4.詩の非模倣性(pp.123-126)

続いて、レッシングと同時代の思想家エドマンド・バークの考え方を著書『崇高と美の観念の起源についての哲学的考察』第五編を基に見ていきましょう。バークは、事物を正確に記述するという能力において、言語的記述は絵画に劣ると述べています。その一方で、言語には「表象」喚起機能の他に、「情念」喚起機能があるとも言っています。このうち、「表象」喚起機能とは、言葉が事物を代理するということを意味します。語り手が対象をあるがままに記述しようと集中するならば、その表現は明晰なものになっていきます。もう一方の「情念」喚起機能とは言葉によって感情を表すということを意味します。語り手が対象について感じたことを記述しようと集中するならば、その表現は力強いものになっていきます。通常の言語表現は、その両者が合わさって成り立っています。
ここで僕はまた、ひとつの例をお見せしたいと思います。アイルランドの詩人W・B・イェイツの自伝的小説『まだらの鳥』の一場面、主人公の少年が、物置小屋で、ある小さな絵を見つける場面です。(資料☆2)

Stefan Lochner
≪Madonna of the Rose Bower≫
ca.1448
Mixed media on wood, 51 x 40 cm
Cologne, Wallraf-Richartz Museum
≪Madonna of the Rose Bower≫
ca.1448
Mixed media on wood, 51 x 40 cm
Cologne, Wallraf-Richartz Museum
W・B・イェイツ
『まだらの鳥』
それは、頭にはルビーとサファイヤを散りばめた王冠を戴き、胸には、ルビーとサファイヤが、琺瑯彩色をほどこした一角獣をとり巻いているブローチを着け、膝の上にはリンゴを持つキリストを抱いた、青い衣装の処女マリアの絵だった。彼女の向こうにバラの格子棚があって、そのバラの前のあちこちにエルサレムの百合が伸びており、彼女の足下には雛菊に被われた草むらがあった。どのバラもどの百合もまるでそれだけが絵の主題であって、あらゆる被造物の中でもっとも価値があるように描かれていた。絵の片隅には小さな天使がオルガンを弾いており、その天使の上ではほかの天使たちが処女マリアを拝んでいた。反対の隅には、小さな天使がハープを奏で、その回りでは、ほかの天使たちがキリストの方に向かってリンゴの入った鉢を差し出していた。処女マリアの頭上では、小さな天使たちが、この部屋のがらくたの中の綿に類似した綿のカーテンを引きあけていた。(W・B・イェイツ著/島津彬郎 訳『まだらの鳥』人文書院、1997、pp.26-27)
この文章は詩ではないのですが、ハラーの詩のように静止的な対象を静止的なまま描いているわけではありません。ハープを奏で、カーテンをひきあけ、リンゴを差し出す天使たち、まるで絵画が動き出したかのようにすら感じられます。それでも、細部の正確な描写、瞬間的に全体像を把握できるという点において、絵画には及ぶべくもありません。そもそも、この文章は元の絵画を模倣したものなので、元の絵画に劣っているのは当たり前だという批判もありえますが、この例を持ち出したのは言語の特性を見ることが目的なので、その点はご容赦下さい。ともあれ、それにも関わらず、この文章には元になった絵よりも心に訴えかける箇所があるように僕には思えます。それは「どのバラもどの百合もまるでそれだけが絵の主題であって、あらゆる被造物の中でももっとも価値があるように描かれていた」という一節です。この一節は、明らかに主人公のマイケル少年(つまりイェイツ本人)が感じたことを書いています。この瞬間、言語は対象を描写する記号としての透明性を失っていながらも、言語表現それ自体の力強さによって元になった絵画を乗り越えるのです。これこそがバークの言う言語の情念喚起機能ではないでしょうか。
バークは、このような言語特有の特徴を前にして、詩人が詩を書くときは、あえて対象について感じたことを記述することに集中すると考えていました。では、同じイェイツによる『エドマンド・デュラックの描いた黒いケンタウロスの絵を観て』を引用してみましょう。こちらは小説ではなく詩です。
W・B・イェイツ
『エドマンド・デュラックの描いた黒いケンタウロスの絵を観て』
おまえの蹄は森の黒々とした境を踏み鳴らしてきた不気味なみどりの鸚鵡が呼びかけ、枝ゆする奥地までもわたしの作品はことごとく踏みにじられて灼熱の泥の中わたしはその乱痴気を知っていた 剣呑だと知っていた健全な陽光が実らせたものだけが人を健全にする食物ほかにはありえない なのに或るみどりの翼のせいでわたしは半狂乱になり 茫漠とした狂った暗闇のなかでむかしのミイラ小麦を拾い集め一粒一粒粉にひいてそれをかまどで時間をかけて焼いた だが今のわたしは芳醇なうま酒を樽から汲みだす この樽をみつけたのはエフェソスの七酒豪が眠りこけてアレキサンダー帝国の滅びたのも知らぬまま 熟睡していた洞穴のなかでだケンタウロスよ 手足伸ばし黄金時代の長い眠りをとれともあれ わたしは おまえをわが魂よりも愛してきたそれにわたしほど根気強く眼を見張って あの不気味なみどりの鳥を監視するにふさわしい者はないのだから(W・B・イェイツ著/鈴木弘 訳『W・B・イェイツ全詩集』北星堂、1992、p.133)
さきほどの『まだらの鳥』と同じように絵画を見て書かれたにも関わらず、この詩にはほとんど描写性(バークに従えば表象喚起機能)というものがなく、イェイツが絵を見ながら感じられるがままに詩を詠んでいるということがお分かり頂けると思います。
小田部氏は、プラトン以来「模倣」が芸術を特徴づける概念だったが、バークの考える詩人のような「自らの感情を通して世界を作品へと変換させる芸術家の存在」が芸術一般に対して適用される時、作品を統べる主体としての芸術家という近代的理念が誕生したと言います。