ポルタはガリレオを批判したことを後悔し、1612年には、アカデミアのメンバーになったばかりのファーバーに宛てた手紙の中で
 
私の望遠鏡が不完全だったことと、老齢による目の衰えに妨げられて木星の衛星を見ることができなかった
the imperfection of my instrument and the defects of old age prevented me from seeing the stars wanderinground Jupiter.
David Freedberg前掲書, p105
 
 と一種の言い訳のような文章を残しています。しかし、これはいささか遅きに失した感がありました。アカデミアにおけるデッラ・ポルタのポジションは完全にガリレオにとって代わられたのです。以後、チェージとアカデミアはガリレオの最も有力な庇護者になりました。余談ですが、侯爵家に生まれ、のちにはローマ教皇パウル5(Pope Paul V)からプリンスの称号を与えられたチェージはローマに強い影響力を持っており、彼が1630年に45歳の若さで死去していなければ、ガリレオが異端審問にかけられることも無かったのではないかと言われています。*17
 
こうして見ていくと、それまでガリレオに批判的だったアカデミアが態度を変えたのは、ローマ学院が木星の衛星を見つけたこと、そしてガリレオのローマ入りの影響が大きかったようです。したがって、エルスハイマーの生前、1610年以前の段階におけるアカデミアとガリレオとの関係は否定できるように思います。こうして、我々はガリレオとエルスハイマーの繋がりを喪失しました。
 
 
*11. Engel Sluiter 前掲書
*12. フレッド・ワトソン 前掲書、p.97
*13. ウィリアム・R・シーア/マリアーノ・アルティガス 前掲書、p.37
*14. Engel Sluiter 前掲書
*15. ウィリアム・R・シーア/マリアーノ・アルティガス 前掲書、pp.9-10
*16. ウィリアム・R・シーア/マリアーノ・アルティガス 前掲書、pp.43-55
*17. ウィリアム・R・シーア/マリアーノ・アルティガス 前掲書、p.55